いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

沖縄・国家・フェスティバル・生活者からのメッセージ(後編)


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沖縄についてのトークのおかげで、どうしたらいいのか考えたら、花見で浮かれた代々木公園にいられなくなって、4時間かけて10km歩いて板橋の家に帰った。それでも答えは出なかった。
(前編/沖縄のトークについて↓)

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翌日は、ふたつのコンテンツで出演した。ひとつは、ゲリラレイディオ。架空のラジオ番組を演じるパフォーマンス。

代々木公園では、DJが禁止されている。90年代は2000人ものオーディエンスで湧き上がっていた。まさに都市のフェスディバルだった。けれどもケンカやトラブル、違法行為などが絶えず、次第に禁止される理由の方が多くなってしまう。ここ数年はCDJとミキサーが使用できない。いわゆる、踊らせることが禁止されている状況だ。

だとして、ぼくらが音楽を止めたことで何かが解決したのだろうか、と思う。音楽を聴くことに罪はない。むしろ、ぼくが聴いてきた音楽は、こうした状況に対してメッセージする。それがロックだ。

ぼくは、マーヴィン・ゲイボブ・マーリースペシャルズブルーハーツ、レイジ・アゲインスト・ザマシーン、忌野清志郎電気グルーヴの曲を一曲づつ解説しながら流した。

音楽にはメッセージがある。ほんの数分の楽曲に、一冊の本でも表現できない、言葉たちを詰め込んでいる。ぼくはこれらの言葉から勇気を貰ってきた。

例えば、What's Going on/Marvin Gaye の一節はこうだ。
Father, father
ファザー ファザー
We don't need to escalate
これ以上拡大させる必要はない
You see, war is not the answer
わかるだろう 戦争は解決策じゃないんだ
For only love can conquer hate
愛だけが憎しみを乗り越えることができる
You know we've got to find a way 
わかるだろう 俺たちは方法を見つけなくちゃいけない

 

そのパフォーマンスのあと、
アーバンファーマーズクラブの小倉崇さんをゲストにトークした。

ぼくは小倉さんに、昨日のトーク、沖縄の話をした。ぼくたちには何ができるのだろうか。

昨日からの二日間で、分かったことがある。ぼくは生活芸術家と名乗って活動している。それは、ぼくたちが生活をつくることができる、というメッセージだ。

毎日何をして何をしないのか、ぼくたちは意識しててもしてなくても、選択を毎日している。その選択が社会をつくっている。だからぼくは昨日、歩いた。電車にも乗りたくなかった。何も選択したくなかった。自分のチカラでやれること以外。

小倉さんにこう話した。

「沖縄に行かなくても、辺野古基地でノーと叫ばなくても、実はぼくたちは日々の生活のなかで、何をするのか選択するだけで社会を変えられる。例えばアーバン・ファーマーズ・クラブの取り組みは、辺野古でノーと叫ぶ代わりに、何ならイエスなのか、都市生活者がつくれる未来、その選択肢のひとつだと言うことができる」

 

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UFCは、渋谷や恵比寿、原宿のビルの屋上に畑を作る。都内で畑を持つことは難しい。でも屋上なら空いてる。そんなアイディアを面白がって渋谷のビルを持つ会社が解放してくれる。そのひとつの畑がきっかけで広がっている。

例えばビルだけでなく、ある病院では、障害者や精神患者などが、リハビリの代わりに野菜を育てるようプログラムを検討していると話してくれた。

日本の自給率は、どんどん下がっている。人口も減るから、さらに低くなるだろう。ぼくたちが、食べ物に関心を持たなくなると、自然との関わりが減る。先人たちが耕してきた大地が痩せていく。

野菜を育てることは、豊かさそのものだ。そもそも国力とは米だった。それが今は貨幣に変わっただけだ。けれど災害や戦争があれば、食料は経済へと変わる。生きるチカラになる。食べることもできるし交換することもできるだろう。食物を育てることは、自然を学ぶことでもある。耕すことは、Cultivateであり、カルチャーの語源でもある。畑づくりを体験することは、カルチャーそのものでもある。何がどうして、ぼくたちの手元に届くのか。食べ物だけじゃない、情報も、嘘も本当も、先輩たちが育んできた文化も、どういうルートでやって目の前にあるのか、そのルーツを可視化できる。簡単に言えばスーパーに並ぶ野菜を見る目も変わる。

