いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

表現する。生きる。

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表現する。生きる。この活動だけでいい。それだけのためにしなければならないことの複雑さ。複雑さを前にすると、悩んだり、立ち止まったり、振り返ったり、忘れたり。どうにも先に進めない気持ちになる。

打開策は「走る」こと。RUN. 中心を頭から身体にズラせば、行動しか残らない。複雑な思考回路を切断する。走れば疲れて、止まりたくなる。そこをぐっと堪えて走り続ける。距離や速さの問題じゃない。自分を調整する方法のひとつ。

生きることは単純なことだと思う。けれども人が集まり集団化した社会の中では、単純なことが束になって複雑化する。表現することは、この複雑化への抵抗でもある。生きるための芸術とは、社会の中でシンプルに生きるための哲学でもある。

例えば、インターネットやテレビを切断するのも、走って複雑な思考を切断するのと同じこと。3日もやれば、情報過多からデトックスできる。

この時代、情報は刺激物にしか過ぎない。タバコやお酒のような。有益なことは、実はほとんどないと思う。むしろ目の前に起きていることにアンテナを張り巡らせた方が、現実世界が豊かになる。ネットやテレビの情報は、自分の生きる世界とは関係がないと断定してみる。数十年前には、それがなくても人は生きていたのだから。

情報は伝染する。自分の問題にはなかったことが、自分の問題かのように錯覚してしまう。ネットやテレビと思考が接続してしまうと、他人の問題に首を突っ込む羽目になる。気がつかないうちに、そこから眺めていても文句を言ってもストレスを抱えてもどうにもならないことにエネルギーを費やしてしまう。

大切なことは、青い空、木々、足元の草、海、太陽、風が教えてくれる。人間は自然の中に生きている。ぼくは、その生活環境をつくること、手に入れることも大事な仕事だと思う。快適に生きるためには。

身体を使うと「生きる」感覚が蘇ってくる。だから走って単純化する。最適化とも言える。つまり自分自身をシンプルにして、複雑さに飛び込んでも、混ざらないで接続もしないように調整する。複雑さに染まらない技術が必要な時代。だから、ぼくは北茨城市里山にアトリエを構え制作に没頭する。

表現する。生きる。
人間の生命活動は、美しい。

人は現象に反射する鏡だ。

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多拠点生活は多重人格でもある。地域ごとに違う自分がいる。同じ自分でも会う相手によって変わる。「自分」とは鏡みたいなものだ。

音楽をやっている自分と絵を描く自分がいる。文章を書く自分もいる。音楽をやっている自分は20代から30代の友人たちとの繋がりで、絵を描く自分は40代の繋がり。文章を書く自分のはそのどちらでもなく自分自身と向き合うために存在する。だから文章もまた自分を写す鏡だ。

音楽は目に見えないし聞くには時間がかかる。3分の曲なら3分、鑑賞に費やす。絵は瞬間に伝わる。全く表現が違う。視覚と聴覚。

音楽活動は古くからの仲間たちとやってきたNOINONEというバンドにある。20代から今に至るまで続いていることが奇跡。売れる訳でも評価されている訳でもない。それでも続いているには訳がある。ぼくが28歳のとき交通事故に遭って、事故とは全く関係なく親友でもあったメンバーが死んで、バンドの存在意義が変わった。その友達の分も生きてやるという気持ちが湧いてきた。生きる理由がはっきりと芽生えた。そのとき宮沢賢治の「春と修羅」を読んで泣いた。詩の世界に心が飲み込まれていった。それからぼくは詩を書いてバンドでパフォーマンスしている。

先週末は江ノ島オッパーラという場所でライブがあって、北茨城から2泊3日で旅をしてきた。

ぼくがやっている音楽はパンクでハードコアと呼ばれる激しい部類の音。ぼくは歌っていない。歌より先に言葉があった。メッセージを言葉にしている。何を? 生きる意味を。今ここにいる瞬間の尊さを。

