いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

やっぱり「生きる」「つくる」にしか興味がない。

f:id:norioishiwata:20170908125650j:plainぼくのテーマは、はっきりしていて「生きること」。それは成功することやおカネを稼ぐことじゃない。残念ながら。成功やおカネは、生きることの一部でしかない。だから、ぼくは、自然を先生にすることにした。海や森、木、風や火、水や土。自然は、生きる達人で、絶妙なバランスのなかでお互い影響し合いながら、自ら在ることを教えてくれる。

「生きる」を表現する方法として、芸術を選んだ。夢中になって時間が経つのを忘れるのが好きだ。ぼくが「人生」を知ったのは、音楽に夢中だった中学生の頃。アーティストの人生について書かれた短い文章。CDについているライナーノートと呼ばれる小さな冊子。そこに人生があった。そこに書かれた生き様に感動した。音楽に捧げられた人生。そんな仕事を探して、進路を本気で決めたのは27歳だった。けれども、職業を芸術家ですと名乗れるようになったのは、40歳のとき。

f:id:norioishiwata:20170908125731j:plainやればやるほどに目標は先延ばしになる。「生きる」は死ぬまで続くから。そのときまでゴールはない。それを捉えることなんて死ぬまでできないから本を書くことにした。それが「生きるための芸術」。いまは続編を書いている。それはぼくのライナーノートでもある。

ぼくは、芸術で賞を獲ったり、ギャラリーに所属したり、美術館に作品を飾られたりしていない。けれども、作品をつくり売って生きてきた。値段は5万円前後。もう100個は売ったかもしれない。それだけの価値をつくってきた。ぼくの目的は、芸術の領域を拡げること。ぼくの考える芸術は、いまの芸術には属していない。かなり芸術に接近してきたけれども、歩み寄ってしまえば、その小さな想いは消えてしまう。10年くらいやってみて分かった。

f:id:norioishiwata:20170908125831j:plainSNSのおかげで、共感が求められる時代になって、けれども究極なところ、理解者ゼロが自然なのだと思う。それが個性だから。その個性がやがて誰かの共感を得たところに、道が生まれる。芸術とは、自分の小さな想いを巨大化させる装置だと思う。ぼくの想いを社会に接続する手段が芸術だ。

日本はとても物質的に豊かな国だ。けれども精神的には貧しい。日本人は、自己否定が強い。謙遜、遠慮。それは明治維新に由来すると思う。西欧との比較、焦燥感が日本を駆り立ててきた。けれども、その結果、大切なものが見失われている。日本人が共に生きてきた自然や信仰。それはほとんど宗教と呼ぶものに等しい。けれども、ぼくは宗教を求めているのではない。100年前、それ以上前の人々の生活に日本人のルーツがある。それは心だ。根だ。

木は大地に根を張り、地上に枝を伸ばし葉を広げ、太陽を浴びる。ぼくは、葉っぱではなく、根になりたい。誰かが伸ばす葉っぱのために。

こうやって文章を書くのは、練習になるし、考えをまとめるミーティングにもなる。自分の声を聞くことができる。ぼくの先生、自然から学んだことを実践する作戦会議でもある。

f:id:norioishiwata:20170908130311j:plain「水は高いところから低いところへ流れる。」ぼくは水でありたい。これは現代社会が示す成功の対極にある生き方。けれども大自然先生は、そう教えてくれる。数じゃない。はじまりはいつだってゼロをイチにするだけ。イチになったらニではなく、別のゼロへと流れていく。永遠の純粋。

ほとんどのモノコトは、思い通りには動かないけど、自分が動けば、思いついたことを全部やれば、世界も動く。世界とは自分が見ている目の前。それ以外はすべて幻想だ。止まるな動き続けろ。欲しいモノは、生きるチカラだけだ。