いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

美しい絵はヘタクソでも美しい

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今週は北茨城市の老人ホームで、ガーランド(旗)作りをしている。キャンプとかイベントで見る三角形の旗。これを10キロメートルまで伸ばそうとしている。達成できるかは、さほど問題ではなくて、いろんな場所でいろんな人と創作する時間を過ごせることが楽しい。

90歳の田村さんは、急に席を立ち上がり「役所へ行かなければ」と言う。なぜかと聞けば、弟がいると言う。きっと役所と弟は田村さんにとって大切な何かだったんだと思う。大切なことは記憶に刻まれ生涯残るんだ、きっと。

旗の作業は難しくない。けど、年齢によって「できる/できない」の差がある。決められた作業ができても絵が描けない人もいる。絵が描けるけれど、決められた作業ができない人もいる。お年寄りや子供は絵を描ける。すぐにサラサラを描く。上手いとか下手の判断がない。「できる/できない」の判断ができる人は、絵が描けない。失敗するのが分かるから手が止まる。だからチフミはスタンプを作って、誰でも気軽るに参加できるようにした。

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「できる/できない」の判断は人間を区別する。老人施設にいる方々は「できない」ことが多い。だから施設にいる。90歳とか97歳とか。ぼくもやがてそうなる。ぼくは絵を描くことを選んだからこの先、何の保障もない。だから、90歳とか97歳になっても絵を描く。生涯仕事をする。友達は60歳になったらリタイヤして好きなことをすると言う。どっちがアリでどっちがキリギリスなんだろうか。

なぜ人間はそんなに長生きするようになったのだろうか。そんなとき映画「楢山節考」を思い出す。70歳になると、姥捨山に息子に背負われて捨てられる村の話だ。延命とかなくて70歳で一斉に人生が終わるなら単純な話だ。思うのだけれど、今92歳の人は大正15年生まれ。今日話をしてくれたお婆さんのご主人はシベリアから帰還したと言っていた。この世代の人たちは体力と精神力が強いと思う。自然と共に生きてきたし、戦争も体験しているし。それに比べてぼくらの世代は、今のお年寄りのような老後を送れないように思う。精神的にも体力的にも弱いし、社会のカタチも歪んできているように思う。もしかしたら、老人が増えすぎて、合法的に命を絶つことが容認される未来もあるかもしれない。

「使える/使えない」とか「できる/できない」という枠組でしかモノを判断しないなら、その世界には美しさは存在しない。美しさは、もっと遠くの足元に輝いているのだと思う。見えるようで見えていないのだと思う。どんなにお洒落をしてもカッコつけても、中身は変わらないように、ありのままには敵わない。だから、ヘタクソな絵を描きたいと思う。それでも美しければ、それが真実の姿だと思う。

お年寄りとガーランドを作っていると涙が出てくる。自分の母も父もやがて歳を取り死ぬだろうし、自分も妻のチフミも死ぬだろうし、けれども、その瀬戸際まで生きるわけで、その瀬戸際がどんな状況になっているかは、全く誰にも予想できない。ぼくの目の前にいる御老人は、その瀬戸際に近く、命を燃やしている。その人が何かを創造するその瞬間は美しい。誰もが美しいのではなくて、理由は分からないけれども、何かのタイミングで美しさが輝いて、その光に触れると、生きることに打ちのめされて涙が出る。悲しいのではなくて、喜びに震えているのかもしれない。

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ぼくがやろうとしていること、やりたいことは「美術である」とか商売で成功するとか有名になるとか、そういうところから、やればやるほど遠くなって、流れるがままに向かって生きたい自分がいる。それが何処へ向かうかと言えば、死なんだと思う。死に向かって真っ直ぐ生きるほど美しいことはないと思っている。それは魂が望む方向にひたすら進むことで、たぶん、それをすれば、人間は生きられるのだと思う。死がやってくるまで。それを実証するために、ぼくは絵を描くことを選んでいるのかもしれない。その気持ちを確かめるためにこの文章を書いている。