バンドはお金のためにやってるのでもないし、ただただ、音を楽しみ、空間を共有するそこにいる人たちを歓喜させたい。明日にエネルギーを持って帰ってもらいたい。謎にサービス精神溢れるパンク。そんなスタンスでライブをやるから快楽しかない。何の不安も心配もない。ただの最高。純粋で独立した表現行為がここにある。

週末、音楽に遊び堪能した。思った。どうしてアートは、そうまでして論理的なんだろうか。音楽のように「超ヤベェ」とか「最高にカッコいい」とか、感じるだけでもいいと思う。

12月8日からの個展を1週間早められないか、と週末に連絡があって慌てたけれど、1週間でやれることなんてそんなになくて、むしろ毎日コツコツやっていることを、その日々の中でつくられた作品を展示すればいいと思った。宮本武蔵も日常を戦場に戦場を日常に、と言っている。ぼくにとっての音楽は一時的な解放区だけれど、アートは日々の営み。何もない一日とは、妻のチフミと制作に没頭する時間を意味する。だから、その日々みつけたカタチを展示すればいい。

古い友人に再会したり、江ノ島に足を運んだり、バンドでライブをやったり、記憶と考えを掘り起こして文字にしたり、いろんなことに手を出したり足を突っ込んでいると、何かをしている時にまた別なことのアイディアが降ってくる。これをセレンディピティと言う。起こる出来事には意味がある。展示のスケジュールが1週間前倒しになったおかげで、タイトルもコンセプトも変わった。

タイトルは
「生活芸術商売」展。
何回か変わってきたけど
これに決定。

有楽町マルイで展示をするので「商い」をテーマに作品展をやる。ぼくたちは、サバイバルアートというコンセプトをつくって、そこにある環境を材料や題材にして作品を作ってきた。だから今回はマルイを題材に架空の檻之汰鷲ショップをインスタレーションする。

生活芸術とは
下図のグラフに基づき価値を循環させる活動。この循環の中で作られたモノ、発見されたカタチを商品にする。

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その1、捨てられた物に価値を与えよ
その1、妻は大切に丁寧に可愛がれ
その1、欲深き人の心は道を失う
その1、気持ちよく楽しませよ
その1、違和感や矛盾を好め
その1、自分の美を信じよ
その1、失敗から始めよ
その1、古いは新しい
その1、自然に倣え
その1、種を蒔け
その1、争うな
その1、遊べ
その1、愛

 

生活芸術商売の心得

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「生活芸術商売」展 

by 檻之汰鷲(おりのたわし)

日時:2018年12月1日(土)~12月9日(日)
11:00~21:00
(日・祝は10:30~20:30)
場所:有楽町マルイ 8F(東京都千代田区有楽町2丁目7-1)

心地よいカタチ- Comfortable shape

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制作の合間に「農本主義が未来を耕す」という本を読んだ。田んぼや畑をやることに経済的な価値をばかりを求めることが根本的に間違っていると説いている。なぜなら、農業は、本来は「農」であって、それは貨幣価値とは切り離された生きるための仕事だった。食べるために労働した。だから経済的な効率化や貨幣価値以外の意義がいくつもあった。田んぼを耕せば、その土地の自然環境が豊かになる。先祖から受け継いだ土地を守ることになる。地域に住んでいる人と共にその土地に暮らし、生きるための環境を作っていく。ここにはお金に換算できない価値がある。

とても納得のいく本だった。絵も同じだ。売るために描いた絵は商品だ。もちろん絵が売れるのは、嬉しいことだけど、売れない絵に価値がないかと言えばそんなことはなくて、売れない人が絵を描く意味がないなんてこともなくて「農」と同じで芸術にもお金に換算できない価値がある。それを大切にしたいから売れるための絵は描けない。そのためにカタチを変えたくない。だからアートには何時間費やしたから幾らとかの単純計算は成立しない。

