思いついたことをメモするだけで明日は変わる。
生活をつくりたい。
生存に必要なものがなければ死を待つのみ。それは水。どこにあるのか。
食料はどこにあるのか。肉は動物。狩猟する。魚。海や川にいる。穀物や野菜は大地を耕し手に入れる。日本には四季があって、冬には寒くて食料が乏しくなる。だから、
食料の保存は、余剰生産を可能にして富をもたらした。
その何千年も経った現代にぼくたちは生きている。3000年後とか、5000年後とか。その間に人間の生態系は変わったけれど、基本は変わらない。
ぼくは、この現代社会で「生活」
人間は何のために生まれたのか。働くために生きたのか。否。
<生活は社会の中に円を描いて閉じている>
この出口を探してみようと思う。音楽の歌詞、ボブ・マーリー歌うところの社会の矛盾に出口のヒントがあるかもしれない。経済学の本の中に答えがあるかもしれない。一枚の絵がこの無限ループを止めるかもしれない。誰も住んでいないような山奥に答えがあるかもしれない。川にあるかも、海にあるかも。少なくとも学校では教えてくれないし、答えは販売していないし、ダウンロードもシェアもできない。とにかく、ぼくは人間の幸福のために進化した生活を描いてみようと思う。この仮定を全面的に妄信して、仮定を事実に変えてみたい。2018年夏、魚も釣れないし、野菜も収穫できない自分が、
あまりに多く情報と真実の見えないメディア、サービスと商品の過剰供給に埋もれしまった「生活」を発掘したい。その進化した姿とはどんなものなのか。お金はなくても社会のインフラが崩壊しても生きていける基準を提
音楽がぼくのアートの根っこにある
フジロックフェスティバルに参加して20年近くが経つ。10代に音楽が好きになって、20代にパッケージされている表紙の絵や写真が好きになって。ぼくのアートは音楽がルーツだ。20代のはじめに、野外のコンサートに行って、山のなかに、大自然のなかに聳え立つ、黒い箱=スピーカー、そのサウンドを体験して、太古とテクノロジーが融合するアートを感じた。そのとき、はじめて、木が美しいと感じた。
それから縁あって、20代はフェスでスタッフをやるようになって、駐車場や設営、ステージを組んだり、舞台監督のアシスタントや、イベントの撤収スタッフや、ドームテントの設営をしたりした。野外でコンサートをやることは、自然を会場にして、つまり、風や雨、天候のすべてに対応しなければならない。それに備えておく必要があることを学んだ。
フジロックのサイトのひとつDay Dreamingで去年から"Inai Inai Bar" というバーをやることになった。バーとは「お酒を仕入れ売る」とても単純な商売。けれど、野外でやるとなると、どうやって冷やすのか、どれくらい売れるのか、天候との相談が重要で、思い通りにならない自然を読まなければ、利益はほど遠い。
今年は2年目ということもあって、お店になる小屋を作って、お酒もバランスよく仕入れて、イベントチームも一致協力で、お客さんが寛ぐスペースを作ったりして、金曜日、土曜日と快調だった。台風が接近しているから、小屋を補強したり、タープや屋根の風対策をした。
ところが土曜日の夜、いよいよ風と雨が激しくなって、夜中に10年使ったテントで寝ていたら、ポールが折れて浸水して、寝床が無くなって、屋根のあるところに避難して、結局、日曜日はバーがあるDay Dreamingは中止になってしまった。
まさに「風に吹かれて」だった。けれども日曜日は、フジロックで何年振りかの自由の身になって、途中出会ったケニーさんと、グリーンステージでAnderson paak, Jack Johnson, Bob Dylanを観た。偶然会ったケニーさんは、車の輸出を仕事にしている。ぼくのいま最大の野望が、ザンビアの友達に日本車を届けるプロジェクトだ、と話しをすると協力してくれることになった。必要なときに出会いは巡ってくる。
月曜日の朝に撤収のためにDay Dreamingの会場に行ってみると、そこは台風一過、話しによると風速30mだったとか。人は立ってられず、家屋の屋根は飛ぶほどのレベル。とても開催できる状況じゃなかった。風という怪物が暴れた跡は圧巻だった。破壊。怪我人も事故もなかったのは、さすがのフジロックの判断。
そして慣れた制作チームの対策は、自然の猛威をかわすように、被害を最小限に食い止めていた。掘建て小屋のようなBarも、状況を見ながら補強したおかげで、風に耐えて建っていた。耐震でなく、免震で、チカラを逃す構造にしたおかげで耐えてくれた。
