いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活をつくるために<構想ノート>

f:id:norioishiwata:20180811092916j:plain思いついたことをメモするだけで明日は変わる。頭の中から取り出しておけば妄想は現実に変わる。それがノートだ。

生活をつくりたい。思いのままに生活を編集できたら無敵だと思う。そもそも生活とは何だろうか。生きている理由の根源を突き止めたい。「生活」とは生命を維持するための活動。そのために必要なものは何か。これがなければ死んでしまうもの。水、食料。極端な暑さや寒さを回避するもの。寝る場所。実のところ、生活するためには、これだけあれば生きていける。それ以外はオマケの社会奉仕だと思っている。

生存に必要なものがなければ死を待つのみ。それは水。どこにあるのか。川。地下水。人類は、川のそばに生活をして文明をつくってきたし、なければ井戸を掘った。塩も人間には欠かせない。海水から手に入れる。

食料はどこにあるのか。肉は動物。狩猟する。魚。海や川にいる。穀物や野菜は大地を耕し手に入れる。日本には四季があって、冬には寒くて食料が乏しくなる。だから、春から秋にかけて土地を耕し食料を得て、あらゆる手段を駆使して保存する技術をつくってきた。味噌や漬物は、現代に引き継がれる保存食の代表選手。肉や魚も保存するために燻製にしたり干物にしたりしてきた。

食料の保存は、余剰生産を可能にして富をもたらした。山に暮らす人間にとって塩は欠かせない必需品。海の民と山の民は、塩や魚と穀物や野菜を交換した。そのために道がつくられた。道は人と物を運ぶ血管だ。食料の保存は、持つものと持たざるもの、富む者と貧する者を線引きした。食料を生産する土地は、資源として奪い奪われ管理されるようになった。

その何千年も経った現代にぼくたちは生きている。3000年後とか、5000年後とか。その間に人間の生態系は変わったけれど、基本は変わらない。何千年前と全く違うライフスタイルのようにも見えるけれど、根本的に人間は変わらない。必要なものを手に入れて生きている。水、食料、衣類、家。手に入れられないモノは貨幣で交換する。そのために労働する。だから、高級車や便利で快適な家、豪華なレストランの食事ですら「生きる」という活動にとってはオマケの贅沢に過ぎない。けれども、オマケの贅沢が「芸術」だったりする。常に時代の最先端にある技術、贅を尽くした料理とその料理人の技術。

ぼくは、この現代社会で「生活」という行為を暴いてみたい欲望に駆られている。なぜなら、あまりにも支配されてしまっている。不自由な生活を強制されて、それを黙ったまま受け入れている。不自由なく、何でも手に入れられるオマケの贅沢生活を維持するために、ぼくらは不自由な世界に閉じ込められている。それでいいのか。生活は社会の中に円を描いて閉じている。出口が見えなくなっている。

人間は何のために生まれたのか。働くために生きたのか。否。労働は生きるためにあった。水を、食料を、家を手に入れるために。けれども、生きるために必要である最低限もモノは、3000年前に比べて簡単に手に入る。これほど、便利で快適な生活環境が提供された現代、ぼくたちの「暮らし」は飛躍的に進化しているはずだ。ところが、現実はそうでもない。何が狂っているのか。

<生活は社会の中に円を描いて閉じている>
この出口を探してみようと思う。音楽の歌詞、ボブ・マーリー歌うところの社会の矛盾に出口のヒントがあるかもしれない。経済学の本の中に答えがあるかもしれない。一枚の絵がこの無限ループを止めるかもしれない。誰も住んでいないような山奥に答えがあるかもしれない。川にあるかも、海にあるかも。少なくとも学校では教えてくれないし、答えは販売していないし、ダウンロードもシェアもできない。とにかく、ぼくは人間の幸福のために進化した生活を描いてみようと思う。この仮定を全面的に妄信して、仮定を事実に変えてみたい。2018年夏、魚も釣れないし、野菜も収穫できない自分が、これをやってみることで、生活は編集してつくることができると証明したい。

あまりに多く情報と真実の見えないメディア、サービスと商品の過剰供給に埋もれしまった「生活」を発掘したい。その進化した姿とはどんなものなのか。お金はなくても社会のインフラが崩壊しても生きていける基準を提示し、けれどもオマケの贅沢を極めた「暮らし」をしてみたい。

