いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

沖縄・国家・フェスティバル・生活者からのメッセージ(前編)

東京、代々木公園で、3月30日、31日にトークをした。春風というフェスで、ぼくは90年代から関わっている。もう20年もむかしのこと。大学生で音楽が好きで、まったくポップではないバンドをやっていて、シンセでノイズを出していた。とにかく音楽が好きだっから、片っ端からなんだって聴いて、面白そうなイベントがあれば海でも山でも雪が降ってても足を運んでいた。行った先でも、全力で楽しんでいると友達ができた。行くほどに、知り合いは増えて、やがてイベントを主催する人たちにも知り合った。

その人たちは、PAという音響屋さんや、ステージを取り仕切る舞台監督、VJと呼ばれる映像技術者、照明、楽器屋さん、オーガナイザー、音楽家、ステージ装飾のデコレーションアーティストだった。日本初期野外テクノフェスティバルRAINBOW2000や、フジロックフェスティバルなど、2000年代はいろんなフェスの出演者として、また裏方として関わっていく人たちだった。

ラッキーなことに大学生のときに、こうしたフェスティバルという文化が立ち上がってくるシーンに関わることができた。春風も、その人たちが始めた祭りのひとつだ。

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野外で音楽イベントを開催するには、ステージから音響設備、電源、照明、すべてを運んでくる。二泊三日とかで設営して、たった一晩だけ夜通しでコンサートをやって、翌朝から解体して、トラックに積み込むまでずっと働く。キツイ仕事かもしれないけど、準備から撤収するまで、いろんなトラブルを笑い飛ばしながら片付けていく姿はカッコよく憧れた。

ほとんどの人が遊び疲れてボロボロのところに片付けが始まる。誰よりもタフな男たち。4人で動かすほど巨大なスピーカーを、パズルのようにトラック満載に隙間なく積み込む。ゴミひとつ残さずに何も起こらなかったかのようにイベントは消えてなくなる。まるで、一晩だけ現れる幻の都市のようだった。 いまでも春風は、代々木公園に開催日の二日前から設営され、イベントが終わった翌日には消え元の代々木公園に戻る。

20代のはじめにお手伝いで関わらせてもらっていたぼくは、今40代半ばになって、ちょうど、フェスを立ち上げていく先輩たちに出会った頃の年齢になった。そして時代は平成から令和に変わる。

 

あれから20年して代々木公園でトークするためにステージに立っている。1日目は、沖縄の高江に暮らす音楽家、石原岳さんとラッパーの大袈裟太郎さん、ジャーナリストの渡瀬夏彦さんらの話。

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100人ほどが暮らす沖縄の自然豊かな集落にヘリパッドが建設されることになる。元から暮らしている住人や魅力を感じて移住してきた人たちは、当然ながら嫌だと感じる。2006年、反対運動が始まる。ところが機動隊が500人もやってくる。ラッパーの大袈裟太郎さん、ジャーナリストの渡瀬夏彦さんは、反対運動の頃からこの問題に関わるようになる。結局、国家権力は小さな声を押し潰して、ヘリパッドは建設されてしまった。

そしていま、辺野古に基地が作られようとしている。選挙では、基地反対を公約する知事が当選した。それでも基地建設の計画は止まらなかった。沖縄の県民投票が行われた。70%以上が反対したにも関わらず、工事は始められた。f:id:norioishiwata:20190403181905j:plain

石原さんたちは、沖縄の問題と共に生きている。石原さんは「沖縄から東京に来て街を歩くと、沖縄のこととこの街の人はまったく関係ないように思えてショックを受ける。毎回、東京にくる度に」と話した。

そして「沖縄のことに関心を持ってくれ、これは沖縄の問題じゃない、日本の問題だ」と訴えた。まさに訴えるという表現がぴったりのトークだった。

 たしかに沖縄の問題は、たまたま沖縄で起きただけで、同じことはどこの自治体でも起きる。福島だって何も解決していない。つまり、ぼくたちには国家に対してノーという手段がないことを証明している。

だとして、ぼくはどうすればいいのか。考えてしまった。すべてを投げて辺野古で抗議すればいいのだろうか。

(後半へ続く)