いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

「生きるための芸術」とは何か。

12月に個展が決まった。会場は、有楽町マルイ。よしもとクリエイティブ・エージェンシーのアート部門で働く友人が一緒にやろうと誘ってくれた。ギャラリーではないけれど、素晴らしい会場に決まった。

個展のタイトルを「生きるための芸術」にしようと妻のチフミに話したところ、昨日の夜、チフミは難しい顔でメモをしていた。どうしたのか聞くと、チフミは「生きるための芸術がどういうことなのか分からない」と言った。


そうやって会議が始まった。
そもそも「生きる」とは何か、「芸術」とは何かの話。
ぼくには、なぜ生きることと芸術が区別されるのか分からない。
チフミは、なぜ生きると芸術が結び付くのか分からない。

☆☆


こう説明した。
「芸術」はかつて「技術」と同義だった。アートの語源はアルス。技術とは「つくる技」のことで、職人さんはそれを持っている。例えば、かつて家はみんなほぼ同じカタチをしていた。想像力は必要なかった。けれども、もっとこうしたいという欲求が現れて、それを実現するために想像力が必要になった。ぼくは、そこに分岐点があったと思う。想像力を持つ技術者は、もっと欲望を満たしたいパトロンに囲われ、仕事をしながら更に新しいモノを作ろうとした。

現代では、技術と想像力があっても、それではまだアートにならない。
(ちなみにここではアートと芸術を同義で扱うので、そのつもりで読んで欲しい)

じゃあ、どうすればアートになるのか。それには他者の評価が必要で、作られたものをこれがアートだと誰かが認める必要がある。

例えば、ヘンリー・ダーガーは部屋に篭って絵を描いて作品を残したまま孤独死した。死後に作品が発見されたけれど、もし発見されなければ、ダーガーの絵はアートにならなかった。発見され、その絵に意味が与えられ、つまり評価され歴史のなかに位置づけされて、彼の表現はアートになった。

チフミ「じゃあ、誰かに評価されないと芸術ではないってこと?」

ぼく「そう。例えばマルセル・デュシャンはこう言ってる。作品がアートになるには、蜜蜂の作った蜜が精製されてハチミツになるように、人々に鑑賞されなければならないと。つまりアートは社会の中でしか機能しないということなんだ」

チフミ「じゃあわたし達の作品も誰かに評価されなければアートではないってこと?」

 ぼく「そう。だからぼくは文章を書いている」

チフミ「じゃあ、ノリは自分で自分の作品を説明しているということ?だけど、誰か他の人が評価しないとアートにならないんじゃないの?」

ぼく「そう。更にややこしい話だけど、作品を説明している訳ではなくて、新しいアートの概念を作っているんだ。だから、ぼくたちの作品とぼくが書くことはイコールではないんだ」

チフミ「え?よく分からない」

ぼく「今話しながら分かったんだけど、チフミは、ぼくよりもずっと純粋に表現していて、チフミには他者の視点がないんだ。ただ作っている。だからずっとアルスに近い。職人側。ぼくは、書いたり考えることが好きだから、ぼくたちの表現を他者の視点で語ってアートに近づけようとしている。それがすぐにアートとして認められるか分からないし、死んだ後かもしれないし。それでもぼくは今の時代にこれが必要なアートだと信じて生きるための芸術を提案したいんだ」

チフミ「そういうことなんだ。つまり芸術を分解すると「技術+想像力+他者」。わたしは、技術+想像力だけだから、他者の視点である生きるための芸術が理解できなかったのね。わたしには元々そういう考えはないもんね。ノリの言うアートが何かは分かったけど、じゃあ、どうして芸術と生きるが結び付くの?」

 ぼく「芸術は人間がつくるものだけど、それがどうやってつくられるかは問われないでしょ。技術的なことではなくて、どんな生き方をして作られたのかって話として。でも、作られる作品とその人の人生は繋がっている訳で。ぼくは生き方も表現の一部なんだと言いたいんだ」