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音楽がぼくのアートの根っこにある

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フジロックフェスティバルに参加して20年近くが経つ。10代に音楽が好きになって、20代にパッケージされている表紙の絵や写真が好きになって。ぼくのアートは音楽がルーツだ。20代のはじめに、野外のコンサートに行って、山のなかに、大自然のなかに聳え立つ、黒い箱=スピーカー、そのサウンドを体験して、太古とテクノロジーが融合するアートを感じた。そのとき、はじめて、木が美しいと感じた。

それから縁あって、20代はフェスでスタッフをやるようになって、駐車場や設営、ステージを組んだり、舞台監督のアシスタントや、イベントの撤収スタッフや、ドームテントの設営をしたりした。野外でコンサートをやることは、自然を会場にして、つまり、風や雨、天候のすべてに対応しなければならない。それに備えておく必要があることを学んだ。

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フジロックのサイトのひとつDay Dreamingで去年から"Inai Inai Bar" というバーをやることになった。バーとは「お酒を仕入れ売る」とても単純な商売。けれど、野外でやるとなると、どうやって冷やすのか、どれくらい売れるのか、天候との相談が重要で、思い通りにならない自然を読まなければ、利益はほど遠い。

今年は2年目ということもあって、お店になる小屋を作って、お酒もバランスよく仕入れて、イベントチームも一致協力で、お客さんが寛ぐスペースを作ったりして、金曜日、土曜日と快調だった。台風が接近しているから、小屋を補強したり、タープや屋根の風対策をした。

 ところが土曜日の夜、いよいよ風と雨が激しくなって、夜中に10年使ったテントで寝ていたら、ポールが折れて浸水して、寝床が無くなって、屋根のあるところに避難して、結局、日曜日はバーがあるDay Dreamingは中止になってしまった。

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まさに「風に吹かれて」だった。けれども日曜日は、フジロックで何年振りかの自由の身になって、途中出会ったケニーさんと、グリーンステージでAnderson paak, Jack  Johnson, Bob Dylanを観た。偶然会ったケニーさんは、車の輸出を仕事にしている。ぼくのいま最大の野望が、ザンビアの友達に日本車を届けるプロジェクトだ、と話しをすると協力してくれることになった。必要なときに出会いは巡ってくる。

月曜日の朝に撤収のためにDay Dreamingの会場に行ってみると、そこは台風一過、話しによると風速30mだったとか。人は立ってられず、家屋の屋根は飛ぶほどのレベル。とても開催できる状況じゃなかった。風という怪物が暴れた跡は圧巻だった。破壊。怪我人も事故もなかったのは、さすがのフジロックの判断。

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そして慣れた制作チームの対策は、自然の猛威をかわすように、被害を最小限に食い止めていた。掘建て小屋のようなBarも、状況を見ながら補強したおかげで、風に耐えて建っていた。耐震でなく、免震で、チカラを逃す構造にしたおかげで耐えてくれた。

もう20年近く野外のイベントに関わっているけど、やっぱり自然のなかに人間が生きていることを教えられる。今回も「風に吹かれて」自然に翻弄されたフジロックだった。ほんとうはフェスだけじゃなくて、日常も自然のなかに生きているってことを忘れてはいけない。
Barをやってみて「仕入れて売る」という単純な商売を今更、体験しているけれど、そう簡単に儲けさせてくれない。何千年も人間が商売してきて、貧する者、富む者がいるのだから奥は深い。
フェスティバルという空間に適応する能力、技術は、いきるための芸術のルーツになっている。
 

「生きるための芸術2」を出版するために。

タイミングがやってきた。お笑いで知られる「よしもと」と展示企画することになりそうだ。面白いことやってるからと声を掛けてくれた。ギャラリーや美術館でなくても、ぼくたちのアートをより多くの人に届けることができるなら、それは願ったり叶ったり。

このタイミングを待っていた。去年の10月に書き上げた二冊目の本を出版することにした。「生きるための芸術2」日本編。前作の続き。ぼくは人生をドキュメントしたシリーズを企んでいる。生きたことがそのままコミックスのように続いていく。第2巻。ご期待ください。

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タイミングが来たことを伝えに新宿にある出版社を訪ねた。本を売るための作戦を話し合った。残念ながら大手出版社ではないから、派手な宣伝や書店での協力は得られない。だから、本の出版と個展を同じタイミングにすることで、より多くの人に届ける仕組みを計画している。

