いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活はリズム

今日は、六本木ヒルズ主催のイベント、hillsbreakfastに登壇してスピーチをした。

pechakucha」という20枚のイメージ写真に対して20秒ずつコメントしていくプレゼンテーション方式。

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ぼくは、これまでの活動を20枚の400秒にまとめた。結論、ぼくが言いたいのは「負けてもいい」。社会は競争を強いるけれども、すべて勝つのは不可能。稀にそういう天才もいるけれど、99%の人は、そうではない。だから99%の人が楽しく生きれる社会が理想だと思う。負けても死ぬ訳じゃない。どうしても負けるのが嫌なひとは、こう考えることもできる。「競争をしないという勝ち方」もある。それは雑草の生き方でもある。自然はぼくの生きる大先輩だ。

ぼくは北茨城市に暮らしているけれども、暮らす場所も同じ話で、都市と地方という対立軸があるけれど、実は、日本のほとんどが地方。もし、その地方が暮らしやすい場所だったとすれば、日本人の多くの人がハッピーな気持ちになれる。ところが実は、既に地方は楽園である可能性を秘めている。その答えをこれから、開拓していきたい。

ぼくは、矛盾を両手を広げて、掴みたいと思っている。勝者でも敗者でもいいし、都市と地方でもいい。金持ちと貧乏人でもいいし、石ころとダイヤモンドでもいいし、失敗と成功、悲しみと喜び、どっちも美しいと思う。

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ぼくは、嫁と2人で、檻之汰鷲(おりのたわし)というアーティスト名で、アート活動をしている。ところが、気がついたら、生活芸術家の石渡のりおという別人格も動き出していた。 ぼくは話をしたくて仕方ないらしい。止まらない衝動が、生活芸術家という肩書きを作り出した。

ぼくは、檻之汰鷲でもあるし、生活芸術家でもある。つまりは、何者でもない。ただ生きている。とにかく「生きる」という現象を映し出したい。

ぼくは、ザンビアで泥の家を建てて、家に興味を持つようになったけど、ぼくは建築家でない。けれども、家が大好きだ。隙をみては、古い家の写真を撮っている。たまたま「the japanese house」と検索したら、イギリスのポップミュージックがヒットした。良い曲だ。おまけに、新国立美術館でやっている「THE JAPANESE HOUSE 戦後、1945年以降の日本の家」という展示があることを知った。家が起こしたセレンディピティ

同時開催で、日本の近代絵画もみることができた。絵をみるとき、奇跡的な記録更新の瞬間を鑑賞する視点と、目の前でみて、単純に美しいと感じる2つの眼差しがある。後者は絵画としての美しさで、前者は、アートという常に新しくなっていく競技のアスリートたち。つまり、材料やコンセプトや題材や手法についての挑戦。これもどっちが正しいとかではなく、ぼくは両手をいっぱい広げて両方を掴みたいと思っている。

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ぼくは、古い家が好きだ。なぜなら、自然のままだから。建築家という意匠が手掛ける前の、生きるための道具としての家。それを保存しておけば、30年後には、貴重な地域資源になる。その活動をギャラリーや美術館に収めたい。つまり、生活をアートにしたい。それが北茨城市につくるアートギャラリーArigatee(ありがてえ)。

いまぼくがやろうとしていることが、意味不明でも、小さくてもいい。自分にはハッキリ分かっている。絵にしろ、本にしろ、家にしろ、50年後、100年後に開花してくれればいい。未来への種蒔きだ。

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檻之汰鷲は、嫁とのコラージュアートユニットで、空き家を直したり、旅をしたり本を出版したり。生活芸術家の石渡のりおさんは、トークをしたり広報担当したりしている。この人生で、もっとたくさんのことを掴みたい。それを可能にするのが、生活のリズム。毎日の生活のなかに、どれだけ夢を叶えるための一歩を踏めるか。明日はない。今日という一日が繰り返すだけ。だから、今日何をするのか。まだまだやれる。

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