チフミ「なんか難しい」


ぼく「生きることと芸術は、それぞれ別だと考えられているよね。それが当たり前だと思う。だからチフミは理解できない。それでいいんだと思うよ。だけどアートには、新しい領域を開拓する一面もあるんだ。つまり◯◯◯という理由でこれはアートだと説明すること。その新しさが芸術である/なしを決めるポイントでもあると思うんだ。だから、ある意味でゲームのような側面がある。しかも、それは常に提案されていて。常に新しいアートが世界の至る所で評価されていて。あまりにも有名になれば、ぼくらの耳にもその表現や作者の名前が伝わってくるけど。アートには答えはいくつもあるし、常に変わっていくんだと思うよ。だから難しいことになるね、答えがないんだから」

チフミ「じゃあ、説明できて認められれば何でもアートになるってこと?」

ぼく「そう。論理的に説明できて、それに納得する人が大勢いれば。でもそれは簡単なことじゃない。例えばヘンリー・ダーガーの作品を発見して意味を与えた人によって本が出版されたり展示されて世界中に広まったわけだよね。奇跡に近い出来事だよ。ぼくの場合は、生きることがアートであるという考え方を作った。ぼくはチフミと一緒に作品をつくる。ぼくたちの日々の暮らしの中から作品は生まれてくる。日々の体験や考えることが作品に影響を与えている。だから人生も作品の一部だと言える。それを世の中に問いたいと思っている。これはチャレンジでもある。伝わってる?」

チフミ「じゃあ、夫婦でやっていることがわたしたちにとっての芸術ってこと?」

ぼく「そうかもしれない。環境を作ることもアートなんだと思う。作家は、作品をつくると同時にその生活環境も作っている訳で。社会的に評価されれば何をやっても芸術家として認められるかと言えば、今はそうかも知れないけど、それって美しいと言えるのかな? ヨーゼフボイスは、社会彫刻って概念をつくって、人間は誰しも生命活動のなかで、社会を作り変えることができるとメッセージしたんだ。つまりアーティストとして生きるために、ぼくたちがしてきた空き家を改修したり、食べ物をつくったり、地方に暮らして活動しやすい環境を手に入れる活動もアートの一部だと言えると思うんだ。大地に種を撒いて芽が出るように、アーティストがどんな環境に生きて、その作品が誕生したのかを問うことは、これからの未来、考えられるべき大切なポイントだと思う、もちろん、これはアーティストに限らず、すべての人の問題だけれど、それを漠然と言っても伝わらないから、アートの表現として実践している。アートとしてなら理解される可能性もあると思っているんだ」

チフミ「じゃあ、生きるための芸術っていうのは、生活しながらつくるアートっていうこと? 」

ぼく「そう。すごく当たり前のこと。実は。生きるって人間にとって普遍的な問題だし、それが芸術と結び付かないワケはなくて。それを証明することは、アートの歴史的に見ても意味のある開拓だと思うんだ。もちろん、そのためには、作品も生活のひとつひとつも磨かなければとてもアートだとは伝わらないけどね。ぼくたちは、それをやろうとしている。生きていることと表現活動が同じ根にあるなら、すべての表現が生きるための芸術になるんだ」

チフミ「ノリは何のためにそれを言いたいの?」

ぼく「生きるについて考えることは何となく避けがちだけど、本当は最も大切なことで。アートを通じて、それを伝えることが自分の仕事だと思っているんだ」

☆☆☆


ぼくたち夫婦は、昨晩こんな会話をした。ぼくは、アートとは社会への問いと実践だと思う。作品はそれを伝えるためのツール。言葉は作品に意味を与えてアートへと昇華させるツール。ぼくたちは、まだまだ「生きるための芸術」の途中段階にいるけれど、ぼくらの表現がより多くの人の目に触れて、心を動かし言葉になって社会にとって有意義なアートへと成長することを願って2019年12月8日(土)~12月16日(日) 有楽町マルイ8F 催事スペースにて個展をやる。ので、ぜひ足を運んでください。展示までのあれこれを記事にしていこうと思います。

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(続く)