出版社の社長さんは、音楽が好きで、音楽関係の編集プロダクションを経営している。自主制作で運営するパンクバンド、できるだけたくさんひとに届けるように楽曲をつくるJPOPのアーティスト、政治的な歌を得意とするベテランロック歌手、グッズが売れまくりカリスマと崇められる伝説の歌手、いろんなやり方を見てきた。それぞれのスタイルがあるけれど、良い悪いとは別に、それぞれの器の大きさがある。その器の大きさが活動の範囲、届く範囲を決めている、と社長さんは話してくれた。

その夜、親友の彫り師に会った。久しぶりに東京に来たし、アイツどんな調子だろう、とも気になったし、たくさん楽しんできた友達だ。刺青と聞くと日本には悪いイメージがある。けれど、友達の彫り師は誓って善良な人間だ。週休1日で毎日働いている。家族のために。毎日下絵を描いて、新しい日本の刺青を追求しているアーティストだ。

その夜、2人で「つくる」ことを語った。共通しているのは「没頭していたい」これに尽きる。チフミとぼくの絵を気に入ってくれていて、新作をオーダーしてくれた。

その夜、オーストラリアから作品が届いたよ、とメッセージが来た。受け取り人は、はじめてアートを購入したらしく「さっそく、仕事場に飾って眺めている、すごいパワーを感じる。これがアートなんだね」

とメッセージをくれた。

世の中にはアートを必要としている人がいる。アートは人類のはじまりから存在しているのだから、消えてなくならないし、これからもずっと社会なり人に対してなりの役割がある。そこに作品の個性がある。その楽しみや喜びを伝えるために個展を開き、アートとは何なのか伝えるために本を出版する。

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ぼくが信じるアートは、ここにしかない。人生のなかにアートがある。毎日の生活のなかにアートがある。自然を利用して生きようとする人間の知恵にアートがある。どこか遠くに行かなくても、目の前のほんの小さなところにアートがあるとき、ぼくたちの誰もが幸せに生きることができる。嘘じゃない。ぼくは、そんなことを証明するために、アートという方法を選択した。アートとは、生きるための技術だ。

One of thesedays 92

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サーフボードが折れてしまった。修理の仕方を調べてみると、FRP樹脂とガラスクロスが必要だと分かった。あとの研磨する道具は持っていた。乾燥に24時間かかるので、表と裏で2日間作業した。直したその日に海に行って波に乗ったら、また折れてしまった。

やってみなければ分からない。ボードが折れたとき別のを買おうかと思った。けれど、どんなモノでもその役目が終わるまで全うできるのが幸せだと思う。人間と社会の間に横たわる問題がそこにある。ダメだと決めつけるのも諦めるのも簡単。そうやって可能性を捨てていく。だから、もう一度、直すことにした。前回の失敗を踏まえて修理した。折れた箇所の周囲を削って、ガラスクロスを2枚にした。また2日間かかった。でも頑丈になった。また海に行った。ボードを折りたくない気持ちが、タイミングを遅らせて、波に乗れなかった。波に飲まれて、巻き込まれてボードが折れたので、それが怖くなっていた。

そんな気持ちで、波に向かってもいい成果は出なかった。残念な気持ちで休憩した。浜で波を眺めた。寄せては返す波を見てるうちに「あれは乗れる、あのタイミングだ」とイメージが湧いてきた。また波に向かっていった。分かったのは、失敗したくない気持ちがタイミングを遅らせていた。ジャストは、もっと手前だった。

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サーフィンの話しをしているけれど、はじめたのは今月からで、何をバカな話しをと思うかもしれない。けれど、できないことをやることは、すべてのことに通じている。生まれたときは何もできなくて、ひとつずつできるようになっていく。話せるようになり、歩けるようになり、字が書けるようになり、自転車に乗れるようになり、ひとりで遠くへ旅できるようになり。いくつもの「できるようになる」を経験する。大人になると「できること」しかやらなくなる。

だからこれはサーフィンの話しじゃない。「できるようになること」の話しをしている。だから、波と戯れていると、描こうとして描けないでいる絵のことが頭に浮かんできた。できないサーフィンに挑戦していると他のことも挑戦しようと思えてくる。