その大切にしたい価値とは何か。それを追求するのがアートの本道だと思う。ぼくは、アートとは何か、生きるとは何かを追求してブログを書き続けている。

今日も1メートル50センチの絵を妻のチフミと描いていた。最近の傾向としてチフミは自分の痕跡を作品に残したくないと言って刷毛目すらも残さない。線もキッチリと筆で引く。作業しているうちに気がついたことをチフミに言った。

「アートっていろいろ説明やコンセプトがあるけど、基本は快楽だよね?」

「え? そうだよ。毎日楽しいからやってるし、気持ちいいカタチと色。それ」

ぼくら夫婦のアートは、快楽でしかない。ぼくら夫婦は毎日制作しながら言葉を交わしミーティングしている。あるのは作る喜び、生きる喜び。不満も怒りも憎しみも社会批判もない。心地よいカタチを描いている。生活にしろ、家にしろ、未来にしろ、今にしろ。「心地よいカタチ」これしかない。何よりも先に心地よいカタチ。Comfortable shape. googleで画像検索すると、飛行機に乗るときに首に付ける枕が出てくる。あとベッドとか。

ぼくら夫婦が空き家を改修して暮らしをつくり始めたことも心地よい暮らしのカタチを求めたこと。北茨城市の古民家をアトリエにするのも心地よい環境のカタチを求めたこと。心地よい暮らしは、貧乏だとか金持ちだとか、貨幣価値で計ることはできない。それは豊かさも同じこと。

自然と人間について考え行動することは貨幣価値以上の豊かさを手に入れる。なぜなら自然は分け隔てなく、働きを労ってくれるから。

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12月の個展のタイトルは
【心地よいカタチ- Comfortable shape 展】にしよう。前回の記事に書いたタイトル候補から変更。あとは心地よいカタチをどんどん作ればいい。生きるために作る。作るために生きる。心地よく暮らすために作る。

鳥 虫 けもの 草木花。小さいは大きいより素晴らしい。

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夜、アトリエからの帰り、クルマのラジオからクロマニヨンズの新曲が流れた。タイトルは「生きる」だった。マーシーヒロトがゲストでどうでもいいことを話している。ほとんどのことがどうでもいいことで、そのなかに小さな楽しいことや喜びがあることが伝わって来た。レコーディングのときは一日に2~3時間しかスタジオに入らないとか、昼は回転寿司だとか。「一日だけ何かになれるとしたら何になりたいか」という質問にヒロトは、できるだけ小さいものになりたいと答えた。アリでは大き過ぎる。小さければ小さいほど、世界は大きく見えると話していた。

番組が終わるまで、クルマで聴いた。クロマニヨンズヒロトマーシーのライフスタイルに感動した。アルバムを作ってライブしての繰り返し。ロックンロールの初期衝動を忘れない。彼らほど成功しても初心を貫く姿勢。

家に帰ってお風呂を入れながら「旅する巨人・宮本常一渋沢敬三」を読んだ。歩く在野の民俗研究家、宮本常一の本は10冊は読んだ。昭和の戦前から戦後、高度成長期までの記録されてこなかった人々の生活が見えてきて、その声が聞こえてくる本ばかりだ。宮本さんの本は、社会的に弱い立場にある人々の姿を描く。日本中を歩きに歩いた宮本さんの活動を支えたのが、財閥の渋沢敬三だった。宮本さんとパトロンの関係は、この本を読むまで知らなかったエピソードが満載で楽しい。宮本さんが歩いた当時、農民や漁民、山の民や流浪の人々の暮らしは、それこそ、どうでもいい取るに足らないことだった。それを生涯をかけて記録した。ぼくは宮本常一さんにとても影響を受けている。アートで何か、いま見失っていることに光を当てたいと思う。

お風呂に入ったら、図書館から借りていた「かぐや姫の物語」を観ようとチフミが言った。高畑勲監督、ジブリ作品。

とくに期待もなく始まって、すぐに絵が動いている作風に魅了された。いわゆるアニメとは違う、人が描いた絵が動いている。古くて新しい手法。舞台になっている村の景色は、いま自分がアトリエにしている北茨城市の富士ヶ丘に重なった。そんな里山の風景のなか子供たちが歌う