もう20年近く野外のイベントに関わっているけど、やっぱり自然のなかに人間が生きていることを教えられる。今回も「風に吹かれて」自然に翻弄されたフジロックだった。ほんとうはフェスだけじゃなくて、日常も自然のなかに生きているってことを忘れてはいけない。
Barをやってみて「仕入れて売る」という単純な商売を今更、体験しているけれど、そう簡単に儲けさせてくれない。何千年も人間が商売してきて、貧する者、富む者がいるのだから奥は深い。
フェスティバルという空間に適応する能力、技術は、いきるための芸術のルーツになっている。
「生きるための芸術2」を出版するために。
タイミングがやってきた。お笑いで知られる「よしもと」
このタイミングを待っていた。
タイミングが来たことを伝えに新宿にある出版社を訪ねた。
出版社の社長さんは、音楽が好きで、
その夜、親友の彫り師に会った。久しぶりに東京に来たし、
その夜、2人で「つくる」ことを語った。共通しているのは「
その夜、オーストラリアから作品が届いたよ、
とメッセージをくれた。
世の中にはアートを必要としている人がいる。
ぼくが信じるアートは、ここにしかない。
One of thesedays 92
サーフボードが折れてしまった。修理の仕方を調べてみると、FRP樹脂とガラスクロスが必要だと分かった。あとの研磨する道具は持っていた。乾燥に24時間かかるので、表と裏で2日間作業した。直したその日に海に行って波に乗ったら、また折れてしまった。
やってみなければ分からない。ボードが折れたとき別のを買おうかと思った。けれど、どんなモノでもその役目が終わるまで全うできるのが幸せだと思う。人間と社会の間に横たわる問題がそこにある。ダメだと決めつけるのも諦めるのも簡単。そうやって可能性を捨てていく。だから、もう一度、直すことにした。前回の失敗を踏まえて修理した。折れた箇所の周囲を削って、ガラスクロスを2枚にした。また2日間かかった。でも頑丈になった。また海に行った。ボードを折りたくない気持ちが、タイミングを遅らせて、波に乗れなかった。波に飲まれて、巻き込まれてボードが折れたので、それが怖くなっていた。
そんな気持ちで、波に向かってもいい成果は出なかった。残念な気持ちで休憩した。浜で波を眺めた。寄せては返す波を見てるうちに「あれは乗れる、あのタイミングだ」とイメージが湧いてきた。また波に向かっていった。分かったのは、失敗したくない気持ちがタイミングを遅らせていた。ジャストは、もっと手前だった。
サーフィンの話しをしているけれど、はじめたのは今月からで、何をバカな話しをと思うかもしれない。けれど、できないことをやることは、すべてのことに通じている。生まれたときは何もできなくて、ひとつずつできるようになっていく。話せるようになり、歩けるようになり、字が書けるようになり、自転車に乗れるようになり、ひとりで遠くへ旅できるようになり。いくつもの「できるようになる」を経験する。大人になると「できること」しかやらなくなる。
だからこれはサーフィンの話しじゃない。「できるようになること」の話しをしている。だから、波と戯れていると、描こうとして描けないでいる絵のことが頭に浮かんできた。できないサーフィンに挑戦していると他のことも挑戦しようと思えてくる。
英語も中学、高校と習って勉強したけれど「できるように」はならなかった。苦しいながらに、英語も5年前から勉強を始めた。飛行機に乗ると、日本語字幕すらないので英語で映画をみるようになった。今年の春にアメリカに行ったとき、アイルランド人の友達と一緒にNetflixを観てから、英語字幕で観るようになった。
「できないこと」はいつのどの時点から「できること」になるのだろう。できる人はたくさんいて、比較する限り永遠にできないままのようにも思う。でも日本人が日本語を「話せる/話せない」は問題にしない。当たり前にできることだからだ。
日本に住んでいるメキシコ人と話したとき「英語は簡単な言語」だと断言した。確かに日本語に比べたら圧倒に簡単な言語だ。そのときから、英語は簡単だと思うようにした。
もしかしたら、何だって難しいを簡単に変換できるのかもしれない。楽しんだり、必要最低限、使えさえすればいいツールだとすれば。競争ではない。サーフィンは、波に乗る遊びで、海と戯れ、自然を感じるための時間。英語は、世界中の友達や、一緒に仕事をする仲間とコミュニケーションを取るツール。
