いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

One of thesedays 68

朝、海へ。風があるのでサーフボードだけ持って行ったけれど、波がほとんどないので、引き返して、筏のペットボトルも運んできた。

海のうえを筏で歩く。アメンボみたいな。海から浜を見るとチフミがお爺さんとしゃがんで何かしている。話を聞くと、魚釣りの餌になる砂虫を探しているらしい。ずっと知りたかった、むかしのヒトは何を餌に釣りをしていたのか、答えがみつかった。何かをしているとき、別の何かを発見することがある。だから、行動する。やっていれば、何かに遭遇する。

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お爺さんと砂虫を掘りながら話をした。
「いわきに住んでいるけれど、随分変わってしまったよ。原発事故の影響でね。問題は放射能だけじゃないよ。避難地域のヒトたちは、一億円とかの大金を突然手に入れる。しかもたくさんの老人がね。まず何をするかと言えば、家を買う。それから高級な外車を買う。けれど、高級な外車はすべて自動で、表示も英語で読めないから、ディーラーさんをすぐに呼び出すんだよ。オマエが売った車だろ!とか言ってね。すべての人ではないけど、突然、大金が転がり込んでくると人間は変わってしまうんだね。わたしの家の近くに家を建てた人も、自治会にも入らなくてね、わたしは被害者だからと、助けてもらうことばかりを主張するんだ。わたしはおカネを貰う側ではなくてよかったと思っているよ。こうやって砂虫を掘る楽しみさえ消えてしまうだろうから」

 

おカネについて、考えているようで、すぐに忘れてしまう。あれば助かるけれど、欲すれば際限がない。人間が作った道具だけれど、人間を支配している。そもそも余剰生産物を交換するためにつくられた道具だけれど、農業技術が進んで、食べ物を保存できるようになったところから、貧富の差が生まれ、支配層/被支配層になったのだから、欲望はおカネの性質に備わっているとも思う。だから、うまく利用したいと思う。消費と生産のバランスを自分の暮らしのなかでコントロールする。スポーツ、何かの潔い競技だと思えばいい。

 

午後、山側のアトリエ、Arigatee の周りで、植物のスケッチをしたり、写真を撮ったりした。身の回りの植物をテーマに作品をつくりたい。例えば旅。旅とは遠くへ行くものと考えがちだけれど、近くも旅できる。普段、見落としていることがたくさんある。貨幣価値や常識から零れ落ちている事がたくさんある。北茨城市という場所も、名前で判断すれば、茨城県?北茨城? 茨城の北? 何があるの? という話になる。ぼくは、なんにもなくていいと思う。何もないところには自然が溢れている。何もないところには、まだ誰も価値を見出していない名前のない宝物が転がっている。それを絵にしたいと思う。チフミは歩きながら、桑の実を食べる。山育ちの人はよく知っていることだ。英語だとブラックベリー呼び名が変われば、なんだか魅力的な響きになる。

 

愛知の空き家改修の件で、電話をくれ、と施主さんからメールを貰ったのを思い出して、電話する。

「実は、昨日話して断わることにしたヒトにも作業してもらうことになって、石渡さんたちと一緒にやれないだろうかとも考えたのだけど、どちらかにした方がいいと思って」と相談されたので、ぼくたちは、また必要なときに連絡くれればいい、と仕事を断った。話がスムースに運ぶときは、いろんなことがスムースに展開するけれど、無理を通せば、ずっと無理を通すことになる。

生活の基本は、創作活動にあり、ものをつくること、絵を描くことにある。それがおカネになろうと、ならなくても、そこに生きる道がある。

夕方、いわき市田人町を紹介してくれた川崎さんが訪ねてきて、軽トラック必要なら3万円で売れるよ、と言ってくれた。軽トラック欲しい、とあちこちで言っていた効果があった。2~3日考えて返事すると答えたけれど、確認するのを忘れていたことがあった。自分の免許はオートマ限定だった。川崎さんに電話で問い合わせると、マニュアルの車両だった。

いろんなことが、波のように日常に起こって、それに乗るのも乗らないのも自分次第。波に乗らなくても、海にいるだけで楽しい。海にいるだけで何か起こることもある。最近はじめたサーフィンから、そんなことを学んだ。

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