英語も中学、高校と習って勉強したけれど「できるように」はならなかった。苦しいながらに、英語も5年前から勉強を始めた。飛行機に乗ると、日本語字幕すらないので英語で映画をみるようになった。今年の春にアメリカに行ったとき、アイルランド人の友達と一緒にNetflixを観てから、英語字幕で観るようになった。

「できないこと」はいつのどの時点から「できること」になるのだろう。できる人はたくさんいて、比較する限り永遠にできないままのようにも思う。でも日本人が日本語を「話せる/話せない」は問題にしない。当たり前にできることだからだ。

日本に住んでいるメキシコ人と話したとき「英語は簡単な言語」だと断言した。確かに日本語に比べたら圧倒に簡単な言語だ。そのときから、英語は簡単だと思うようにした。

もしかしたら、何だって難しいを簡単に変換できるのかもしれない。楽しんだり、必要最低限、使えさえすればいいツールだとすれば。競争ではない。サーフィンは、波に乗る遊びで、海と戯れ、自然を感じるための時間。英語は、世界中の友達や、一緒に仕事をする仲間とコミュニケーションを取るツール。

アートは、いくら言葉を費やしても説明できない「生きる」という現象を、ひとつの道に集約する技術。与えられた人生の時間をこれに費やす限り道は続ていく。ヘタでも、できなくても、やってみたいことをやらないよりも、やってみればいい。高みを目指しているのではなく、平行移動している。目線は低くいのだから、疲れたら休んで、足元を見れば、草や花が咲いている。蝶々や蜂が飛んでいた。

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なんのために生きるのか。83歳、山崎さんの問い。

市役所で山崎さんに会った。山のうえに住んでいる自称90%仙人の83歳。長い髭と真っ白な長髪がまさに仙人、もしくは宗教家のような風貌をしている。

山崎さんは
「そう言えば、ワイン飲みに来るって話してたね」と。冬に会ったときのことを覚えていてくれた。
タイミングがないままになっていたので
「今週末はどうですか」
と言うと
「土曜日ですね。大丈夫ですよ」
と山崎さんのお宅にお邪魔することになった。

山崎さん宅を訪れるのは3回目で、山崎さんは講義と呼んでいる。チフミとぼくは山崎さんの話しを聞く。それが講義と名付けられている。

「あなたがたは、アートをやるのですから、それが人類にとっての普遍的な何かを表現していれば、死んだあとかもしれないけれど、評価される可能性はありますよ。けれど、お金や名誉のためにやるのではなく。ゴッホシャガールも生前は2枚くらいしか絵が売れてないんですから」

「人間にとって普遍的なこととは何でしょうか」山崎さんは、質問をする。答えを求めている訳ではない。だからぼくは心のなかで「生きること」と答えた。

山崎さんはズバリなことを言う。山崎さんのテーマは壮大だ。今日は1200ページに及ぶ、世界一周の資料を見せてくれた。1970年代に、研修でヨーロッパ、中東、アジアを周ったことを2015年にまとめた資料。そこには当時の写真、記憶、レストランのメニュー、航空チケットから現在のことまでが記されている。もちろん膨大な情報量で出版するところなどない。だから自らファイリングして国会図書館に収めてある。

山崎さんは何でも保管している。小学校の教科書、切符、テストの答案まで。いまは、その資料をもとに10000ページに及ぶ生きた証となる記録を書いている。

山崎さんは人生で3つのことを成し遂げた。またはしようとしている。

1.70歳を過ぎて自作の巨大天体望遠鏡をつくった。

2.1970年代に世界一周をしてその記録を残した。

3.自分が生きてきた記録を資料と併せて記録している。

先日、日立製作所のひとたちが、天体望遠鏡を見学に来たとき、山崎さんは「あなたたちは、何を残すためにいきているんですか?」と質問した。みんな返答に困っていたらしい。

山崎さんのテーマははっきりしている。「人間がなぜ生きるのか、どうしてこのような社会になっているのか」講義は、この問いと答え繰り返す。セルフビルドされたログハウス、人里離れた山のうえで。

山崎さんは
「100%の仙人になれば空を舞うかもしれない。けれど、孫のことを考えているから、求める気持ちがあるうちには仙人にはなれないな」と話す。

山崎さんは日本は民主主義ではないという。アメリカを例に説明する。アメリカはイギリス人が発見して、移住したひとたちが、ゼロから暮らしをつくった。必要なものは自分たちでつくった。足りないものは、相談して解決した。これが、アメリカの民主主義の根底にある。