 小倉さんと話しながら思った。全部繋がっている。小倉さんは2010年前後にオフィスをシェアしていた先輩でもある。音楽もフェスも沖縄も福島も野菜も畑もみんな繋がっている。

トークの最後、ぼくはこう話した。
「イタリアに行ったとき、イタリアにはエスプレッソの文化があって、小さなカフェがたくさんあって、ぼくが滞在した小さな町にもいっぱいカフェがあって。でもある日、その町にスターバックスができることになって。地元の人たちは、イタリアのエスプレッソの方が美味いぞ、って誰も地元の人はスターバックスに行かなかったから、一ヶ月半で撤退させたって話しを聞いて。ぼくはそれが生活者のチカラだと思うんです。その意味で、すべての人が芸術家なんです。生活をつくることは社会を変える表現になるんです。だから、この瞬間、生活のひとつ、ひとつの行為を大切に選択すれば、それを繰り返していけば社会のカタチは変わる。それこそが生活芸術で、社会彫刻というアートになるんです」

 

例えば、
ぼくは最近、
タバコを吸って
お酒を頻繁に飲むようになった。
そのお金と時間を別のことに使う。
たったそれだけでも、
日々の時間配分が変わる。
日々の景色が変われば、
日々の行動が変わる。
大きなことより小さな変化。

 

沖縄・国家・フェスティバル・生活者からのメッセージ(前編)

東京、代々木公園で、3月30日、31日にトークをした。春風というフェスで、ぼくは90年代から関わっている。もう20年もむかしのこと。大学生で音楽が好きで、まったくポップではないバンドをやっていて、シンセでノイズを出していた。とにかく音楽が好きだっから、片っ端からなんだって聴いて、面白そうなイベントがあれば海でも山でも雪が降ってても足を運んでいた。行った先でも、全力で楽しんでいると友達ができた。行くほどに、知り合いは増えて、やがてイベントを主催する人たちにも知り合った。

その人たちは、PAという音響屋さんや、ステージを取り仕切る舞台監督、VJと呼ばれる映像技術者、照明、楽器屋さん、オーガナイザー、音楽家、ステージ装飾のデコレーションアーティストだった。日本初期野外テクノフェスティバルRAINBOW2000や、フジロックフェスティバルなど、2000年代はいろんなフェスの出演者として、また裏方として関わっていく人たちだった。

ラッキーなことに大学生のときに、こうしたフェスティバルという文化が立ち上がってくるシーンに関わることができた。春風も、その人たちが始めた祭りのひとつだ。

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野外で音楽イベントを開催するには、ステージから音響設備、電源、照明、すべてを運んでくる。二泊三日とかで設営して、たった一晩だけ夜通しでコンサートをやって、翌朝から解体して、トラックに積み込むまでずっと働く。キツイ仕事かもしれないけど、準備から撤収するまで、いろんなトラブルを笑い飛ばしながら片付けていく姿はカッコよく憧れた。

ほとんどの人が遊び疲れてボロボロのところに片付けが始まる。誰よりもタフな男たち。4人で動かすほど巨大なスピーカーを、パズルのようにトラック満載に隙間なく積み込む。ゴミひとつ残さずに何も起こらなかったかのようにイベントは消えてなくなる。まるで、一晩だけ現れる幻の都市のようだった。 いまでも春風は、代々木公園に開催日の二日前から設営され、イベントが終わった翌日には消え元の代々木公園に戻る。

20代のはじめにお手伝いで関わらせてもらっていたぼくは、今40代半ばになって、ちょうど、フェスを立ち上げていく先輩たちに出会った頃の年齢になった。そして時代は平成から令和に変わる。

 