まわれ まわれ まわれよ 
水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい

 

なんて素晴らしい映画なんだろうか。いま観るべきタイミングだった。ぼくたち夫婦には、子供がいないので、竹取の翁と婆やの気持ちになって、気がつけば何ども涙が溢れていた。竹取物語は、日本最古の物語だと言われている。ここには人間の欲望に対する罪と罰が描かれている。人間は何も変わっていない。

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田舎の山のアトリエにいても、インプットはできる。むしろ、情報が少ないから、必要なことだけキャッチできるのかもしれない。

12月の展示のタイトルは
「何もないは美しい~理想の暮らしから生まれる作品展~」
にしようとチフミに話した。

虫、鳥、けもの、草木花。
ぼくら夫婦は、彼らの仲間でいたい。

表現の経済活動。アートを売ること。

f:id:norioishiwata:20181008130102j:plain絵を描いてるとき、ふとこの数年の夢が叶っていることに気がついた。海の側に暮らし、広いアトリエで大きな絵を描いて、木工をやって、波が穏やかな日にはカヌーで釣りをしている。

2014年、制作に没頭できる環境をつくるために妻とアート以外のすべて放り出して、空き家を探した。まずは、生活水準を下げることからはじめたから、貧乏贅沢まっしぐらだった。

それでも夢が叶ったんだと思うと感謝が溢れてきた。ひとりで掴んだ訳ではないし、今は北茨城市の地域おこし協力隊としてアーティスト活動をやらせてもらっている。何より妻のチフミが理解者であり、制作のパートナーでありパトロンだった。

絵を描いて暮らす環境はできたけれど、現実問題、まだ経済的に自立できていない。北茨城市に来ての1年半は、理想の環境を目指して、古民家を改装してアトリエとなる拠点づくりに費やしていた。それができた今、次の目標がはっきりと見えてきた。これから、ほんとうに芸術で生きていく挑戦が始まる。そう絵を描きながら考えていると、電話が鳴った。出ると商工会の藤島さんからだった。

「石渡さんは、北茨城市に定住して絵を描いて暮らしていくつもりらしいけど、月どれくらい売れているんですか? 顧客はどこにいるの? ターゲットは?」と矢継ぎ早に質問された。

ぼくは正直、その事について考えていなかった。というか、これまでは奇跡的に次の展開が起きて、生き延びてこれた。だから先のことは考えていなかった。藤島さんは、そんな甘い期待を打ち砕くように

「全然、見通しが立ってないですね。奥さんのチフミさんもいるのだから計画を立てないと暮らしていけませんよ。理想も大切だけれど、生きていくにはおカネは必要です」と厳しい口調で言った。

これこそ、いつも偶然に起きるアレだ。奇跡的な次の展開。藤島さんは「心配しているから言ってることです」と言ってくれ月曜日に会うことになった。

北茨城市は「芸術のまちづくり」に取り組んでいて、その目標のひとつに「アーティストが起業できるまち」というお題がある。まさにこれだ。おカネを手に入れることは、それだけの価値を認められたことだし、それだけのニーズが社会にあるということの証明でもある。売れるために表現を変えるつもりはないけれど、表現したものがより多くに届くように工夫したり、貨幣に換金できる仕組みをつくることはやっていきたいと思う。仕組みをつくれれば、自分だけでなく他の作家も豊かにすることができる。

この日の午後、近隣のご老人が、絵描きじゃあ、なかなか生活が苦しいだろうと、米と味噌とタクアンを持ってきてくれた。

じっくり時間をかけていい絵を描きなさい。芸術はすぐに芽の出ることじゃないから。食べ物があれば、少しは長く粘れるだろう」と言って。

ぼくは妻と絵を描いて生きている。

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制作する時間を持つこと

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日々の暮らしの中でアート作品をつくる。これが集中しようとすると案外に難しい。こんなことを言っても有意義な話にはならないかもだけれど、やろうとしていることを行動に移して、それをカタチにする難しさを言葉にすることは、人生という捉え切れない現象を理解する何らかのヒントにはなるかもしれない。あらゆる場面で遭遇するこの難しには、答えがない。

