いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

開墾。人類がどれだけ苦労して土地を切り拓いてきたのか。

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今日は生きてる。明日も生きてる。来月も来年も。同じ日が繰り返す訳じゃない。毎日アート活動をしているけれど、毎日絵を描く訳じゃない。絵も好きだけれど、文章を書くのも好きで、こうして誰かに何かを伝えるのも好きで、何がアートなんだろうか、生きるとは何だろうと哲学するのも好きだ。

でも、皆んながそんなことを考えている訳じゃないし、今の時代にはあんまり必要とされていないのかもしれない。ニーズのありなしは、たいした問題じゃなくて、自分が心地よい環境をつくれているのか、その話しをしてみよう。

 

今日は朝からサーフィン出掛けた。家からクルマで15分にサーフスポットの長浜海岸がある。近くに海があるから、たまたまその海岸でサーフィンを始めたのだけど今日は波がなかった。だから、家に帰ってチフミと朝ごはん食べてアトリエに出勤した。別のサーフスポットをチェックしながら。

ぼくは38歳の時に絵描きになろうと思いついてアーティストになることにした。サーフィンは44歳の去年から始めた。

お金を増やしていくとか、社会的な地位を獲得するとか、競争に参加しなければ、単に生きていくことを目標にすれば、いろんなことに挑戦できる。勝ち負けではなく、自分が楽しいかどうかが判断基準になるのだから。ビリでも最高だったりする。競争相手がいないのだから。

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アトリエに着けば、妻のチフミもぼくもやりたいことにまっしぐらだ。まずはキャベツの苗に紗をかけて虫除けをした。それからエンドウ豆に支柱を立てた。廃棄物のタイヤを使ってトマトを植える場所を作った。そうやって今は畑をつくるのが楽しい。どう考えても絵を描くことよりも野菜を育てる方がクリエイティブだと思う。比較することじゃないけど、大地に向き合うことは自然の摂理に触れることで、命を育むことだ。

 

昨日、畑を作っていいと言われた場所を開墾した。荒地を鍬で耕した。荒地を整地する。かつて人類がどれだけ苦労して土地を開墾して、その生活するという営みの歴史を編んできたのか。

 

食べ物をつくることは人間の営みの根幹にあると思う。大地を耕すことはトレーニングにもなる。汗をかく。けれども、まったくお金にならないことをしている。でも、自然と向き合って生きることがアートのインスピレーションにもなる。

何より、大地を耕して食べ物をつくることは、人間が生きるための環境をつくるという、まさに生きるためにする生命活動の原点にある。極端な話、これができれば、税金や携帯代とか、仔細な支払いを放棄してしまえば、人間は生きていける。

ぼくは、この立ち位置を求めて、生きるための芸術というコンセプトを作った。それは誰でも望めばライフスタイルをつくれるというメッセージだった。

けれども残念ながら、ぼくができたのだから誰でもできるよ!と言うと石渡さんはアーティストだから、才能があるから、と言われてしまう。

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誰でもできないことでもないし、もちろん誰でも彼でもやろうぜ!という話しでもなく、自分が望んだことは、どこまで踏み込んでも、嫌なことにノーと答えても挑戦して失敗しても大丈夫だと言いたい。田舎に行けば、土地はある、家もある、野菜も育てられる。アルバイトもある。ぼくのしていることは、セイフティーネットを示すことでもある。人間どうやったって希望さえ持っていれば生きていけることを。

大地を開墾して食べ物をつくるということは、まさに生きるチカラを持つことだ。

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