いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

One of thesedays 63

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かつては自然からすべてを生み出していた。そこに魅力を感じる。

水戸に森の間伐を手伝いに行った。「きらめ樹」という間伐方法で、樹の皮を剥いてたったまま乾燥させる。根から吸い上げる水は、皮と幹の間を流れている。樹の皮を剥ぐと、水分を吸収できなくなり樹は枯れる。

現代の暮らしと樹の関係が見えなくなっている。けれども50年ほど時間を遡れば、樹は日本人の暮らしに欠かせない存在だった。家をつくる材として、煮炊きする燃料として、樹がなければ死ぬほどだったけれど、現代の暮らしでは、直接的には樹がなくても死にはしない。けれど放置された森は、人間の生態系に影響を与える。はじめから放置されている森なら、それは自然のことだから問題ない。けれど、日本の森は、杉や檜が大量に植えられ、そのままになっているから、自然に回復するのも難しい状況にある。何にせよ、森の樹に価値がなくなって、人が入らなくて、そこに問題があるなら、ぼくは森に入って何が起きているのか知りたい。中に入って、そこから眺めてみれば、解決策や突破口がある。身の回りの生活圏のなかに冒険の入り口がある。失われていく日本人の生活を巡って冒険してみたい。近くて遠い、同じ場所のレイヤーの違う次元に足を踏み入れて遊ぶ。

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樹の幹に竹でつくったヘラを当てて打ちつけて、皮と幹の間から剥いでいく。下から上に引っ張って皮を剥いていく。とにかく、皮を一周剥けば、樹はたったまま枯れる。

この方法を使う使わないにしても、本の森にある樹を利用したいと思っている。2014年から2年間、空き家に取り組んできて、分かったのは、空き家の問題なんてないこと。問題をつくってスタックしているだけで、その問題を跨いでしまえば、なんてことのない障害で「古い/新しい」「便利/不便」「価値のある/なし」だったりする。問題は絶対的ではなく相対的で、人によって違うのだから、空き家を前に「古くて価値のない不便な家を楽しむ」ことができれば、問題は消えてしまう。

 

2018年は森に取り組んでみたい。ちょうど、フジロックフェスティバルでBARをやる仕事があって、その店をどうつくるか考えていた。小屋だ。簡易的な。露店をつくりたい。その構造に間伐材を使えるはず。それから竹。竹も余るほど山に生えている。これもバリに暮らす友達が絵を買ってくれ滞在制作をさせてくれるというので、東南アジアの竹づかいを学びたいと思っている。自分がつくりたいからつくるというだけでなく、目の前に起きている出来事を繋ぎ合わせて、展開させていけば、想像を超える未来が生まれる。

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