いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

人間にとって必要なモノとは、何だろうか。答えは、決まっていて「芸術」。その答えを導くための式をつくっている。

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いわゆる会社勤めをしないで生きていると、自分で仕事をつくらなければ収入がないから、どうやったらお金を生み出せるのか考えている。

その企みは、絵を売ることから始まった。まだ価値がなかった自分の絵に値段をつけると身の回りの友人知人が作品を買ってくれ、いまでも作品を売ることは仕事になっている。絵はお金を生み出している。もちろん、それだけで夫婦2人の生活費には満たない。

 絵が売れても、世の中は少しもよくならない。どうしたものかと考えた。この世界には、社会をよりよくする仕事は成立しないのだろうか。それとも必要とされていないのだろうか。

どう考えたって、人間が全体のバランスについて真剣に考え、話し合えば、貧困だろうと戦争や人殺しなんて起きるはずがない。ところが、哲学や宗教だと難しい倫理を並べてみても5000年以上も、戦争も貧困もなくならない。どう考えたって、そんなバカな、と思うぼくの方がバカなんだろうか。

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じゃあ、せめても社会の役に立つ「アート」だけでも成立できないのだろうか。
どんなアートなら人や社会の役に立つのか。よく環境問題を題材に、循環型の社会が提案されたりしている。要は、個人のくらし自体が、経済から、よりよい方向へ循環する仕組みをつくればいい。考えのうえでは、単純なことだ。

その問いは、ヨーロッパとアフリカを旅して体験したギャップが答えになった。スペインとモロッコは、数キロの海峡を隔て、その間には強烈な経済格差があった。島国の日本で育ったぼくは、人間にそれほどの差を強いる状況があること知らなかった。

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ヨーロッパ経由のいわゆるアートとアフリカで学んだ自然と共に生きる人々の暮らしの境界線が「生きる芸術」というコンセプトを生んだ。つまり、「一枚の絵」と「畑で採れたトマト」その2つには、比べようのない価値が、それぞれあることを学んだ。実際には、トマトは人の命を救うが、アートにはそのチカラがないこと痛感した。しかし、そこには、生きるために必要だ、という共通点があった。生きるために必要なアートのチカラを自分の活動や表現を通じて、伝えたいと考えたのが「生きる芸術」だった。

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ひとは、生まれてきて、夢や希望を持てば、その人生をつくることができる。方法は選択すること。朝起きてから寝るまで、ぼくらは創世記の神のように、すべてを決定して人生をつくっている。常識に捕らわれず、失敗を恐れず、少しの勇気を出せば、何だってやれる。白いキャンバスや紙に絵を描くように、人生も思うように行動し描くことができる。しかし、それを許さない大きな障害が数多くある。ひとつは「不安」。一体、この世の中の何処に不安になる要素があるのだろうか。いや、不安だらけなのが現実という世界だ。

しかし、ぼくには使命がある。「自分の人生をつくることができる」。これを実証して生きる芸術を実現したい。

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ぼくは不安に思いつつも、自分の想いや閃きをカタチにするために身辺を整理した。生きることは即ち死を受け入れることだ。道はその一本しかない。

そこで、生きるために必要なものを取捨選択することにした。

いままで収集してきたコレクションのような本も手放し、街に出て「とりあえず」と寄るCD屋にも古本屋にも行かなくなった。

料理をするからと食材を買いに行かなくなった。何が食べたい、とか考えなくなった。(料理するのはいつも嫁のチフミだけど。)ジュースとかお茶とかのペットボトルを買わなくなった。いろいろ止めてみたが、なんの不自由もない。すっかり無意識の散財が止まったら、消費と生産のバランスが逆転した。これこそ、都市のなかで生き延びるチカラだ。ぼくらは、消費のジャングルに生きている。あらゆる広告や商品やサービスが、不安を煽り誘惑する。しかし負けてはいけない。経済は社会を変える唯一の手段だ。ひとりひとりが獲得した貨幣は未来をつくる権利に等しい。言い方を変えれば、革命を起こすための武器に等しい。

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自分に関わる経済をコントロールするチカラを手にしたら次はお金をつくることだ。なんとか、こいつをつくり出せないだろうか。

考えてみれば、自営業や会社社長は、社会のニーズをみつけ、お金を生み出している。そうニーズがあれば仕事がある。

しかし何でもいい訳じゃない。無意識な消費が、この世界をつくり出しているのだから、ぼくらが便利に過ごす日常こそが、この世界に格差を戦争を生み出している原因だ。

人生という、たった一度だけの作品をつくるのだから、とっても素晴らしいものにしたい。刻々と過ぎていく時間は素材そのもの。唯一、生まれながれにして、すべての人間に等しく与えられている資源。売り渡すな。奴隷になるな。

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だから「労働」についても考えなければならない。働くとは、どういうことなのか、何のためなのか。

ぼくは、こうして自分を追い詰めて、生き方をつくりつつある。そうやって3年目。かなり贅沢貧乏な暮らしで嫁には大変申し訳ないが、どうやら不可能ではない予感がしてきた。

今日も朝から晩まで10月の展示のために新しい作品の制作に没頭した。昼間にバリの友達が夏を満喫している写真をネットで見て羨ましいと思ったが、別に行きたければいけるのにと可笑しくなった。好きで作品をつくって生き方に悩んでいる。

夜11時に作業を終えて、今日を終わらせるために4km走った。疲れた自分を追い込んでみた。メンタルとフィジカルは一致ししている状態こそが自然だから。

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夜の街には、仕事帰りの人たちがたくさんいた。仕事をつくる奴らは、こんなに働いているんだ、とライバルたちに刺激され、ランニングはさらに加速して、光が虹色にみえて、走ってる感覚もなくなった。ナチュラルハイ。

お金がなくなったら、人生はゲームオーバーなんだろうか。むしろ、もっと大切なことがたくさんあって、それを大事に生きれば、別のステージがあるんじゃないか。そういうことを伝えるのが芸術なんじゃないだろうか。そんな1ページを綴るつもりで、これを書いている。

大丈夫、自分で選んだ人生は、どう転んだって美しくなる。ちょっとした成功より失敗の方が面白い話しになるんだから。

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/