傑作の影にあるほんとうの名作たち

今日は上野の国立博物館に行くことにした。クルマもあるけれど、日常を体験するのもまた旅だから電車に乗ることにした。そうすれば、アイルランドから来た友達トムが田舎と都市の両方を体験できる。

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家から駅まで歩く途中、トムはウクレレを弾きながらハーモニカを吹いた。駅前でもホームでも、電車の中でも演奏した。多くの人は何も起きていないかのように無視する。子供は素直に反応する。目を丸くして外国人が奏でる音に興味を示す。電車の中でもほとんどの人は無視。若者が拍手でリズムを取ってから雰囲気が変わった。車内が明るくなって笑顔が溢れた。小さな出来事だったけれど、何かが変わる瞬間、これもアートな何かに遭遇していると感じた。

どこかの駅にムンク展の看板があるのを見たトムが「ムンクは精神を病んでいながら、どうやって制作してきたのか知りたい」と言った。ムンクに興味はなかったけど有名な「叫び」しか知らないので、上野国立美術館に行ってみることにした。

幾つかの作品を見て、名画とされる「叫び」ムンクの一部で、あまりにそれが有名で、それを知ってるからムンクを知ってると思っていた自分がアホに思えた。というか世の中の全てに対して、そんな程度しか理解していない自分だった。

初めて出会うムンクは、人生をアートに賭けている冒険家だった。たまたま「叫び」という話題作を生み出したことで有名になって、けれどもその後にこそ、紆余曲折を経た傑作の数々があった。

ムンクは、ひとつのモチーフを様々な手法で繰り返し描いていた。油絵、版画、リソグラフエッチング、繰り返すことで、モチーフは洗練され記号化していく。上手い下手を超えた単純なカタチと偶然と色のハーモニーを楽しんで制作しているようにも思えた。ひとつのテーマは何十年後にまた違った手法で制作されていた。ぼくはムンクという人の生涯を1時間くらいで、しかも展示を企画した人がまとめた断片に触れた。凝縮されたムンクの展示から学ぶことがたくさんあった。ひとつの作品を芸術表現の到達点として語るよりも、ひとりの人間が生涯を賭けて何を表現したか、その軌跡を辿ることがぼくにとってのアートだと改めて実感した。つまり、レコードやCDに記載されているライナーノートが自分のアートの原点にある。生きることとアートは無関係ではいられない。

ムンク展の後、上野のアメ横を歩いた。ここでもトムは音楽を奏でながら歩いていた。無視する人がほとんどだった。その中で笑顔になったり話しかけてきたりする人は、心に余裕がある人に思えた。ぼくたちのずっと前を歩いていた杖の老人が倒れた時も同じだった。ほとんどの人は面倒を避けるように無視して、駐車禁止を取り締まる人が、その倒れた老人を起こして支えていた。

アメ横でご飯を食べているとき、トムは店員の女の子をスケッチした。絵が仕上がると、店員さんにプレゼントした。忙しく働いていた店員さんに笑顔が溢れ空気が明るくなった。

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トムは帰りの上野駅のホームでも演奏を続けた。仕事帰りの時間だから、みんなシリアスな顔をしていたけれど、トムの音楽を聴いて笑顔になる人がいて、その笑顔はとても素敵だった。性別も年齢も超えて。

アイルランドからやってきたトム・キャンベルは、歩きながらパフォーマンスして、席に着けばスケッチをして、そのどれもが周りの人たちを楽しませた。トムの絵や作品は、技術がどうのとか、作品がどうのという秤にかけて計られれば、点数は高くない。未完成なことも多い。けれども、どんな点数の高いアートでも描けない何かを表現している。トムの表現には、目の前にいる人を純粋にするチカラがある。この表現を何と呼べばいいのだろう。弱い人の側に立つような社会の片隅を照らすアート。まだ言葉にない。もう少しトムと過ごしたら名前がみつかるかもしれない。アートはいつも新しい居場所を求めている。その場所をつくり名前を与えるのもアートの仕事だと思う。

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