いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自分のために誰かのことをやれば、そこに小さな社会が生れる。

「最近はどう?」
友達に会うと聞かれる挨拶みたいなもの。
「絵を描いて売ってるよ。」
「それで喰っていけるの?」
「まだ、絵だけじゃ足りないからボルダリングジムで週3回働いているよ。知り合いの人をサポートして仕事になったらいいな、と考えているんだ。お金は、そんなにたくさんいらない。それを優先させると作品をつくる時間がなくなっちゃうから。」

発見したサポートする仕事
空き家について活動して、愛知県津島市の長屋のオーナーに出会い、NPOと一緒にプロジェクトを立ち上げ、移住する計画の話しがなくなり、いまは、ぼく個人がオーナーと話しながら、築80年の古い家を活かす計画を練っている。

ぼくは10年以上もマネージャーという仕事をして、アーティストのやりたいこをサポートしてきた。それもぼくの生きる技術のひとつだと気がついた。
空き家や古い家を再生する核心は、家主をサポートすることだと考えて、津島の長屋のオーナーさんと、町屋のオーナーさんの2件で話しを進めている。ひとりで抱えきれない重い荷物も2人で運べば、会話も弾んで何倍もの力を発揮する。


かつて放浪したひとたち
一遍上人は、当時の様子を巻物に描き、円空は木から彫りだした仏を与えて歩いた。奥の細道では、松尾芭蕉が旅した記録から、それこそ日本の自然と四季を知ることができる。山下清は、放浪癖が旅へと誘い芸術家としての足跡を残している。

サンカという山の民の伝説もある。詳細は別として、山に暮らすひとたちは確かに存在しただろうし、宮本常一の本を読むと、小屋を掛けて獲物を追う猟師の姿に出会う。今和次郎の日本の民家には、その簡素な小屋の様子がより明確に描写されている。
「専門用語で移住小屋と呼ばれている。資本がないから全然自給でつくらねばならない。その土地から得られる材料で、できるだけ早く飾りもそっけもなく、むき出しに、自然が生きている人間が家なしでいることをゆるさないから、仕方なしにその工作を始めなければならないのである。」

ぼくは家が欲しいのではなくて、日本のいろんな場所に行き、家を通じて日本の暮らしを発掘したいと考えている。できることなら北から南まで日本の四季と自然と歴史に触れたい。

いま読んでいる白鯨にも日本の船の描写がでてくる。1800年の頃にも、海の向こうを目指して、違う国からやってきた人間が出会った。その途方もない冒険と驚きを想うと、まだまだやれる。過去から学ぶことがたくさんある。

どうして定住するのか。ぼくの正直な気持ちが、いろんな場所にいきたがる。

場所が変わると環境が変わり、視点が変わり、発想が変わり材料が変わり生まれる作品が変わる。そうやって日本中にリアルなネットワークをつくりたい。交易圏をつくりたい。

2つの提案
津島の長屋のオーナーは、ほんとうに面白くて、いまは耐震構造のD.I.Yを研究開発している。この技術に関してNPOを立ち上げようという話しになってきた。オーナーは2つのアイディアを提案してくれた。

ひとつは、「生きる芸術」を「活かす芸術」に変えること。生きるとは、自分でどうにかする意味が強い。活かすとは、他に働きかける意味になってくる。なるほど、いよいよ「生きれる」ようになってきたのかもしれない。

もうひとつは、古民家鑑定士という資格を取ることを勧めてくれた。古い家を残すための資格だ。資格を取るために勉強すれば、知識が手にはいる。資格があれば、初めて会う大家さんの信頼度もアップするはずだ。

古民家に招待された展示
昨日は幡ケ谷のアーティスト友達R領域の古民家に作品を展示しにいった。大正からの物件で財産分与のために売却される。祖母が亡くなりその後、5年暮らした孫が企画した展示会。そろそろ引越しの頃だと思いだして電話をしたら、ちょうど展示会を企画したから参加しないかと誘ってくれた。家への想いが通じた。

夜になってしまったので家の写真が撮れなかったが、ぼくは友達アーティストNampeiの展示のなかに作品を展示してきた。

気がつけば、みんな作品をつくりながら生きている。むしろ、それしかできないから、やっているんだろう。どうしたら、そうやって生きていけるのか、作品をつくりながら考えている。「Nampeiは、作品がどんどんできちゃう。だから売る。それでもどんどんできちゃう。」と言った。

帰り京王線が人身事故で、思うように進まない電車のなかで、自分のやりたいことで我慢した方がいい。理由もなく誰かの事情で、ただ我慢するほど無意味なことはないと思った。

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/