いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ひたすらに行き交う電車を眺めているように、考える自分を見る視点を持つこと

朝は座禅から始まった。愛知県津島市のにある海善寺の門をくぐり、本堂に入ると女性のお坊さん(いまは尼僧とは呼ばないらしい)が出迎えてくれた。開口一番「佛舎神閣の門をくぐるときは、身につけているコートや帽子、マフラーを外すこと。」と言った。

住職さんは、座禅をするときのコツを教えてくれた。
「無になることはできません。座禅を始めれば、きっと次から次へといろんな想いが浮かんできます。過去、未来、現在のこと。あなたは駅にいます。次から次へと来る電車を観ているのです。浮かんでくるひとつの想いに囚われることは、電車に乗ってその想いとともに旅することです。座禅のときは、ひたすらに行き交う電車を眺めているのです。考える自分を見る視点を持つことです。」

こんなに分かり易い説明は聞いたことがなかった。座禅が始まる。すぐに足が痛くなる。座禅はやったことあるから俺は上手い、と思っている自分がいる。すでに想いに囚われている。すると住職さんに姿勢を直される。かなり歪んでいたようだ。何度も足の痛さにギブアップしたくなる。情けない。なんという弱さ。正しい姿勢をキープするのも難しい。そんな問答を繰り返すうちに45分。お坊さんの声が響く。

「聞こえる風の音、今日は少ないけど鳥の声も聞こえる、車の行き交う音。わたしたちは、自然のなかに生きて、活かされている。」
そんな言葉で座禅は終わった。

印象的だったのは「座禅を宇宙旅行と呼んでいること。座るときに自分の中心を探すことは、ひとそれぞれ違う自分の場所をみつけること。」という説明だった。

座禅のあとは、住職さんを囲んでお茶をした。ご馳走になった。お坊さんに上座に座り注意され、お菓子の食べ方が雑だとさらに注意される。
住職さんは、ぼくらの名前を教典に書いてくれプレゼントしてくれた。電話が鳴っても気にせずぼくらの相手を続けてくれた。
「あなた方の名前は自分が決めたのです。両親が決めたのでありません。また生まれてくる両親もあなた方が選んだのです。そうやってあなた方は、自分で選んだ道を歩いていま此処にいるのです。」
そう言ってひとりひとりの名前の書き方を指導してくれた。

教典を受け取り解説を聞いていると、外から大きな声が聞こえた。
「住職さん!あんた電話してんのになにしてんのー!」
「はいー、どうしました?」
「婆さんが逝ってもうた!早く来てくれ!大切な婆さんだったんだで。」
「はいよー。準備してすぐ行くで!」
住職さんは小さな声で
「文句ばっかり言ってたのにね、死んだら急に。ウフフ。」
ウインクはしなかったが、してもおかしくないほどチャーミングな住職さんだった。

最後に教えてくれた言葉「われむかしよりつくれるもろもろの悪業は、みな無始の貪瞋痴(とんじんち)によりて、身と口と意よりのうみものなり。いつさいわれいま懺悔したてまつる。」
貪とは、貪ることでとどまることない欲のこと。
瞋とは、怒りで、そのエネルギーを消化しないうちにぶつけること。
痴とは、無知のことで、これら教えを知らないまま悶々とすること。

貪瞋痴(とんじんち)を唱えるような場面に出くわす今日この頃。


夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/

生きる芸術のための生活者
石渡のりお
norioishiwata@gmail.com