イギリスから独立したアメリカは、後ろ楯も経済的な支援もないから、まずは市民が自分たちで生活環境をつくった。その共同体が町をつくった。それが州になって、全体がひとつの合衆国となった。すべてがボトムアップだ。

山崎さんがアメリカに行った70年代、ベトナム戦争をしていた。見学をしに行った小学校では、ベトナム戦争について子供たちが議論していた。アメリカでは意見を持つことが必要とされている。その言葉は、建前ではなく本音。

それは言語に由来している。日本語は、表意文字で、文字がたくさんの意味を持つ。しかしアルファベットは記号だ。だから、議論が成り立ちやすい。思考が分散するよりも凝縮していく。

日本は空気を読み、本音と建前が一致しない国。テレビをみれば分かる。そういう政治をしている。原因は、日本の歴史にある。空気を読まずに、本音でぶつかって生きていきなさい。山崎さんは、そう教えてくれる。

日本は、未だ経済成長を追い求めているけれど、とっくにピークは過ぎている。成長しないものを成長させようとしている。わたしたちは、どのように生きるのか。これを考えて行動しなければ、何も変わらない。わたしの考えを記録して残せば、何十年後かに、発見されたときに役に立つかもしれない。だから、わたしが印刷する資料の紙は100年の耐久性がある。

山崎さんの講義はメッセージだ。
わたしが40歳になったとき老子の40にして不惑を思い出した。けれど惑わされることばかり。だから自分で不惑を決めたのです。常に弱い立場からものを見ること。そう決めたんです」

山崎さんの講義で、ぼくは何も発言しないし答えない。けれども、山崎さんがぼくたち夫婦の作品を見たとき、何かが伝わるなら、それが作家としての答えだと思う。言葉も超えたシンプルかつ普遍的な生きるため芸術を目指している。

Time is not for sale.

1日の出来事。起きて活動しているのは16時間だから960分。時間はお金なのか。朝起きて、パンにバターを塗って砂糖をかけて食べる。牛乳の入ったコーヒーを飲む。起きて30分ぐらい過ぎる。

今日は9時50分から歯医者なので、それまでに市役所に月報を出す資料をまとめる。北茨城市で芸術によるまちづくりの担い手として、この地を拠点に制作をしている。この地を拠点にすることが仕事になっている。月報を完成させるには、アトリエにいく必要があるので、それは歯医者のあとにしてまず海にいくことにした。

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サーフィンをはじめてから海を観察している。家は晴れていたのに3kmしか離れていない海は霧の中だった。しかも波が高い。波の向こうは霧に消えている。なんとも凶暴な景色でカッコいい。

海の観察から歯医者に移動。完全予約制で診察時間も最大30分と決まっていて、待ち時間がない。スムースな歯医者さん。今日は10分で終わった。家に寄って、月報を完成させるためにアトリエにいく。アトリエで月報を完成させてメールした。そのあと、明日やってくる北茨城視察チームの方々へスケジュールの案内メールをした。

アトリエにきた理由はもうひとつある。ウナギの竹でつくった仕掛けをチェックしに川へ。これで3回目だけれど、今日も不在だった。ウナギは果たしてこの地域まで遡上しているのか。

家に帰る前に再び海へ。霧がどうなったのか気になる。やっぱり霧に覆われている。いつもと違う景色に目が冴える。周りの植物にまで興味が届く。

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家に帰ると妻チフミがお昼にパスタを作ってくれていた。昼飯を食べて、絵を描きはじめた。海で見た植物を絵にすることにした。雑草。ごちゃごちゃした草を整理して、それでも雑草の絵に見えるようにして、それでも何か心地よくて、なんなら、抽象画にも見えるような、そんな絵を求めて午後3時頃まで作業した。

雲が晴れて太陽が出てきた。暑くなってきた。よしサーフィンだ。車にボードを積んで海へ。誰もいない海へ。波が高い。ビビりながら波に向かってパドリングして、波に乗っても高すぎて落とされる、飲み込まれる、を繰り返した。ドキドキしてきて、一旦、浜で落ち着いた。波を見ていたら、割れる波の端っこなら乗れそうに思えてきたので再開。

