いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きた時間が増えれば、生きられる時間は減る。限りある人生を豊かに。

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箱をつくっている。これは、昨年のグループ展に出した作品で、改修中の長屋の廃材を使っている。家を解体すれば、産業廃棄物になる。つまりどの建物も未来のゴミだということだ。マンションが建てられた最初期は永遠に壊れないという都市伝説があったと60代の不動産屋さんに聞いたことがある。

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コンクリートジャングルと呼べばまだ夢がありそうだが、このゴミばかりが生産される世の中を、どうサバイバルしていくのか。そもそも、建築って何だ?そんな産業が必要なのか? コルビジェが「住宅は住むための機械」だと宣言したらしいが、ぼくは「家は生きるための道具」だとは断言する。

そもそも、天然の資源でまだ使える木材を捨てるなんて、ほんとうに日本社会はイカれている。先日も津島で水谷博士が、木造住宅の解体現場を発見し、駆けつけて木材や建具を手に入れたばかりだ。日本の社会は、捨てるモノとつくるモノとのサイクルが全く成立していない。どれもが一方通行。買っては捨てる。なんて稚拙な社会構造なのか。

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そうだ、箱だ。そんな想いで、廃棄される木材で箱をつくっている。昨年、展示のときにゼロ円で販売したところ、共感してくれたアーティスト兼キュレーターの方が「お金を稼ぐのヘタそうだね。でもやっていることは面白いから、ぼくが売ってあげるよ。」
信じるか信じないかは貴方次第。ぼくはいつだって目の前にいる人や起きていることを信じたい。それこそが、ぼくの人生そのものだから。

”Life is art”と書いた名刺をくれた丸橋さんは、ぼくらのよき理解者になってくれ、まさに今、その箱を銀座に新しくオープンするビルのテナントに納品するため、つくっている。箱は、あっと言う間に成功の階段を登り始めたのかもしれない。捨てる神あれば、拾う神ありの如く。

愛すべき築80年の長屋の廃材を磨いてみれば、ますます味が出てくる。その木材が植えられたのは、150年も昔の話だ。その木を通じて、ぼくは過去と繋がっている。木を植える人は、木が伐採される未来を考えて植林している。その想いを受け止めて、さらに未来に繋げたい。

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ぼくは、嫁と2人でアート活動をするという人生を選択した。理由のひとつは、結婚しているのにそれぞれ別々の会社に行っていたので、会う時間はとても少なかった。ある時に「ずっと一緒にいる」という選択肢もある気がした。それがいいか、悪いかは人それぞれだ。

起きてから寝るまで、作品をつくって昼飯のときも晩飯のときも、休憩のときも、次何をするのか、作品をどうするか話し合っている。
あるとき、今日はオフにしようと温泉に行ったら、退屈で仕方なかった。ぼくたちは、つくることが好きでまたらない。そうやって生きて作品をカタチにしながら、いろんな場所で発表して人に出会い交流して、できることなら人の役に立って、最期は2人で一緒に死にたい。自由に生きるんだから、死に方も好きにさせてくれ、そう言いたい。

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今日は、友達の訃報を聞いて、生きていることに感謝した。悲しかったけど泣かなかった。友達が死んだのは天命を全うした、そういうことだ。

人間は必ず死ぬ。
「1日減って、1日増える」
フランスの作家セリーヌの言葉。


夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/