面白いのは、アート作品が全く生きる上で役に立たないことだ。つまり食べれるわけでもないし、何かをする道具をつくるわけでもない。それを作っても褒められるわけでもない。だから、制作時間を確保するには、生きるためのエトセトラを片付けなければ、そこに集中できない。何かおカネになる仕事があれば、それをやらなければならないし、友達や地域の人たちに会う時間もある。最近では畑も始めたし、サーフィンやカヌー乗りの遊びも、バンド活動なんてこともしている。すべては、作品制作のための経験としてやっているつもりなのだけれど、そうこうしているうちに時間がなくなってしまう。

そもそも作品制作は、誰かに頼まれたことでもない場合、とてもリスクある時間を過ごしている。つまり、売れるかも分からないモノをせっせと作っている可能性があるということ。これはビジネスマインドだったら有り得ないやり方だ。けれども、むしろ無駄になってしまいそうなギリギリラインを攻めた方がもっと刺激的な作品が生まれてくるとさえ思えるからややこしい。

この無駄とも思える行為の中に僅かな可能性や美しさを感じてしまう。だったら、コイツの正体を突き止めたい。なんだろうか、右へ寄れば、左側に答えがチラッと見え隠れして、左へ寄れば右側に現れる、時には上に下に、捉えることのできない、この絡まり合って解ける糸口がないような難しさ。

アート作品をつくるという行為は、矛盾したところから生まれてくる、と思っている。こう説明することもできる。ぼくは「純粋さ」について書こうとしている。

つまりは、想像力の源泉を突き止める思索。あらゆる日々の経験が作品の肥やしになる。そう信じている。けれども、経験自体は種ではないから、そこからは芽が出ない。制作とはもっと身体的な行為で、アートの種は概念とか狙いとかコンセプトにあるのではなく、行為の中にこそ開花するのだと思う。

例えば、どんな椅子をつくろうか考えた場合、社会的な意味では、計画があって、その通りに椅子を作れば思った通りの椅子が仕上がる。けれども、そのやり方では、椅子はアート作品にはならない。計画することと、椅子を作ることは、ぼくの制作スタイルからすると、それぞれ別の領域に属する。

ぼくの場合、どこかに制作する意図とは別の事故的な要素を求める。だから、計画するより先に椅子をつくる。失敗する。やり直す。失敗する。やり直す。これを繰り返していくうちに、エラーが起きる。椅子は椅子ではなくなってテーブルになったりする。またはその両方になることもある。

意図を超える何かがぼくにとってのアートの種だ。妻のチフミに隠せと言われるのだけれど、種明かしをすると、どうやって偶然を必然にするかという話。この偶然の必然を手に入れるためには、何も考えずに手を動かすこと。なぜなら、アート作品は役に立たないのだから、あれこれ思考を巡らせても、結局は欲に飲み込まれて有用なモノを作ってしまう。売れそうだとか、気に入られそうだとか。そうじゃない、意図や意味を超えた純粋な創造力を奏でてみたい。そう、楽器のようにこのチカラを操ってみたい。

こうなってくると、制作は儀式に近い。ぼくは、あらゆる欲望を捨てて、偶然が起こす奇跡をキャンバスに呼び起こすシャーマンになる。もし、こういう方法で椅子を作るなら、デザインされた椅子としては最低のクオリティーで、アート作品としては優れた個性を発揮できる。それがどう評価されるのかなんてことはどうでもいい。もっともっと未知の世界を開いてみたい。

考えるな。動け。そうすれば、アートはここにやってくる。一切の社会的責任を放棄して、作品と対峙したとき。目の前に、ぼくが作った誰も見たこともない、ぼくも意図しなかった偶然の産物が現れる。12月の個展に向けてマジックを起こす。このテキストは道を見失ったときのための復活の呪文

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