Noと叫んだり誰かを責めるばかりではなく行動する生活を。

f:id:norioishiwata:20170617090448j:plain古い家を巡って、かつての暮らしを採取するうちに、日本という土地に続く歴史が見えてきた。江戸時代から明治時代、大正から昭和。その延長線に生きていて、かつての人々と同じように未来へ続く今をつくっている。

ぼくたちは、アメリカ人でもイギリス人でもなく日本人だということ。だけど毎日洋服を着て過ごしている。身の回りをみる限り、日本という文化の価値を信じなくなって、限りなく透明な文化になっている。

別に着物を勧めているのではなく、懐古趣味でもなく、悲観しているのでもない。ただ、消えていくモノコトを見れば、いまがどんな時代なのかが浮き彫りになってくる。

空き家という現象は「新しい」が「古い」より価値があること。消費できることが、豊かさの象徴であること。古い家に暮らすことは、貧しさを表す記号になっていた。ぼくたちは、服を着るようにあらゆるモノコトを選択して記号で自分を着飾っている。

f:id:norioishiwata:20170617090709j:plain北茨城市の老人会「くるみの会」にお邪魔して、80代から90代の話しを聞いた。92歳の方は、山菜で作ったお煮しめを振舞ってくれた。

「山に行けば、たくさんあるから、それを採ってきて、調理して、冷凍しておけばチンして食べられっから。」

お婆さんは、生きる知恵と電子レンジを組み合わせてゼロ円料理を実践していた。山菜を採ってくる人も減っているらしい。山に行けば、食べ物があるけれど、それよりはスーパーマーケットにいった方が便利だし、美味しい食べ物が並んでいることになっている。

出版した本を読んでくれたと父の友人で絵本作家の深見春夫さんがメッセージを送っくれた。子供のころ「あしにょきにょき」という絵本が好きだった。ぼくが子供だった頃の深見さんと同じほどの年齢にぼくはなった。
父親の影響でたくさんの映画やアニメを見て、マンガもたくさん読んだ。ロックやパンクやヒップポップに夢中になった。

この年齢になって気がついたのは、日本人には宗教がない。あるけれど、これもまた透明で考え方や生き方に影響を与えていない。あるのは戦後からの経済成長が作り出した「ちゃんとする」というルール。「ちゃんと勉強しなさい」「ちゃんと働きなさい」「ちゃんとした大人になりなさい」それはルールに従え「右へ倣え、前倣え」というメッセージ。

でも、ぼくには「ちゃんと」よりも重要な原典があった。アニメや漫画。小学校に上がる前から、高校生まで多感な時期をマンガやアニメで過ごした。
そこにはイケてない主人公が、夢を叶えたり、成長して悪と戦ったり、仲間に出会い助け合ったり、地球の環境を人間が悪くしていることや、戦争の愚かさを教えてくれた。放っておけば、来るべき未来はディストピアだというメッセージが描かれていた。

f:id:norioishiwata:20170617091059j:plainところが「君の正義は、社会に通用しない、それはマンガの世界だから」と「ちゃんとする」ことを強制されるようになった。10代は違和感でいっぱいだった。そんな気持ちを救ってくれたのが音楽だった。ポップスやロックの歌詞にはメッセージがあった。ぼくは、パンクやヒップポップ、レゲエから反抗の仕方を学んだ。

チフミはいつも「生きるたのめ芸術って何?」と質問してくる。はっきり分からないと言う。
「生きる」とは何か。息を吸う、歩く、見る、聞く、話す、食べる。それらのどれかが欠けたら生きていないのか。そんなことはない。死なない限り生きている。それより、どんな場所で呼吸したいのか。どんな景色を見て、どんな音を聞きたいのか。誰と話したいのか、何を食べるのか、選ぶことができる。選べるということが豊かさで、ルールはガイドラインであって、mustではない。従うのではく、自分の好きなモノコトを獲りにいけば、当たり前の日常をとても美しくハッピーな瞬間にすることができる。生きる喜びは、テレビやインターネットの中にはない。

日本人として、江戸時代から明治時代、大正から昭和。その延長線にぼくらは生きている。けれど、かつての人々と同じようにしてはならない。第二次世界大戦のあと、ドイツは、平和のために「従わない」ことを子供たちに教育したそうだ。

先日、インタビューしてくれた新聞記者さんが「細部に神は宿るんですよ!小さなことを見逃がさないことです。」と話してくれた。今日1日何を食べるのか、そんな小さな振る舞いが、社会を動かし、時代をつくっている。ぼくは今日、食べたマンゴーの種を植えてみた。