いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

【 Yes I do 】NoよりYesより、何を「やる」のか。

先日、下北沢で本の出版イベントを開催してトークをした。空き家を巡る旅から、日本の森林のこと、最近始めた放置農園、そこで実践してみた自然農の話しに広がった。買ってきた苗を植えたエピソードのところで「野口の種を知っていますか?」と質問された。ぼくは知らなかった。

f:id:norioishiwata:20170613063422j:plainそれは「日本に普及している苗や種は、成長してできた種をもう一度植えても収穫できない」という話しだった。種を植えて育て同じように収穫できるのが特別な「野口の種」という話しだった。

ぼくは驚いた。種を蒔いて収穫する、当たり前の生命活動がなくなっているという、自然はそこまで改造されているのか、とても信じられなかったので、北茨城の農家さんに質問してみた。
「スイカを植えたんだけど、そのスイカの種を植えたら、またスイカを食べられるのかな」
「それではまともなスイカはできないよ。種を買うか、苗を買ってこなきゃ。」
「収穫したスイカの種では、育たないってこと?」
「育っても、美味しいスイカになるか分からないし、それだったら種や苗を買ってくれば、たくさん美味しいスイカができるから」
「昔からそうだったの?」
「昔はそうじゃなかったけど、今は買ってくれば綺麗で美味しいスイカがたくさんできるから、その方がいいんだよ。」
と話してくれた。

f:id:norioishiwata:20170613063609j:plain人類は「よりよい」を目指して社会という道をつくってきた。よりよく効率的に収穫するために植物の交配を繰り返し、交配した人工的な種をつくりだした。これは種の物語のイントロダクション。

物事には2つの側面がある。

自然のままの種では、効率が悪く、このままでは、増え続ける人口を満たすほどの食料を供給できない。もっと収穫を多くして、たくさんの人に届けるべく、開発を重ねてきたおかげで、現在、ぼくたちの食卓には、たくさんの野菜が並んでいる。昔からの種のままだったら生活は苦しかっただろう。しかし、逆方向から語れば、遺伝子を人工的に操作して、除草剤や殺虫剤の毒素を持った遺伝子の植物が開発され、その遺伝子組み換え食品が日常生活に普及している。

トークイベントの翌日、大好物のマンゴーを買って食べた。チフミがそれをみて「種があるよ」と気がついた。メキシコ産のマンゴーの種が、どんな状態なのか、まったく様子が分からないけど、芽が出るかもしれない。マンゴーは収穫するまで7年かかる。7年かけて育て収穫できなかったら、さぞかし残念だろうと思う。その気持ちが、野生の植物を交配させて、新たな種をつくり、人間は生き延びてきた。それは生きるための知恵でもある。叡智=wisdom. その反対はignorance=無知.

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この世の中に必要ないものは存在しないと仮定したい。美味しいスイカが安価に食卓に届けられるのは、ニーズがあるからだ。必要とされるから、それは存在する。誰も必要としなければ、それは消えていく。

YesかNoの対極に巻き込まれないで生きる。ほんとんどの場合、どちらの側にも理由がある。視点をずっと高くして、両方の立場を理解して、そのうえで行動する。キリスト教の立場があれば、イスラム教の立場がある。戦争に反対する人間がいれば、戦争に駆り立てる人間もいる。

麦を育ててみたいと思っている。麦は踏まれて強くなる。その生命力を知りたい。その麦だって野生種の交配を繰り返して栽培できるようになった。どうやって麦を育てるのか。やり方を選ぶことができる。自分の生活のなかにも対立がある。批判や否定的な気持ちに巻き込まれない、つまり「No」ではなく「Yes」。小さな生活のなかで何を選ぶのか。答えは常に何を「する」のか。「やる」「やらない」の間で思考停止するなら、動いた方がいい。やってみれば分かる。

f:id:norioishiwata:20170613064107j:plain和船をつくりたい。3年間も追い求めてきた。ついに日曜日、北茨城市で発見した。生活の中の舟は、必要とされなくなり消えてしまった。実物を見て分かった。木の舟は重過ぎる。いまだったら自分だったらどんな舟をつくるのか。ぼくは「生活をつくる」という表現をしたい。