なぜ絵を描くのに文章を書くのか。

どうして複雑になっていくのだろう。難しさは、結ばれた糸を解くように単純化できないのだろうか。欲望は留まることを知らない。ひとつ夢が叶えば新しい欲望に飲み込まれて消えてしまい、さも当たり前のように叶ったときに感じた喜びや感謝を忘れてしまう。

成功しているような人でも幸せに見えなかったりする。別に有名でも何かを成し遂げていなくても幸せそうな人もいる。生きることの難しさは、そういうところにあると思う。

何を望んでいるのか。自分が自分を知らなければ、幸せを見失ってしまう。絵を描いていたいと思う。何よりもそれが平和なことだから。暴力的な欲望をアートに封じ込めたいと思う。けれども、それすらコントロールできなければやっぱり欲望に飲み込まれてしまう。

ぼくは絵を描くことと同じくらい、考えること、文章を書くことが好きだ。いくら言葉で表しても何かを捉えることはできない。言葉とモノは、別々に存在している。感情や思考も別々に存在している。人間同士で理解し合うには言葉を使う。言葉という道具を利用するしか意識疎通する手段がない。つまり、自分と意識疎通する手段も言葉しかない。だからぼくは書く。

ぼくは芸術という表現を通じて人間という現象を表してみたい。向き合うべき課題であり、理解しなければ、より複雑になって、人類は欲望に溺れて自らを滅ぼしてく。個人であれ社会であれ。社会という現象も人間が作っている。誰が? そこに参加する人々の行動が作っている。にもかかわらず、人間は悩み苦しんでいる。その悩みや苦しみを取り除くことへの欲求はあまりない。人間が人間を痛めつけている。むしろ、複雑さを加速させているようにも見える。何処へ向かっているのだろうか。

人間が快適に心地よく生きていた時代は、すでに過去のものとなっている。というか過ぎてから気づくというのも人間の愚かさでもある。失ってから大切さに気づくことばかりだ。失っていることすらも忘れて、もっともっとという欲望に急き立てられ、ゴールも勝ち負けのルールもない競争の中で静かな暴力が荒れ狂う。文学が伝えてきた人間の愚かさはどうだろうか。小学校で習った国語の教科書を読めば、どうだろうか。人間としてあるべき姿が浮かんでこないだろうか。ノーベル文学賞は飾りなのだろうか。

集団になるともう手がつけられない。欲望が絡み合って解けなくなる。もう誰の声も聞こえなくなり、怒り、憎しみ、不満、妬み、裏切り、嘘、メディアを通じて伝わってくる言葉の数々。こう感じるぼくが狂っているのだろうか。

メディアの向こう側から伝わってくる言葉に違和感を覚える。テレビなんて恐ろしくて正視できない。理想がない。解決するつもりがない。正義がない。答えは、ずっと遥か彼方に消失している。ぼくは、そっとその答えを求めて暮らしの単純化を試行している。東京から地方へ引っ越して、狭い家から広い家へ、コンクリートから大地へ、消費から生産へと、世の中とは逆行するように生活を作り直している。ルネッサンス。再生。100年持続する暮らしを作っている。

情報革命は、時代も場所も超えて必要なだけの手段や方法を与えてくれる。明治時代にも行ければ、アフリカ大陸にも行ける。食べ物の採取方法も分かれば、家の建て方も学べる。行動さえすれば。だとして、ぼくが狂っていて間違ったことをしているなら、やがて忘れられ消えていくだろう。

大学の先生が2000年頃にこう話してくれた。
「これまでの情報はトップダウン。上に立たなければ、言葉を世の中に伝えることができなかった。けれども、これからはボトムアップの時代。つまりコーヒーでのドリップ式からサイフォン式へと時代が変わる」

90年代以前だったら、ぼくが書いている文章は、ある程度の権威の了承を得なければ、拡散できなかった。つまり雑誌や小説や、商業としてのフィルターを通さなければ。けれども今は、こうして何百人に伝えることができる。

だとして何が変わるのか。ダムが決壊したように言葉が溢れて、嘘も本当もごちゃ混ぜになっている。嘘も本当も分からない時代に生きている。

つまり、この時代のアートも同じこと。何がアートなのか答えがない。90年代以前ならば、雑誌やギャラリーや美術館の作品や批評家の言葉が基準になった。けれども今の時代は、偽物も本物もなくただ溢れている。誰かにとっての宝物はゴミだと批判される。

だとすれば、ぼくは感じるしかない。感じたことを表現する。言葉にする。何も参照も参考もしない。歴史から文脈から自らを断ち切って、狂っていたとしても感じるままに表現する。社会のあらゆる複雑さに接触しないで純粋な生命活動を営む。何十年も何百年も前に到達していた人間が幸せだった理想郷に生きる。

ぼくの言葉は表現や行動に先行している。なぜなら理想を語るから。この言葉たちはぼくの理想であって、誰かの価値を否定や批判するものではない。ぼくは生き方について考えている。だとして、作品に言葉はいらない。作品空間に広がる景色が、鑑賞者の眼差しを捉えて離さない罠が仕掛けられれば、作品の企みはある程度成功している。捕らえられた眼差しは、作品空間の向こう側に何かを感じる。鑑賞する人と作品が真っ直ぐに繋がったとき、そのとき初めてぼくは、作品を表現できたということができる。作品にぼくの言葉はいらない。そこから言葉を消すためにぼくは書く。