あれから20年して代々木公園でトークするためにステージに立っている。1日目は、沖縄の高江に暮らす音楽家、石原岳さんとラッパーの大袈裟太郎さん、ジャーナリストの渡瀬夏彦さんらの話。

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100人ほどが暮らす沖縄の自然豊かな集落にヘリパッドが建設されることになる。元から暮らしている住人や魅力を感じて移住してきた人たちは、当然ながら嫌だと感じる。2006年、反対運動が始まる。ところが機動隊が500人もやってくる。ラッパーの大袈裟太郎さん、ジャーナリストの渡瀬夏彦さんは、反対運動の頃からこの問題に関わるようになる。結局、国家権力は小さな声を押し潰して、ヘリパッドは建設されてしまった。

そしていま、辺野古に基地が作られようとしている。選挙では、基地反対を公約する知事が当選した。それでも基地建設の計画は止まらなかった。沖縄の県民投票が行われた。70%以上が反対したにも関わらず、工事は始められた。f:id:norioishiwata:20190403181905j:plain

石原さんたちは、沖縄の問題と共に生きている。石原さんは「沖縄から東京に来て街を歩くと、沖縄のこととこの街の人はまったく関係ないように思えてショックを受ける。毎回、東京にくる度に」と話した。

そして「沖縄のことに関心を持ってくれ、これは沖縄の問題じゃない、日本の問題だ」と訴えた。まさに訴えるという表現がぴったりのトークだった。

 たしかに沖縄の問題は、たまたま沖縄で起きただけで、同じことはどこの自治体でも起きる。福島だって何も解決していない。つまり、ぼくたちには国家に対してノーという手段がないことを証明している。

だとして、ぼくはどうすればいいのか。考えてしまった。すべてを投げて辺野古で抗議すればいいのだろうか。

(後半へ続く)

 

毎日スタートラインに立ってる。

目的を持って書くことも必要だけど、何もないまま書くことも必要だ。例えば、右手も必要だし左手も必要で、いつも両側に気が届いているのが、もっとも安定したバランスだと思う。こう言い換えることもできる。社会はいつだって嘘を真実だと言い張るし、真実はいつも見えないところに隠している。つまり、その両側が見える立ち位置=矛盾こそが社会の標準だと。


思い付いたことはできるし、思い付かないことは絶対にできない。それだけはハッキリしている。


ぼくはアートという種目に挑戦している。これは競争ではない。これは、今までに発見されてなかった視点を開拓する科学だと思っている。その視点を表現でさらに鑑賞者に伝達するゲームとも言える。

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この数週間、やり切った感ある展示を終えて、そう、数週間前は、北茨城市の山の中の古民家を舞台に展示をした。およそ、アートではないものをアートだと主張してみた。田舎の風景、古民家、地域の人々、そこで採れる米や野菜、民具、石、コラージュ、、そこにあるものの組み合わせを変えて視点をズラして新しい景色を作った。

 

してきたことの結果、何かが変わったのだろうか。否、明日がまた始まっただけだ。それの繰り返し。評価やお金など、それが得られるのは一瞬のこと。明日が来れば、それは続かない。いつもの日常に戻る。余韻だけ。きっと評価が続く人もいる。でもそんな人間ばかりじゃない。むしろ、淡々と日々を生きる人の方が多い。そならそれで日々の中で、何を積み重ねていくのか。成功してない人間は、その基礎を踏み固めるチャンスに恵まれる。大地を十分に耕して種を蒔くだけの余裕がある。なぜなら、誰にも要求されることがない。それほどの自由はない。

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これからしようとすること、これまでしてきたことの境界線に毎日立っている。スタートラインを踏み切って、今日を走り抜けたつもりが、ほとんど同じところからまた翌日スタートを切っているようでもある。

 

昨日は、ついに馬小屋のアトリエの改修を完成させた。今日は、溜まっていたデザインの仕事に手をつけて報告書を仕上げた。ひとつの仕事を終わらせれば、その分だけ空白が生まれる。新しい仕事が割り込もうとする。でも大切なのは、考える、手を動かす、何も要求されていない純粋な時間。人はこれを暇と呼ぶ。ほんとうにそうだろうか。暇は、生まれながらに持っている貴重な資源だ。人生そのものだ。

