いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きることが芸術であるなら、死もまた芸術である。自分の手で人生を完成させる、死をデザインすること。

祖母は「疲れた。悲しい。悔しい。」と言った。
母と嫁と、神奈川県の野比へ、祖父の墓参りと老人ホームの祖母に会いにいった。祖母の言葉を聞いて涙が溢れた。どうして人は生きなければならないのか。ぼくはずっと疑問に思っている。人生に疲れたり失望したり、身体が不自由になったり病気になって生きていくことが困難であれば、死という選択の自由があってもいいのではないだろうか。

祖母は脳内出血で倒れ発見が早かったために一命を取り留めた。もしひとりで暮らしていたら、何百年も前だったら、そのまま死んでいただろう。ぼくには死を避ける理由が、どうしても分からない。素直に告白する。どうして自殺者を減らしたり、延命することが大切なんだろうか。

生きることが芸術であるなら、死もまた芸術である。ポジティブな死。生きるための死。死に際を選択する自由があってこそ、自分の手で人生を完成させることができる。つまり、死をデザインするということだ。

ぼくは、70歳になったら、嫁と一緒に眠りながら死にたい。

生きがいのない社会に、どうして無理して順応して、格闘しながら生を獲得しなければならないのか。もし、その死を自由に選ぶことができるなら、自分の責任で向き合えるようになれば、生きる意味は、抱えられないほど溢れてくる。生きるとは、死ぬことでもある。すべてにおいて、そういう矛盾のなかでしか、バランスを取ることができないのが現代の社会に順応することに思う。

今日からスタートする自分が創る人生のために、朝5時に起きて、この日記を書くことができた。人生とは時間であり、時の支配者になることが、人生をつくること。1分1秒のなかに有益なこと、やりたいことを刻み、死に向かって生きていく。

一日減って一日増える。-セリーヌ

夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/

生きる芸術のための生活者
石渡のりお
norioishiwata@gmail.com