いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

苦手を克服すれば、ヒマラヤにいくほどの大冒険ができる。

0.
ぼくは芸術家だから、作品をつくることばかりを考えている。「作品をつくる」とは数ある手段を選んで表現することで、「表現する」とは頭の中にあるイメージを取り出しカタチにすることだ。
アートといえば、絵や彫刻がよく知られた手段だが、イメージを伝える手段は、映像や音もそうだし、言葉や文字で伝えることもできるし、いくらでもある。

たくさんある手段から、時と場合に応じて、ひとつを選びイメージをカタチにしてみればいい。そう考えてみたら、芸術なんて、とても日常的なことだし、それぐらい気楽に誰もがやっていいと思う。

ぼくは自分の考えや体験など身の回りの出来事を記録するようにしている。刻々と過ぎ去っていくも現在も、カタチにしてみれば、発見に満ちた貴重な瞬間だったりする。なかでも最近面白いのは、電車や喫茶店などの公共空間で自分とは接点のない世界とリンクする瞬間だ。

1.
新宿駅近くの西武という喫茶店で、隣の席の話しが気になって仕方なかった。

「いま投資で安定した収入があってね、」と30過ぎのハキハキした声で喋る男が
「友達で投資にメチャ強い奴がいてさ、絶対負けない訳。まあ、負けても取り返すから損しない奴で。だから俺がお金を人から預かって奴に投資してもらって配当は4%、俺は200万預けてるから毎月8万入ってくるんだよ。」と女に話していた。

ところが次の日、会社役員のお金に強い人に、このエピソードを話すと「ああ、それね。1年位は毎月8万円入ってくるんだけど、連絡取れなくなって200万は消えてしまうよ。もしくは、1年して200万円は戻ってきて、さらに500万円って話しがきて。結局、連絡が取れなくなる。初歩的な詐欺だね。俺は3回騙されたかな。」と笑って教えてくれた。

自分が見ている世界なんて、ほんの小さな領域でしかない。しかし、誰かと話しをすれば、世界は鏡に反射するように拡張していく。ぼくは、お金が増える話しは詐欺だということを学んだ。

2.
ぼくは椎茸が嫌いだ。死んでも食べないと決めている。

ところが、椎茸だけじゃなくて、苦手なことは死んでもやらないと決めてしまっていることに気がついた。人生をかなり損している。

ある人にこの話をすると「ぼくは、嫌いな食べ物を積極的に食べて克服しようとする性質があって、最終的には、好きになるんだよ。」と教えてくれた。

優れた性質だと褒めると「でも勉強は違って、そうはならなかったよ。」と。「ほんとうは国語が得意なのに、苦手な理科や数学ばかりをやってしまって。挙げ句には、理系へ進んだんだ。」と彼は笑った。
が、そのすぐ後に気がついて「確かに食べ物の好き嫌いと、自分の勉強の仕方は全く同じだ。苦手なものに取り組むのがぼくの性格なのか。。」と感嘆した。

あるとき金メダリストがテレビで、「苦手なところ、弱い部分を徹底的にトレーニングした。得意な場所だけ伸ばしも金メダルは獲れなかった。」と話していた。

もし食べ物に接する態度が、ぼくの性格全般に及んでいるならば、ぼくは椎茸を克服したい。金メダルを獲れるほど自分と向き合い、人生をつくってみたい。

どんなに遠くへ行くよりも、自分の未知な領域に足を踏み入れれば、ヒマラヤなんかを目指さなくても、自分の宇宙のなかで大冒険ができる訳だ。

椎茸を克服するための方法をネットで検索してみると、「子供の好き嫌いの治し方」ばかり。そうじゃない、凝り固まった大人こそ、好き嫌いを治すべきだ。

3.
つまり自分自身を180度変えることができれば、いままで自分が無意識で避けてきた領域が加わり、360度の円になり、人生をコントロールする秘儀を手にすることができる。人生とは、誰もが自由につくれる芸術作品だ。

俺はこうだからと決めているのは自分で、そうさせてきた環境がその考え方をつくっている。「つくる」とはカタチが生まれるその場に立ち会うことだ。
既にあるモノを眺めていても創造は始まらない。上っ面を何枚も剥がして、壊しては掘り下げて、意味を耕して創造のフィールドを一新していく。
人生をつくるとは、生まれてきた環境すらも変えることだ。もちろん、越えられないとしても、自分が最も苦手なものを克服したとき、どんな景色が待っているのだろうか。自分とは自分で限定したキャラクターでしかない。限界を超え続ければ、人生は死ぬまで大冒険だ。

 

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/