いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

目が覚めたら走ること

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朝起きて走るようになった。寒い朝、布団から出る戦い。何を温いことを言ってるのか。いや、自由になるほど自分を動かす技術が必要になる。いくら寝ても働かなくてもよい日なのに、いくら怠けてもよい日なのに、それでも起きて走りに行く。何のためにか。自分を動かすために。朝の寒い時間に走れば、一日中寒くは感じない。やろうと決めたことをやるようになる。

今日は、北茨城市での「アートによる町づくり」のツアーの日。ぼくら夫婦は、古民家のアトリエで、家の改修のワークショップを担当している。チフミは障子の張り替え、ぼくは嵌め殺しの窓づくり。ところで「嵌め殺し」ってすごい単語だな。

次の物語が始まっている。自分の頭の中で、自然を利用して、経済的負担を減らして生活したいという願望がある。結局、お金を稼げば、稼いだだけ必要になる。つまりもっと必要になる。だったら、生活に必要なことは自然から頂いて、お金がなければできないことはお金で解決すればいい。農業でもない。自給自足でもない。半農ですらない。

今年、畑をやってみて、簡単に育つ野菜があった。ジャガイモ、小松菜、カブ、大葉、バジル。夏は魚アジを釣った。秋には柿が実る。地域の人がお米を作っている。ぼくは作らないけれど、そのお米を買える。水は井戸。冬は暖房の燃料費を考えたい。やっぱり薪ストーブだろうか。

急激にハンドルを切るのは危ない。ぼくは作りたい。何を買っても買わなくても自由なのだから。自分が快適に楽しく過ごす手段をみつける。ぼくの周りにはパーマカルチャーをやる人が多い。それはそれでいいけど、教科書を真似ると、息苦しさを感じる。ゴールがない。自分で考えてみつけたやり方が、ゆっくりだけど、自分の道を発見できる。

ぼくはアート作品をつくるけれど、これは毎日を創作して過ごすための儀式。鍛錬。作品はその副産物。メインは日常をアートにする努力にある。生活をつくる。その積み重ねが人生をアートにする。

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鳥取で古本屋を開業した人がtwitterで「雪に生きる」という本を紹介していて、早速amazonで注文した。届いてすぐにページをめくると90歳の作者が語り始めた。90歳だ。目標ができた。ぼくは90歳まで語り続けよう。そこから見える景色を伝えてみたい。

時間があるとき「新復興論」小松理虔(こまつ・りけん)著を読んでいる。いわき市に住むローカルアクティビストの本。簡単に説明するなら、福島県いわき市に住むまるで友達のような彼が、体験した震災後の福島と放射能について語る。もし友達が福島県にいたらどう感じているだろうか、という視点で読めば、ひとつの答えがここにある。賛成反対ではなく事実として起きたこと、今もある問題に対してどのように向き合っていくのか。そのサンプルがここにある。

ネットを開くと、辺野古基地の埋め立て問題が飛び込んでくる。ほんとうに苦しい。沖縄県は民意として、知事を選んで正当な手続きを踏んでNoと意思を示した。それにも関わらず国家は、辺野古の海を埋め立てる。どんな政治的なイデオロギーの違いをも超えて、ぼくはいつも自然の側に立っていたい。ぼくら人間は自然がなければ生きていけない。海がなければ、森がなければ、大地がなければ、ぼくらは生き延びることができない。ましてや、ぼくらが生きる時代だけでなく、その先のずっと未来に対しての責任がある。

ぼくは、この違和感に行動と態度で答えるためにアートを表現する。ぼくが最も表現したいのは、人生だ。人生を作っている。特に何も予定もない暇なとき。これほどクリエティブで自由な瞬間はない。その時間を自在に操るために、ぼくは目が覚めたら走ることにしている。