いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

日常を旅する技術

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毎日はあまりに単純だから、ただありのままに言葉を記そう。今住んでいる中津川市高山のことをあまりに知らない。そう気がついたので、今朝は走ることにした。
 新しい土地に行って、その環境を知るには走るのがいい。日常という生活のなかにある景色に接触できる。それは、単純過ぎて、つい見逃してしまう貴重な場面だが、輝きを発見できれば、そこに幸せな今日が生まれる。

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 古民家から1kmほどで観音像に出会った。その奥には、お稲荷さんがあって、その参道の鳥居が崩壊していた。ひとは、自然から離れると共に、カミを敬うことも忘れてしまったのだろうか。それとも、それほど過疎が進んでいるのだろうか。カミとは、己の心を映す鏡だと思う。信仰とは己を信じることでもある。

さらに先へ走ると、石の採掘跡地を見つけた。その岩肌に触れてみたかったが、不法進入になっては、近所迷惑なので写真を撮るだけにした。人間がつくった痕。スクラッチ。傷。グラフィティー。

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 知らない土地に暮らすことは、知らない惑星に不時着するほどに魅力的だ。常に新鮮な眼差しが手に入る。まるでSF映画のように、ずっと向こうまで、果てしない未知の世界が広がっている。
 住み慣れた町だって、いつもと違う道を通れば、知らない景色に出会うことができる。そうだ、知らない景色が見たくて作品をつくっている。

 雨が降ってきそうだったので、4kmぐらいで引き返して家に帰った。それから、ウサギづくりに没頭した。
バルセロナで、アイルランドから来たトム・キャンベルに習った技術、パピエマシェで動物をつくっている。

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動物は、それぞれのカタチをしている。動物は骨格からつくらないと、そのキャラクターがつかめない。オオカミと犬、クジラとサメや、つくってみると実際どこが違うのか分からなくなる。だから、木で骨からつくって、紙で肉付けする。

 動物のカタチに触れると人間も含めて、生命の豊かさに驚愕する。森も同じで、歩けば、生命に溢れている。人間は、この自然を忘れて、自らがつくり出したシステムに隷属する。そのシステムから距離を置いて、生活をつくってみれば、経済的にはギリギリだが、それでも独立独歩なライフスタイルがここに誕生した。嫁と作品をつくって売って暮らすというサイクルのなかに、生きている喜びがある。このほんの小さな生活を幸せと呼ぶ。

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 昨日の今日は、明日だった今日に変わった。今朝は、森の整理をしながら、木を切って薪をつくった。午前中に焚き火をして思いついた。こんなにたくさん木があって燃やせるのだから、陶器をつくろうと。
パピエマシェの技法を転用して、陶芸をやろうと考え、それをある自治体に企画として提出するつもりだったが、やってしまった方が早い。誰かに期待して足踏みすることを「他力本願寺」と呼んでいる。願うばかりで何もしなければ、神頼みと同じ。願い頼るほどの想いがあるなら自分でやれ。

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モロッコで教わったパンを焼く窯を日本で再現して鳥をつくったことがある。それが初めての焼き物作品だった。とても原始的な方法だけど、水と土と火でカタチをつくることができる。
 「こうしなければできない」というセオリーがある一方、その反対には、セオリーが成立する以前の原初の方法がある。それはいつも自然からの恵みを最大限に利用した生きるための技術だ。
 何かがないから、できないことはなくて、歴史のあらゆる時代から、いろんな技法をサンプリングして、サバイバルできる。

 気がつけば、空き家を巡る冒険を始めた2年前の目標地点よりもずっと先へ進んでいる。空き家に暮らして、春の展示に向けて制作に没頭している。その先は、もっと未知の世界だ。おカネがなければ、使わないで生きる方法をみつければいいし、やりたいことがあれば、どうやればできるのか、考え抜いて、継続すればいい。必ず方法はある。諦めさえしなければ。

 未だ見たことのない景色に出会うために、どんどん、つくろう。これからがほんとうの芸術だ。

 周囲を気にして、今の目の前の雑音に反応して道を変えることはない。周りに誰も見えなくて、不安なぐらいが程よい。なぜなら、いまは山を登っているのだから。頂を目指しているのだから。旅しているのだから。