 

何かが完成したようでも、その続きがある。いつも途中だ。その先にやろうとしていることが成功するとか失敗するとかを思い悩むより、やろうとしていることが、バカバカしいほど、純粋かどうか、そこに正直でいられるなら、それは進むに値する道だ。

 

目指してきたのは生活の芸術。芸術は特別な場所にあるのではなく、特別に才能ある人だけのものではなく、至るところに存在している。誰の人生にも宿るものだ。

それを突き詰めていくと、ぼくは自然にあるものだけを利用して、作品を成立させたくなった。どこにでもある、誰でも手に入れられるものを使って。それは、土と水と火と風。あとは努力と呼ばれる自分の時間と向き合うだけの気力。いろいろ検討してみた結果、それは土器だった。陶芸では、条件が厳し過ぎる。陶芸では、至るところに存在できない。表現を選び評価してしまう。それに対して、土器は、無垢で純粋だ。

こうやって毎日スタートラインに立っている。

 

閉じたアートを開くためのアート

ぼくは、絵を描くことについて学んだことがないから、自分で探して、やり方をつくっている。「はっ」と心を動かされるものは、すべてアートの対象になり得る。自分の感性に従っているから、一般的なこれがアートだという基準とはズレている。けれども、そもそもこのズレこそが個性でありオリジナリティになる。

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例えば、友達の家族が遊びに来て、一緒にモノづくりをして遊んだときのことだ。友達の子供は、六年生の女の子ノンと二年生の男の子ヘイで、妻のチフミが二人と色を塗って遊んだとき、ノンとヘイは、手形を岩に残した。誰かが命じることもなく、それは表現された。


子供にペンを渡すと、無邪気に線を描く。その線は意味を持たない自由で、また引っ掻いたような線だったりする。親や大人は、子供のそうした表現に心を奪われる。

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最古の現存するアートのひとつに、有名なラスコー洞窟の壁面がある。ここにも手形がある。それはノンとヘイの手形と同じ表現行為だ。この純粋さは、大人になるに連れて消えていく。もっとこうした方がいいとか、欲が純粋さを濁らせる。

 

この数年取り組んでいるプロジェクト「ガーランドづくり」では、純粋なアートが生まれる。参加者にペンやスタンプを使って絵を描いてもらい、その旗を繋げて10キロメートルを目指すプロジェクトで、イベントなどで参加を呼び掛けると、大人であるほど、絵を描くことを躊躇する。一方で、子供は、幼いほど頭に浮かんだイメージをそのまま旗に描くことができる。その絵には上手いも下手もない。


老人ホームでも、このガーランドづくりをやらせてもらっている。老人は、諺や詩や植物の絵を描いてくれた。ガーランドづくりを楽しんでくれ、ある施設では、日課のひとつになった。絵を描くことが、1日に彩りを添える。それもアートの為せる業でもある。

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障害者施設でもガーランドをやらせてもらった。施設の職員も驚くほど、個人差があるけれども、同じモチーフを何度も反復させたり、鮮明な記憶を再現するような動物や魚の絵が表現された。

ぼくは、アートとはどこにでも存在するものだと思っている。強引に定義するなら、アートとは、純粋さの発露だと思う。ぼくは、学校で学んだ訳ではないから、いろんな場所で観察して、心を動かされた対象を自分の作品に取り入れている。だから、純粋に表現する人たちは、ぼくの先生だ。社会の中で、枠に嵌められ、矯正され消えていく純粋さを、欲も迷いもなく表現する師匠達から学んでいる。

 

