いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きるから死ぬまでの芸術

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ここ1週間、福浦に滞在しながら、素晴らしいロケーションの家で作品展示をしながら顔料づくりの実験を繰り返した。
身の回りにある材料で作品をつくる【サバイバル・アート】の発想で、150万年前の地層から剥がれ落ちた土を採取してトライ&エラーを繰り返した。
絵をつくりながら、その作品が何からできて、その材料がどこからやってきて、それはどうなっていくのかを考えてきた。それは、古い家から学んだこと。

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偶然とはよくできた必然で、福浦のスーパーマーケットのゴミ箱で、最近注目していた本「スモール・イズ・ビューティフル」を拾った。その本は多いことや大きいことよりも、全体のバランスのなかで、つまり、生産性や経済成長ばかりを追うのではなく、自然という有限な資源のなかで、どう人類が社会をつくるべきかを提案していた。ぼくはその理想を社会に求めるのでなく、個人の生活のなかに求めることが今の時代に要求されていると感じている。誰かに要求するのではなく自分自身を駆使してこそ。

絵の具ひとつ、お金を出せば買うことができる。でも、その絵の具をつくるという選択肢もあるはずだ。

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福浦が与えてくれたテーマ「顔料づくり」。友人に誘われ辿り着いた場所で着想したのだから、この縁に感謝しかない。絵を描くというよりも環境からカタチを取り出す、彫刻のような制作方法。今回の課題は、土を細かく粉砕して不純物を取り除くこと、土に何を混ぜて絵の具のように固定させるのか。

インターネットで検索すれば、いくつものやり方がみつかる。たくさんあるなかで自分に適しているのは何か。答えはインターネットには書いていない。やってみなければ、自分の答えは手に入らない。

卵と植物性の油に土を混ぜれば、油絵の具と同じ効果が得られるし、木工用ボンドを水で溶いて使う方法もある。

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福浦港でみつけた古い船に惹かれ、それをコラージュで作品にすることにした。いくつかのアイディアは散らばっていて、どう作品に結びついていくのか分からないけど、それぞれを少しずつカタチにしていった。

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昨日の夜、友人からの電話で、とてもお世話になった人の死を知らされた。ガンだったが、奇跡的に回復して、音楽活動を続けていたから、深夜の知らせは、驚きが涙に変わった。

昨日と今日のように、突然、生が死に変わっても、生涯現役だった死は素晴らしいと思う。

生と死は表裏一体で、ぼくが追い求める芸術は、死の芸術でもある。だから、どのように死を迎えるかはとても重要。「生きろ」と社会は強制するが、ハッピーな死に方があってもいい。なければつくればいい。美しい死を。

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何十年も会わない友達は、目の前にいないから、存在していないとも言えるし、ぼくの目の前にいない誰かにとっては、ぼくは存在していないとも言える。ほとんどのモノコトは目の前に存在していない。見えるモノコトなんて、ほんとうに僅かだ。

だから、存在することよりも、目の前に存在しないことがこの世界のほとんどを占めている。

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多くの絵画はモノの存在をカタチにするが、ぼくはその不在をカタチにする絵もありえると気がついた。目の前に現れた存在を無にするような表現。空は青いけれども、その青も空も実体としては存在していないような。
始まりがあれば、終わりがくる。だから、終わってしまう前に始める。