アートは、いくら言葉を費やしても説明できない「生きる」という現象を、ひとつの道に集約する技術。与えられた人生の時間をこれに費やす限り道は続ていく。ヘタでも、できなくても、やってみたいことをやらないよりも、やってみればいい。高みを目指しているのではなく、平行移動している。目線は低くいのだから、疲れたら休んで、足元を見れば、草や花が咲いている。蝶々や蜂が飛んでいた。
なんのために生きるのか。83歳、山崎さんの問い。
市役所で山崎さんに会った。山のうえに住んでいる自称90%仙人
山崎さんは
「そう言えば、ワイン飲みに来るって話してたね」と。冬に会ったときのことを覚えていてくれた。
「今週末はどうですか」
と言うと
「土曜日ですね。大丈夫ですよ」
山崎さん宅を訪れるのは3回目で、山崎さんは講義と呼んでいる。
「あなたがたは、アートをやるのですから、
「人間にとって普遍的なこととは何でしょうか」山崎さんは、質問をする。答えを求めている訳ではない。
山崎さんはズバリなことを言う。山崎さんのテーマは壮大だ。
山崎さんは何でも保管している。
山崎さんは人生で3つのことを成し遂げた。
1.70歳を過ぎて自作の巨大天体望遠鏡をつくった。
2.1970年代に世界一周をしてその記録を残した。
3.自分が生きてきた記録を資料と併せて記録している。
先日、日立製作所のひとたちが、天体望遠鏡を見学に来たとき、
山崎さんのテーマははっきりしている。「人間がなぜ生きるのか、
山崎さんは
「100%の仙人になれば空を舞うかもしれない
山崎さんは日本は民主主義ではないという。
イギリスから独立したアメリカは、
山崎さんがアメリカに行った70年代、ベトナム戦争をしていた。
それは言語に由来している。日本語は、表意文字で、
日本は空気を読み、本音と建前が一致しない国。
日本は、未だ経済成長を追い求めているけれど、
山崎さんの講義はメッセージだ。
「
山崎さんの講義で、ぼくは何も発言しないし答えない。けれども、
Time is not for sale.
1日の出来事。起きて活動しているのは16時間だから960分。
今日は9時50分から歯医者なので、
サーフィンをはじめてから海を観察している。
海の観察から歯医者に移動。
アトリエにきた理由はもうひとつある。
家に帰る前に再び海へ。霧がどうなったのか気になる。
家に帰ると妻チフミがお昼にパスタを作ってくれていた。
雲が晴れて太陽が出てきた。暑くなってきた。よしサーフィンだ。
いい具合に何回かトライしていると、やっぱり波に飲み込まれる。
割れたボードの修理をネットで調べたらやり方があった。
夕食にチフミがつくった焼きうどんを食べて、
サーフボードは割れたけれど自分で直せそうな気がするし、
作品をつくって価値をつくる。時間はお金なんかじゃない。1分1秒が人生をつくる資源だ。時間は資源だ。鉱物の原石。磨かず売れば、それだけの価値しかないけれど、時間の使い方次第で、人生をダイヤモンドにも変えられる。
爆発する芸術。蔡國強(さいこっきょう)と「ギャラリーいわき」のこと
蔡國強を知っているだろうか。
今日は、その蔡國強(さいこっきょう)
ギャラリーいわきは、北茨城に引っ越してから、
ぼくたちが改修したアトリエarigateeに、今週いっぱい滋賀県のガ
「まあ、コーヒーでも飲んでいってください」と誘ってくれた。
ぼくたち夫婦も作家活動をしている、と話すと、
今でこそ世界的に有名な蔡國強(さいこっきょう)は、
「売れるか分からないけど、ウチで展示をやらないか」
「それはいい。もちろん、ぼくだって売れるか分からない。
藤田さんは、そのときに作品を購入していた。日本で蔡國強(
蔡國強(さいこっきょう)は藤田さんを通じて、いわき市に惚れ、
みんなお金もなかったので、
「いわきの水平線に赤い線を走らせたい」と言った。
「新月の夜に船を出して、船から船を導火線で繋いで着火する」
いわきの水平線に爆破の赤いラインが走った。このときの写真が、
ニューヨークに渡った蔡國強(さいこっきょう)から、
「いわき市からの贈り物」として展示された作品は、蔡國強(
その廃船はたちまち話題となって、
世界を代表するアーティストになった蔡國強(さいこっきょう)
藤田さんは当時の蔡國強(さいこっきょう)
「売りたくない作品もいっぱいあったし、
廃船になった作品から派生した廃材を組み合わせて建てた3つの小
そのひとつは、行き場がなくなり、廃棄されるなら、
ところが、2つしかない三重の塔を見たギリシャの富豪が、
一度、蔡國強(さいこっきょう)
いわきの海に沈んでいた廃船と、
藤田さんと蔡國強(さいこっきょう)の交流はいまも続いていて、
30年に及ぶ、ギャラリーとアーティストが歩んできた軌跡が、