いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

好きなことをして生活できるかと実験してみたところ「できる」と答えを得たけれども、決してそれだけでは幸せになれないという驚愕の真実に達した話。

人間は、本来的に不幸を好む生き物らしい。誰かの幸せより不幸に耳を傾けるし、成功したニュースよりも失敗したニュースの方が何倍も興奮するらしい。
仮に夢や目標を持って、それが叶ったとしても、途端に不満をみつける。だからと言って人間が悪いとか悲しいという話しではない。
人間とは欲深い決して満足しない性質の生き物だということ。だから、成長するのだし飽くなき探究心を発揮する。それは人間の素晴らしい性質でもある。

わたしたちは、あれが欲しい、あれも欲しい、もっと欲しい、もっともっと欲しいと欲望を膨張させていくが、立ち止まって考えてみたい。

【誰が要求しているのか?】
自分が欲しいと思い、それを満たすために悩み苦しむのもまた自分だということを忘れないで欲しい。付箋を貼るなりメモするなり、その位置をしっかり記憶しておくべきだ。欲望の起爆スイッチを押したのは自分だということを。

もし悲しい気持ちになってしまったとき、それがほんとうに悲しむべき出来事なのか、悲しんでいる自分と対話する能力が必要だ。自分とは、どこまでも追跡可能なフィードバックするシステムのようなもので、その入れ子構造の起点を突き止める技術が瞑想だ。

【瞑想は自分をコントロールするためのテクニック】
目を閉じて、天上と大地の間にいる自分を感じる。駅のホームで電車に乗らないで眺めるように、浮かんでくる想いをただ眺めて見送る。それができれば、鳥の声や自動車の音、子供の声など、いま「ここ」に響く音が聞こえる。

もし悲しみを捉えて深く沈もうとするなら、どこまでも深く潜れるほどの悲しみを人類は背負っている。

しかし一方で、そんな歪んだ世界のなかで命を享けて生きる権利を与えられた謂わば、戦士のような側面も持ち合わせている。涙を拭い足元を掬おうとする阿鼻叫喚の恨み悲しみ憎しみを切り捨てて、空の一点を見つめれば、闇に覆われたとしても、やがて点は星となって輝いて、可能性の道標を照らし出してくれる。だからと言ってまだまだ安心できない。見上げた空は、空虚で「なにもない」。そこに勘違いや思い違いの幻想を描いているに過ぎない。また朝になれば、輝いていたはずの星は消え、足元の不幸が悪魔のように耳打ちをする。欲望を何度も切り捨てて、何度も何度も頭上に輝く幻の星をみつけては、その道を先へと進む。
やがて確かに星が見えると言う友達が現れる。ひとりやふたり。やがては10人。
歩みは疾走のように速く、可能性は拍手で迎えられ、その喝采が心臓を打つ鼓動になって、ただ一点の星へ向かって飛ぶことができるほど加速する。
肝心なのは、そのときにも大地でじっとその様子を眺める自分がいることだ。調子に乗っても悲しみに暮れても、付箋をしてメモリーしたポイントに自分を呼び戻せることだ。

そうすれば、何度でも飛ぶことができる。しっかりとその様子を眺める自分さえいれば。どんなに悲しい想いをしても、その涙を拭い励ます自分さえいれば。自分を信じる自分。その自分を見守る自分。幾重にもシールドを張り巡らせるように、自己を瑪瑙の文様のように結晶化させればいい。

人間の根源的な意識の在り方が、生まれながらに人間を不幸にしている。だから宗教が必要な訳で、もしかしたら、ほとんどの人間が、どんなに成功した人物であったとしても、胸を焦がすような想いを抱えてもがき苦しんでいるのかもしれない。だから、善行に走るのかもしれない。

【ありのままの今を受け入れることができれば、成功も努力も失敗も明日を待つこともなく、いますぐに幸せになれる 】
問題は、それを欲しいと思えるかどうか。幸せは、不幸や失敗や憎しみや悲しみに比べて、些細なつまらないものだという真実。それでも「幸せ」が欲しいなら、刺激のない退屈な生活に慣れることだ。

 


夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/