いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

「人間と技術ー生の哲学のためにー」

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久しぶりに本を読み終えた。
「人間と技術ー生の哲学のためにー」
O.シュペングラー
1931年に出版。
昭和6年

この本は、工業化が進み、人間の暮らしが自然から離れていくような時代に書かれている。
「技術」とは何か。

シュペングラー先生は、便利になるための技術なのに、便利になるどころか、人間がその技術に酷使されていると警告している。

なんで、そんなことになるのか。
その原因について思考を巡らす。ひとつには人間が肉食系動物だからだと言う。
肉食系動物にとって、世界は狩猟の対象でしかない。己が生きるための。人間は、世界を侵略してきた。最大の敵は自然だった。どうすることもできず、ただ翻弄され殺されるばかり。ほんの僅かな人間しか生き残れなかった。けれども、人間には、極端に発達した「手」という武器があった。

人間は火を熾す「技術」を手に入れる。カミナリに打たれた木が燃える様を観察したのだろうか。

「手」は人間に富をもたらした。
狩猟する「技術」は発達して、また食べ物を栽培する「技術」も発達し、自然の驚異から身を守る「家」も発達した。
人間の数は増えて、食べ物も蓄えるほどになった。

山の向こうには何があるのだろうか。
海の向こうには何があるのだろうか。

人類初の冒険家が見たのは、自分たちとは似て異なる富を蓄える人間たちだった。

人間は肉食系動物だ。
こうして人間の侵略の歴史が始まる。

「技術」は、それだけを捉え観察するなら、人間を豊かにする。けれども人間が「技術」を手にした途端に、人間は「技術」を使って、より富を得ようとする。つまり、人間を支配しようとする。

なぜなのか。
人間は肉食系動物だから。

O.シュペングラー先生は、
肉食系動物は、独立した存在だと言う。なぜなら、目の前に広がる世界は、すべてが狩猟の対象であり、生きていくことは、勝ち続けること。だから、何者にも追従する必要がない。人間が肉食系動物であるならば、人間は独立した存在であり得る。

けれども現代社会の中で、独立した存在であることは難しい。なぜなら、社会という仕組み自体が「技術」を持たせないように構成されているからだ。つまり、ぼくらは支配される仕組みの中に暮らしている。

本来、生きていくための技術は、貨幣経済とは関係のないところに存在している。貨幣を獲得するよりもっと手前で手に入れることができる。


魚を捕る技術
野菜を育てる技術
動物を狩る技術
水を手に入れる技術
火を熾す技術
家をつくる技術

ところが
現代社会では、魚を捕るなら、それが幾らになるのか計算させる。野菜を育てるなら、それが幾らになるのか、どうやったら、もっと高価な野菜になるのか思考させる。
魚を捕って食べるのではなく、魚を売ってお金を手に入れて食べる。家を建てられるなら、どうやって豪邸に仕立て上げるのか。

肉食系動物としての目的は、とっくに達成しているのに、別の何かを手に入れるためにさらに狩猟を続ける。
これが人間だ。

O.シュペングラー先生は、
この人間の性とも言えるどうしようもない性質について「抵抗」し続けるしかない、と説いている。
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われわれは、この時代に生まれたのであり、そしてわれわれに定められているこの終局への道を勇敢に歩まなければならない。
これ以外に道はない。
希望がなくても、救いがなくても、絶望的な持ち場で頑張り通すのが義務なのだ。ポンペイの城門の前でその遺骸が発見された、あのローマ兵士のように頑張り通すことこそが。

彼が死んだのは、ヴェスビオ火山の噴火のときに、人びとが彼の見張りを交代させてやるのを忘れていたためであった。

これが偉大さであり、これが血すじのよさというものである。この誠実さは、人間から取り上げることのでき<ない>、ただひとつのものである。
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今から90年前に書かれた本。
人間は何も変わっていない。何をも社会をよくすることはない。けれども、個人がただ「誠実」に生きることだけに望みがあるのかもしれない。

だから
生きるために
手を動かす。