いい具合に何回かトライしていると、やっぱり波に飲み込まれる。海面に浮き上がってサーフボードを引き寄せると、割れていた。割れてしまった。大切な道具が壊れてしまった。仕方なく、家に帰った。17時だった。チフミに「ボードが壊れた」と話すと「今日は波が危険だったんじゃないの?」と言われて、新しいのを買うとは言えなかった。

割れたボードの修理をネットで調べたらやり方があった。できそうだった。希望が見えてきたので、また雑草の絵を描いた。そうしているとチフミが描いていたダイヤモンドが完成した。

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夕食にチフミがつくった焼きうどんを食べて、また作業を再開した。9時くらいになって雑草の絵の下絵ができたので、ダイヤモンドの仕上げをすることにした。金属でパーツを組み合わせる計画。サイズとカタチをスケッチしでデザイン画を完成させた。そのパーツをオーダーメイドしてくれる会社をネットで探して、4社から見積もりを取ることにした。0時。

サーフボードは割れたけれど自分で直せそうな気がするし、新作のダイヤモンドが完成したし、まだパーツとの組み合わせが終わってないけれど、雑草の絵も前から描きたかったイメージに近づいてきたし、ぼくたちの作品を所有しているエジプト人から、引っ越して部屋のよいところに作品飾っているよ、とメッセージが来て、作品がいまも愛されてて嬉しくて。まあ、いくつものマイナスとプラスがあって結果は、よいのか分からないけど、いま寝る前、充実している。

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作品をつくって価値をつくる。時間はお金なんかじゃない。1分1秒が人生をつくる資源だ。時間は資源だ。鉱物の原石。磨かず売れば、それだけの価値しかないけれど、時間の使い方次第で、人生をダイヤモンドにも変えられる。

爆発する芸術。蔡國強(さいこっきょう)と「ギャラリーいわき」のこと

蔡國強を知っているだろうか。火薬を爆破させて描く作品や群れをなす狼の剥製で知られる中国出身の芸術家。

今日は、その蔡國強(さいこっきょう)が作品を抱えて日本でギャラリー回りをしていた頃から現在に至るまで、ひとりの芸術家がどうやって世界で突出していったのか、その話しを聞くことができた。蔡國強(さいこっきょう)の魅力を早くから見抜いて共に活動してきたギャラリーいわきの藤田さんが話してくれた。

ギャラリーいわきは、北茨城に引っ越してから、よく名前を聞いていたギャラリーだった。
ぼくたちが改修したアトリエarigateeに、今週いっぱい滋賀県のガラス作家の大下さんが滞在していて、彼の個展がギャラリーいわきで開催されていて、ぼくたちが作品をひと通りみて、帰ろうとしたところ、ギャラリーのオーナー藤田さんが

「まあ、コーヒーでも飲んでいってください」と誘ってくれた。

ぼくたち夫婦も作家活動をしている、と話すと、いわき画廊の歴史を掻い摘んで話してくれた。毎年開催している大下さんの作品展が、オーナーがグッゲンハイム美術館にいく予定があって、今年はスケジュールが少し遅くなったという話題をきっかけに蔡國強(さいこっきょう)の名前が飛び出してきた。

今でこそ世界的に有名な蔡國強(さいこっきょう)は、中国から日本に活動の場を求めて、火薬を爆破して描く抽象画を都内の主要なギャラリーで見せて回っていた。1985年頃の話。けれども、中国内でもまだ知名度もなかったその作品を評価する人はおらず、ちょうどいわき市で、ギャラリーをはじめた藤田さんは、知り合いに紹介してもらった蔡國強(さいこっきょう)の火薬で爆破する作品に惚れて

「売れるか分からないけど、ウチで展示をやらないか」と話してみると、

「それはいい。もちろん、ぼくだって売れるか分からない。ぜひやろう」と交流がはじまった。

藤田さんは、そのときに作品を購入していた。日本で蔡國強(さいこっきょう)の価値を見出した最初のギャラリーだった。

蔡國強(さいこっきょう)は藤田さんを通じて、いわき市に惚れ、この地に滞在して作品をつくるようになる。

みんなお金もなかったので、お昼におにぎりを食べたりして海で遊んでいるうちに蔡が

「いわきの水平線に赤い線を走らせたい」と言った。驚いた藤田さんがやり方を聞てみれば
新月の夜に船を出して、船から船を導火線で繋いで着火する」という具体的なアイディアだった。けれども実行するための金もないので、導火線1メートル幾らというカタチでお金を集めて、船や海の使用許可や地域の人々、自治体の協力によって、それは実現される。

