今日は、道具の使い方を学んだ。昨日、ガーランド旗づくりで、年輩の方に布をハサミで切ってもらったところ「本職は布屋だったんだ」と。そして、ぼくらが使っているハサミの切れ味が悪いと、砥石を持参で、今日ハサミを研いでくれた。
布屋だったタイラさんは教えてくれた。
「仕事の終わりに、ハサミを研いで明日の準備をしたよ。明日の朝はすぐ仕事をはじめられるように。」「むかしの道具は、ひとつひとつ職人さんが手づくりしている。だから、修理もできるんだ。道具は使う人が手入れする。これが当たり前だったんだけどな。」
近くで様子を見ていた女性の方は「わたしは、布切りバサミ大切だから、家族に触らせないわ。今では、刃物は子供に危ないから触らないって言うけど、そうじゃなくて、刃物を落としたり、切れ味を悪くするから触らせなかったのよ。いつの間にか意味が変わってしまったのよ。」
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ハサミ。切るためのモノ。文房具屋さんで買う。切れ味が悪くなったら捨てる。ぼくは、そういうハサミとの付き合い方をしてきた。コラージュで紙を切ったり、それなりにハサミを使うけれど、その程度の付き合い方しかしてなかった。だから、よく妻チフミに道具の使い方が悪いと注意されてきた。
道具。スマホ、パソコン、車、ノコギリ、丸ノコ、鑿、鉋、インパクト、筆。よく使うモノはこんなところだろうか。最近ようやく鑿を研げるようになった。自分で手入れすると、道具を大切にするようになる。なぜなら、それはお店では売っていない世界でだったひとつのモノへと変身するから。宝物。
壊れたらどうする?
毎日使う道具との接し方の影響力はとても大きい。手入れする習慣がなければ、やがて壊れる。直すという考え方がなければ、カスタマーセンターに持ち込むか、捨てるか、買い換えることになる。それしか方法を知らなければ、選択の余地はない。
思考は習慣化する。つまり、モノを手入れしたり直したりする発想がなければ、健康を意識したり、身体のメンテナンスをするという考え方さえも忘れてしまう。忘れているうちに消えてしまうのが文化だ。
「生きるための道具」
新たなコンセプトを発見した。何でも壊れたら、買い換えるのではなく、手入れして使う。直して使う。身体をメンテナンスして、食事も必要最低限にして、身の回りにあるモノを駆使する。人に親切にする。新しいモノよりも、何度でも不死鳥のように蘇る道具を手に入れる。大切にして自分だけの宝物にする。道具としての言葉。道具としての身体。道具としての家。道具としてのシリーズのバリエーションは増え続ける。それが豊かさ。なぜなら再生するから。不死鳥の如く。
アイディアの種は、至るところに落ちている。落ち穂拾い。そして、種を言葉にして、テキストとして蒔く。やがてアイディアの芽がでる。思考の畑を耕す。カルチャーの語源は、cultivate=耕す。道具をみつければ、それは永遠に使える。
(つづく)
生きるための芸術
サバイバルアート
生活芸術
檻之汰鷲(おりのたわし)
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