いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

オオカミとイヌを区別できなくなるほど、勘違いをしている。

今月末29日にOneness Meetingという音楽イベントにアートで参加する。このイベントは音楽プロデューサーのJ.A.K.A.MことMoochyが主体となって運営されている。縄文をテーマにぼくら日本人のルーツを問うコンセプトだ。だから出演者は知名度ではなく、まるで根の深さでセレクトされているように日本全国から意志を持った表現者たちが集まる。ぼくは光栄にもムーチーからイベントに参加して欲しいと誘ってもらった。会場をアートで装飾して欲しいというのがお題だった。

ぼくは自分のテーマをサバイバルアートにしている。それは、そこにあるものを利用して作品をつくることで、必要以上のものを買ったり移動させたりすることを極力避けている。「ない」を受け入れることで今までに見えなかったことが見えてくるからだ。

しかし会場の代官山のクラブにあるものとは何だろうか、と考えてしまった。音楽は誰のために鳴っているのか。お酒は誰のために売っているのか。答えは人だ。イベントにもっともたくさんあるのは、その場を楽しんでいる人々。会場を装飾するのではなく、衣装とマスクをつくり展示し、そこにいる人を装飾するという参加型のパフォーマンスをしてみることにした。

ぼくら日本人のルーツが縄文なら、音楽のルーツは祝祭だ。祝祭は神に祈りを捧げる場所だった。人々は神の姿を仮につくり、祈り歌い踊った。多少の違いはあれ、多くの民族がそういう伝統文化を持っている。

そこでオオカミのマスクをつくることにした。オオカミとは大神でもある。ぼくはオオカミの画像をみながらつくり始めた。するとすぐにイヌとの違いが気になった。調べれば調べるほど、謎が深まっていった。特にニホンオオカミの話になると、それは伝説の動物だった。数少ない標本をみても、イヌでもオオカミでもない、キツネのようなイタチのような奇妙な姿ばかりだ。ニホンオオカミに至っては、そもそも日本では山犬をオオカミと呼び、そのせいで誤って混同して分類してしまったという逸話がある。そもそもイヌとオオカミは同じだという。

知識とは、なんだろうか。ぼくは、オオカミについて知ったつもりになっていた。きっと、そんな知識ばっかりなんだと自分を疑った。勘違いで塗り固めた城に住んでいるアホ殿様みたいだ。世の中のことなんて少しも知らない。壁を詳しく眺めてみればご覧の通り、裂け目で今もに崩れそうに脆い。そのずっと奥には言葉にならない、見えもしなければカタチもない深淵が口を開けている。だから、見るだけではなくその奥に触れなければ、何も知ることはできない。この情報に覆われた時代、知るということの難しさ。「ある」を獲らないで「ない」を受け入れる精神力。

表面だけの常識や知識を剥がして、裸になりたい。知識の反対は無知だ。ピストルを拾って人を殺した永山則夫は「無知の涙」という本を書いていた。無知のまま裸で1日1日を生きてみたい。今日、閃きがあった。今月29日のイベントでは裸になった方がいいかもしれない。


夫婦で作品をつくる
コラージュ・アーティスト
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/

生きる芸術のための生活者
石渡のりお
norioishiwata@gmail.com