いわきの水平線に爆破の赤いラインが走った。このときの写真が、蔡國強(さいこっきょう)の作品として一人歩きをはじめる。カルティエ財団に所蔵され、火薬を使う蔡國強(さいこっきょう)の名前は広まり、ニューヨークに1年間滞在することになった。そのとき藤田さんは、いわき市で制作した蔡國強(さいこっきょう)の作品を預かった。

ニューヨークに渡った蔡國強(さいこっきょう)から、藤田さんに相談の連絡がきた。「いわきの海に沈んだ船をニューヨークに送って欲しい」というとんでもないお願いだった。藤田さんも蔡國強(さいこっきょう)も古い木造の船が沈んでいる場所は分かっていたので、それを引き揚げ、解体してニューヨークに送った。

いわき市からの贈り物」として展示された作品は、蔡國強(さいこっきょう)のいわき市への愛だった。その土地とそこにいる人々への。蔡國強(さいこっきょう)は、藤田さんをはじめとするいわき市の仲間たちをプロジェクトメンバーとしてニューヨークに招聘した。

その廃船はたちまち話題となって、世界各地を巡回することになり、藤田さんたちは、プロジェクトチームとして、船の解体から設置をして世界を回った。それから蔡國強(さいこっきょう)のプロジェクトにとってお金はさほど問題ではなくなった。彼のユニークなアイディアをカタチにしようと出資する人や団体が世界中にいるようになった。

世界を代表するアーティストになった蔡國強(さいこっきょう)は藤田さんに「預かっている作品を売ってくれ。いまなら売れるし、それぐらいの作品ならこれからいくらでもつくれる。売れればギャラリーの運営の足しになる」と言った。

藤田さんは当時の蔡國強(さいこっきょう)の作品の写真を眺めながら
「売りたくない作品もいっぱいあったし、自分が所有しているのも売ったんだ。またつくると言うから。でも今振り返ると、やっぱりそのときの作品は、そのときにしかないんだよな。そう思ってたら蔡國強(さいこっきょう)から連絡がきて、あの頃売った作品を手放したい人いたら買ってくれ、て言うんだよ。やっぱり、同じようなものは作れないんだよな。そうやって成長して作品が変わっていくのもアートの魅力だよ」

廃船になった作品から派生した廃材を組み合わせて建てた3つの小屋があった。それは積み重ねると三重の塔になる作品だった。船とセットだから共に巡回する計画だったが、大き過ぎてコンテナに入らなくて、3つのうちのひとつはプロジェクトから切り離されることになった

そのひとつは、行き場がなくなり、廃棄されるなら、北茨城市磯原の藤田さんの土地に置かれることになった。

ところが、2つしかない三重の塔を見たギリシャの富豪が、ぜひこの塔を3つ揃えたいと言って、輸送費も全額出すからと購入することになった。北茨城市に置かれた小屋は、ギリシャに運ばれていった。それ以来、三重の塔は、ギリシャの富豪が大切にして、どこにも貸し出しもされることはなかった。

一度、蔡國強(さいこっきょう)ギリシャの富豪に三重の塔を展示したいと話したら、誰かが傷つけたり放火なんてされたら困るからと断られたそうだ。

いわきの海に沈んでいた廃船と、その廃材が世界屈指の美術品になったのだった。そして北茨城市にも、その作品がひっそりと佇んでいたこともあったのだ。

藤田さんと蔡國強(さいこっきょう)の交流はいまも続いていて、ニュージャージー州にある蔡國強(さいこっきょう)の別荘に、日本庭園をつくるプロジェクトが進んでいて、藤田さんはそのためにアメリカに行くんだ、と話してくれた。別荘には料理人がいて、旅費もすべてプロジェクトが賄ってくれる。

 

30年に及ぶ、ギャラリーとアーティストが歩んできた軌跡が、いわき市の小さなギャラリーで語られた。ここは世界の片隅かもしれないけれど、片隅から世界の中心へと飛び立っていく可能性はどこにだってあること教えられた。