いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

人間が作り出す生活の宇宙に出会った。それはまさに人間の巣だった。

うまくいくことも、うまくいかないことも、すべてはタイミングで、過ぎてしまえば映画のワンシーンのドラマのようで、その瞬間ごとに選択している自分の行動や発言が現在をつくっている。何事に於いても後悔はしたいくない。

やるべきことがある
本来、そんなものは無いのかも知れない。しかし、使命のようなモチベーションがなければ、動きが止まってしまう。ぼくは、誰かのために働きたいと思う自分のために動いている。自分なんてあるようでない、環境によって乱反射している鏡細工のようなモノだ。

どうしてお金を貰うことに抵抗があるのか
朝から津島市助成金の書類を作成した。助成のために内容を考えた訳じゃないので、悩むポイントは少なかった。それでもやっぱり金額を決めるのは難しかった。

お金で身を滅ぼす人々を見てきたからだ。お金は道具だ。もしぼくがお金のために行動するなら、いまぼくの周りにある愛するモノやコトやヒトは存在していないだろう。ぼくが優先させるのは、想いと直感。自分の心から湧き上がる声に従っている。

生きることと死ぬことは同じ
いつ死んでもいい。それは死にたい、ということではなく、受け入れる覚悟があるということだ。だから、いまを強く生きることができる。どうなるかわからない未来のために今を節約したり切り詰めたりしない。その代わりに、未来を面白くする方に賭けている。

お金の価値は一定だがモノの価値は変動する
いま価値を失っている空き家や古い家の未来に賭けている。いまは底値の古い家は、数年後にはその価値が見直されて、高値で取り引きされるようになる。これは肌感覚で知っている。音楽を通じて体得してきた時代の流れを読み取る技術だ。その意味で、お金に価値を求めていない。変動する価値をつくるのも人間、翻弄されるのも人間だ。


行動する人間にはモチベーションの源がある
それは夢や欲望。どのようなカタチで表面化するかはそれぞれだが、社会は経済的な結果を優先して、可能性の芽を刈り取る。まるでスーパーマーケットに流通する野菜や果物のように。ぼくは不揃いでも、新鮮で豊かに実る商品になる前の可能性や希望が好きだ。

自宅から徒歩15分に発見した別次元に暮らす住人たち
朝から夕方まで申請書を作成して仲間にメールで送った。送った後に変更点を想いついた。チフミが散歩に行こうと言った。

見慣れた道を歩いた。普段は通らない方へ歩いてみた。古い家に興味を持って改めて近所を散歩したいと考えていたので、よいタイミングだった。

古い家をみつけては観察して歩いた。高台にくると、部分的に森のように木が繁っている箇所が見渡せた。行ってみると近くに必ず神社や古い家があった。そこだけ時代が止まっているようだった。何体もの地蔵や壊れた不動明王が並ぶ神社の隣には、木に覆われた家があった。奥からテレビの音が聞こえた。

別の森のそばには、改築したアパートのような建て物があり、鳥が鳴いていた。様子を覗いていると犬の散歩をするおばさんが何の用かと質問してきた。住人らしい。あの森に行きたい、というと、あれは人の土地だから入れないよ、と教えてくれた。

家が生きているのであれば、住人はその精神や思考で、家はその身体のような容れ物かもしれない。だとすれば、昨日発見したような家に暮らす人々を取材してみたくなった。さっそく日を改めて、話しを聞きに尋ねてみたい。

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/