いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

作品をつくること。自信過剰の自信喪失。

f:id:norioishiwata:20170910202306j:plain久しぶりに落ち込んだ。ほとんど躁病とも言える性格なのに自信喪失の闇に落ちた。

きっかけはチフミの「ミラーボーラーズやチームラボに比べて作品が良くない。写真でみても自分たちの作品はどれもよくない」という言葉だった。チフミは何気なく思ったことを言っただけだった。

自分のなかには「写真には映らない美しさがある」という想いがあった。けれども、仮にその美しさが自分たちの作品にあったとしても、ほんとうに写真には映らない美しさがあったとしても、否定的な言葉ひとつで、脆く崩れてしまった。ショックだった。自分は、それぐらいのモノしかつくれていない。

f:id:norioishiwata:20170910202445j:plain昨日Facebookに自分の作品を投稿したら「ダサい」とコメントされた。「ダサい」とは、どんな感情なんだろうかと考えた。嫌悪だろうか。カッコよくないとき、何かに違和感を感じたり、時代遅れだと感じたとき、自分のセンスからハズレた何かをダサいと言うと思う。けれどもすべての人が、カッコよく感じることはなかなかない。「ダサい」とわざわざコメントすることも、アクションのひとつで、それも心が動いたことだと思う。だから「ダサい」は「いいね」と同じようなことに受け止められた。「カッコ悪いことはどんなにカッコいいのだろう」というタイトルのアルバムを思い出した。

ぼくは何をやっていたのだろうか。作品をつくることは、それが鑑賞者に伝えられて、はじめてアートになると思う。伝え方はいろいろある。絵画や彫刻、映像や文章、展示やインスタレーション。あらゆる方法、技術、メディアを駆使していい。結果として何が残るのか。伝わるのか。

f:id:norioishiwata:20170910202615j:plainぼくは嫁の言葉で、自分のやっていることが、どこにも伝わっていないし、なにひとつ完成していないと思った。未熟なことは、それを晒すことは、どれだけ恥ずかしいことなのだろうか。

いや、なにひとつ駄目なことなんてない。やって駄目なら何度でもやればいい。失敗したなら、それは失敗だと理解できる。それもひとつの成果だ。美しいモノをつくりたい。そう思う。ぼくは、とてもシンプルな絵を描きたい。記号のような。色とカタチがはっきりと分離した景色。

ぼくは能天気な生き物で、こうやってすぐ回復してしまう。昨日、落ち込んで、今日の夜には、この通り。ヤル気しかない。たぶん、基本的には、駄目なんだと思う。けれども誰だって最初はゼロだ。イチになったと思っても、またゼロからやり直せば、もっと遠くに行ける。仮にジュウまで行ったとしても、またゼロになればいい。はじめから何もない。まだまだやれる。