一度、あまりの純粋さに圧倒され、完全に心を奪われ、涙が止まらなかったことがある。

2013年、イタリアのビエンナーレで、作品を鑑賞していたときのこと。目が見えない人たちが海の絵を描くというプロジェクトの映像が流れていた。

目が見えないある人は、絵の具の色も判別しないまま、手に絵の具を載せて、キャンバスに手を滑らせ、手探りで何かを掴もうとするように海を描いた。それはまったく海ではないのだけれど、その人の感じる海がそこに確かにあった。目の見えないその人は、見たことのない海を、この世界に、ほかにひとつとしてない海を描いた。

 

表現するとは、奥深く答えのない行為だ。だからぼくは、考えて、行動して表現する。それは常に問いであり、投げた答えは、すぐに問いになって返ってくる。

ぼくは絵を描く表現だけでなく、また言葉を駆使して、このアートという不可思議を捕まえたいと思っている。

これはまったく独自の発想な訳でもなく、芸術の枠からはみ出しながら、その道を切り拓いてきた先人たちに閃きと進む勇気を受け取っている。次は、その話をしよう。

ここから始まった檻之汰鷲(おりのたわし)の源流。

アートはどこにあるのか。ぼくがそう問い続けるのは、ぼくが信じるところのアートに育てられてきたからだ。

 

それは至るところにあった。ぼくがアートと出会ったのは音楽だった。いくつかのレコード・ジャケットは、有名なアーティストの手によるものだった。ぼくは音楽が好きで、常に新しい音楽を掘り進めていくと、その果てには「無音が音楽である」という発想に出会った。それがジョン・ケージの「4:33」だ。無音が音楽。ピアノの蓋を閉じて4:33秒間、演奏をしない。そこに現れたのは、無音ではなく、咳や騒めき、小さな音の断片が浮き彫りになった。

その発想の背景には、禅の思想がある。禅を世界に紹介したのは鈴木大拙。ぼくは、その本も読み漁った。問うこと、考えることもぼくの遊びのひとつになった。

もうひとつ、「4:33」に影響を与えているのがマルセル・デュシャンの「泉」。便器をアート作品にした20世紀最大の芸術的な転換点。

ビートルズのホワイト・アルバムは、真っ白なデザインで「The Beatles」の文字のところだけ凹んでいる。手掛けたのはリチャード・ハミルトンというアーティストで、その代表作は「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか(1957)」で、それはポップアートとして最初期の傑作として位置づけられている。

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「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか(1957)」

ポップアートとして最も有名な、ベルベット・アンダーグラウンドの1stアルバム、バナナのシルクスクリーンのジャケットは、アンディーウォーホールが手掛けていたし、ソニックユースのロウソクのジャケット「Day Dream Nation(1988)」は、いまでこそ有名な、ゲバルト・リヒターの作品だった。ソニック・ユースは、アルバム「DIRTY」でマイク・ケリーの作品も表紙にしている。

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音楽を愛するほどにアートに接する機会は増えていった。レコードの表紙から溢れるイメージは、ぼくにとってアートの始まりだった。けれどアートとは、特別な何かで、それを表現できる人もまた特別な何かを持っている人だと思っていた。そう思いながらも、やらずにはいられない衝動があった。なぜなら「無音が音楽である」「便器がアート」「真っ白が最高傑作のアルバム」という前例が揃っている。

それらは、ぼくに何かをやらせるには充分なほど、無茶苦茶に破綻したコンセプトに思えた。

「俺にもできる」

まだ大学生だった自分は、そう勘違いしてコラージュを始めた。

それは架空のレコードジャケットだった。
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生活の中に芸術はあるのだろうか。

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アートとは何だろう。生きるとは何だろうと考えてきた。あるとき、藝大の大学院に在籍するアーティストにその話をしたら「生きる」はカテゴリーが曖昧だから論文のテーマとして採用されないんですよ、と言われたことがある。

 

「アート」も「生きる」も確かに漠然として、何を指すのか、その言葉からは共通イメージが生まれない。「リンゴ」なら、あの赤い果実を容易く想像できるけれど、「アート」や「生きる」から生じるイメージは、あまりに人それぞれ違ってしまう。それは関心や興味の度合いよって変わる。リンゴにも産地や種類があるようにアートにもジャンルや表現方法の違いがある。

 

