生きるとは何か芸術とは何か、何処へ向かうのか、考えやアイディアをまとめるためのメモ


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D.I.Yとは独自の自立に至る道
言葉の定義をしたい。言葉は、表面の意味だけが共通認識として流通しているから、立体的にして削り直す必要がある。既にある言葉でも、質や意味を変えて使用すれば先鋭化し、それ自体がコンセプトになり武器になる。

例えばD.I.Yとは、Do it yourselfの略だが、この単語は「簡単に自分でやれる」という意味を帯びて流通している。しかし、本来そうではなく、モノが誕生する根源を突き止める作業の意味で、誰もがやれるようなことを指していない。例えば、家具をつくるのであれば、木材の入手方法もD.I.Yであるべきで、つまりホームセンターで材料を買って組み立てることはD.I.Yではない。木材の由来から紐解き、既成概念を破壊するように、用意周到に最も独自な入手経路から表現手段までを検討し実行する、確信犯行為を意味する。

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ぼくにとってD.I.Yの由来は、イギリスのパンクバンドCRASSだった。ほとんどのバンドが大手レコード会社経由で作品を流通していた時代に、バンド自らレコードをプレスし、コピー機で印刷した表紙を付けて、バンドが自ら価格を決めて流通した。それは音楽が商品にされ搾取されていることへのアンチテーゼであり、音楽のみならず経済までも視野に入れた確信犯としての表現だった

つまり、D.I.Yとは既にある手法に違を唱え、マーケット主義や搾取や既存の経済社会を超えて、つくったモノが起こすあらゆる影響を自らの責任でコントロールし、その在り方に一石を投じる社会彫刻だ。

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生活芸術というアイディアのメモ
ぼくは「生きる芸術」の5つのコンセプトをつくり、すべての人が芸術家になれると考えてきたが至る道は険しいことを知った。それは、まるで登山家が未踏の頂を目指すようなことで、そこに山はあるが、誰もが登頂できることではない。D.I.Yの精神に乗っ取るなら、同じやり方=既存のルートでは記録にならない。なぜなら芸術もスポーツや科学と同様に新しさを発見する競技だからだ。

では「生きる芸術」というコンセプトが全く新しいのか、と問われれば、これまで存在しなかった訳ではない。特にヨーゼフボイスは、すべてのひとが芸術家であると言っているし、宮澤賢治も農民芸術概論を書き、生活や人生のなかに芸術があることを明らかにしている。イギリスのウィリアム・モリスも日用品を美術作品の領域まで高め、暮らしの芸術をつくりあげている。柳宗悦の民芸も庶民の生活のなかに芸術を発見している。ピカソの作品も日々の暮らしからモチーフを発見する日常芸術でもある。尊敬して止まない愛すべき先人たちは、誰もが芸術のなかに人生を見いだした。しかし、ぼくは人生のなかに芸術を見出したい。

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なぜなら、日本に生まれ育った自分が、東日本大震災をきっかけに、社会に対して違和感を強く持つようになり、ヨーロッパとアフリカを旅して、同じ時代に生きる人間なのに、ここまで違う暮らしを要求する世界のアンバランスさに驚いたと同時に日本の特異さに気づいて、このアンバランスのなかで、新たにスタンダードと呼べるような生活をつくりたいと考えるようになったのが生きる芸術の由来だからだ。

社会がこんなにも混沌とし、世界中で戦争が続き、貧富の差は埋まらず、多くの人が苦しみ歯を食いしばりながら生きているのを見れば、人間の生き方という作品は、まだ完成形がないのは明らかだ。
宗教や哲学、芸術が何千年を費やして探求してきたが、未だ答えらしきものは見当たらない。なぜなら、その答えを自分の生活時間のなかに反映させないまま消費しているだけだからだ。
つまり、宗教や哲学や芸術がそれぞれの分野のなかにではなく、ひとりひとりの暮らしや仔細な日常のなかに、それらが現れ、日々の暮らしを照らし出さなければ、人生をつくる芸術にならないからだ。

ソローの言葉を借りれば、
”みんなが褒めたりもてはやしたりする人生は、数ある人生のひとつに過ぎない。なぜひとつの生き方を過大評価して他の生き方を犠牲にしなければならないのだろうか”

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気づいた。生きる芸術は、みんなのための芸術ではなく、ぼく自身が選択した道だったと。ぼくは生活のなかに芸術を発見し、その美しさと創造性について伝えるという役目を手にしている。未だその原稿を書き続けている最中だということにさえ気がついた

評価されることや理解や共感を求める余りに、言葉も生き方も単純化され、安易な方に流れされてしまう。しかし、伝えるということは、既存の考えを破壊するからこそ意味があって、多数決を採るために探求しているのではない。

個人が情報を発信できるようになったいま、嘘も本当もわからない情報が飛び交い、その個人がナンバーで管理されるなんて、まるでSF映画のディストピアだ。
安保法案も戦争法案と批判があるが、それ以前に人間が戦争していることが狂っている。領土を奪い合った前大戦とは質の異なる、また新しい経済戦争、三次世界大戦が起きようとしている。いまこの瞬間にも銃を持って撃ち合っているという現実があることを忘れてはならない。およそ戦争がなかった世紀なんてないのだから。それだけ人間は狂気にまみれている。だから、こうして考えを吐き出し抵抗の記録をつくっている。ぼくは人間が芸術的に美しく生きることができると実証したい。

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「この瞬間」というある指定の時間をを切り取れば、例えば2015年9月21日の23時27分45秒だとして、そこには、それぞれの人生がタペストリーの糸のように複雑に絡み合った紋様の世界が広がるだろう。
イスラムの壮麗なモザイクタイルからこの世界観を着想した。中心にいる神が存在の不在を現していることは、日本の空の思想と深いところで共鳴していると、ぼくの中ではハッキリと繋がった。だからこそ、異なるように見える世界の様々な場所に訪れ、人と出会い、異なる共通点を見つけ安心したい。その繋がりこそが愛。その確認作業を継続するために、ライフスタイルをつくろうとしている。それは彫刻であり、作品であり、経済であり社会であり、ライフワークでもある。

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夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/