なかでもぼくは、アートと生きるには何か関係があるのだろうか、と考えている。バカな大真面目だ。そんなこと考えなくても、それこそ生きていける。そもそも人は、アートがなくても生きていくことができる。けれども、食料がなければ死んでしまう。

 

「生きる」とは、命を繋ぐ活動だから、アートがなくても人間が死なないのなら、アートは生きると関係がないことになってしまう。それでいいのだろうか。アートは人間にとって必要な、それがなければ死んでしまうほど大切なものなんだ、とぼくは人類に訴えたい。後世に伝えたい。

 

前提として、ぼくが何をアートと定義するかを明確にしなければ、話を進めようにも理解しようがないと、言い返されるだろう。けれども、その曖昧なアートを新たに定義し直したくて、これを書いているので、読み進めてもらいたい。

 

アートの語源は「アルス」で技術という意味に遡る。アートはかつて技術だった。だとすれば、アートと生きることは、無関係ではない。むしろ、技術がなければ人間はとっくに滅んでいただろう。

 

人間にとって最初の技術とは何だったのだろうか。それは道具を生み出すために必要だった。つまり、生き延びるために必要な食料を確実に手に入れるためにつくった石器。生きるための道具を作り出すために技術が生まれた。それまでになかったモノを作り出す瞬間、そこにアートがある。石器以前には、石を投げるという動作があった。

それから200万年が経ち、ぼくら人類は今なお、生き延びている。石を削って作った「アート」は、長い歴史の中で、その大河は支流となって、文明社会のなかに枝分かれして注ぎ込んでいる。

 

例えば「現代アート」と言えば、ギャラリーや美術館に展示される作品をイメージできる。この現代アートとは、常にその姿を変え続けている。貨幣経済と結びつき、その価値を増殖させて、捉えようのない概念に化けている。これを資本主義アートと呼び変えることができる。この蔓延する「資本主義アート」のなかで、生きるためにイノベーションを起こしきた「アルス」は、その閃きを失っている。

それは、"there is no alternative"や「この道しかない」という選択肢がもはやないような政治的なスローガンにも象徴されている。

 

ほんとうに、ぼくたちはどん詰まりの時代を生きているのだろうか。そうではない。「アルス」は、今なお閃いているけれど、そこへ至る眼差しが失われている。だから、ぼくはその道筋を、けもの道のように、自然と現代社会を繋ぐバイパスとなる生活芸術という概念を紹介したい。

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遠くへ行きたい。距離でもなく物理的なことでもなく。

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そこにいると鳥の声が聞こえる。風が吹いている。川の流れが聞こえる。青い空、周りは木々が聳えている。ここはどこにでもある場所。誰も住みたいとは思わない場所。

 

心が動くことをしていたい。感動すること。その気持ちは子供心にある。日が沈むのも忘れて無心で遊ぶこと。楽しみや喜びに年齢は関係ない。先入観もあらゆる情報から切断されたところで、出会い笑いが生まれる場所。

 

誰が誰かを利用したり、誰かと優劣を比べたりしないで、持っているものをお互いに分け与える。それは理想論だと言う人もいる。けれどたった1日だけなら理想を実現できるはず。誰にも会わないでひとりで行動すれば、空想の中で過ごしてみれば。試しに絵空事を言葉や行動にしてみて、たったひとりでも理想を理解してくれれば、理想だった空想は現実に変わる。そうやって踏み出していく。

 

役に立たない、役目を終えた、もはやなんのために存在しているのか、その意義すら失っても、それでも存在しているからには意味がある。そう思って眺めてみれば、世界は拡張する。ある一点に立って周りを見渡せば、現在がある。そこには過去がある。言葉は過去を引き摺る。だから、未だに言葉にできてない場所をみつけては掘り返す。

 

できることがあるなら全力で取り組む。それがダメでも失敗でも、全力なら、次へのステップになる。ぼくは何も失敗だなんて考えないし、何も成功だとも考えたくない。今日があって、明日があって、その日ひとつひとつしたことの、その繰り返しの積み重ね。