いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

爆発する芸術。蔡國強(さいこっきょう)と「ギャラリーいわき」のこと

蔡國強を知っているだろうか。火薬を爆破させて描く作品や群れをなす狼の剥製で知られる中国出身の芸術家。

今日は、その蔡國強(さいこっきょう)が作品を抱えて日本でギャラリー回りをしていた頃から現在に至るまで、ひとりの芸術家がどうやって世界で突出していったのか、その話しを聞くことができた。蔡國強(さいこっきょう)の魅力を早くから見抜いて共に活動してきたギャラリーいわきの藤田さんが話してくれた。

ギャラリーいわきは、北茨城に引っ越してから、よく名前を聞いていたギャラリーだった。
ぼくたちが改修したアトリエarigateeに、今週いっぱい滋賀県のガラス作家の大下さんが滞在していて、彼の個展がギャラリーいわきで開催されていて、ぼくたちが作品をひと通りみて、帰ろうとしたところ、ギャラリーのオーナー藤田さんが

「まあ、コーヒーでも飲んでいってください」と誘ってくれた。

ぼくたち夫婦も作家活動をしている、と話すと、いわき画廊の歴史を掻い摘んで話してくれた。毎年開催している大下さんの作品展が、オーナーがグッゲンハイム美術館にいく予定があって、今年はスケジュールが少し遅くなったという話題をきっかけに蔡國強(さいこっきょう)の名前が飛び出してきた。

今でこそ世界的に有名な蔡國強(さいこっきょう)は、中国から日本に活動の場を求めて、火薬を爆破して描く抽象画を都内の主要なギャラリーで見せて回っていた。1985年頃の話。けれども、中国内でもまだ知名度もなかったその作品を評価する人はおらず、ちょうどいわき市で、ギャラリーをはじめた藤田さんは、知り合いに紹介してもらった蔡國強(さいこっきょう)の火薬で爆破する作品に惚れて

「売れるか分からないけど、ウチで展示をやらないか」と話してみると、

「それはいい。もちろん、ぼくだって売れるか分からない。ぜひやろう」と交流がはじまった。

藤田さんは、そのときに作品を購入していた。日本で蔡國強(さいこっきょう)の価値を見出した最初のギャラリーだった。

蔡國強(さいこっきょう)は藤田さんを通じて、いわき市に惚れ、この地に滞在して作品をつくるようになる。

みんなお金もなかったので、お昼におにぎりを食べたりして海で遊んでいるうちに蔡が

「いわきの水平線に赤い線を走らせたい」と言った。驚いた藤田さんがやり方を聞てみれば
新月の夜に船を出して、船から船を導火線で繋いで着火する」という具体的なアイディアだった。けれども実行するための金もないので、導火線1メートル幾らというカタチでお金を集めて、船や海の使用許可や地域の人々、自治体の協力によって、それは実現される。

いわきの水平線に爆破の赤いラインが走った。このときの写真が、蔡國強(さいこっきょう)の作品として一人歩きをはじめる。カルティエ財団に所蔵され、火薬を使う蔡國強(さいこっきょう)の名前は広まり、ニューヨークに1年間滞在することになった。そのとき藤田さんは、いわき市で制作した蔡國強(さいこっきょう)の作品を預かった。

ニューヨークに渡った蔡國強(さいこっきょう)から、藤田さんに相談の連絡がきた。「いわきの海に沈んだ船をニューヨークに送って欲しい」というとんでもないお願いだった。藤田さんも蔡國強(さいこっきょう)も古い木造の船が沈んでいる場所は分かっていたので、それを引き揚げ、解体してニューヨークに送った。

いわき市からの贈り物」として展示された作品は、蔡國強(さいこっきょう)のいわき市への愛だった。その土地とそこにいる人々への。蔡國強(さいこっきょう)は、藤田さんをはじめとするいわき市の仲間たちをプロジェクトメンバーとしてニューヨークに招聘した。

その廃船はたちまち話題となって、世界各地を巡回することになり、藤田さんたちは、プロジェクトチームとして、船の解体から設置をして世界を回った。それから蔡國強(さいこっきょう)のプロジェクトにとってお金はさほど問題ではなくなった。彼のユニークなアイディアをカタチにしようと出資する人や団体が世界中にいるようになった。

世界を代表するアーティストになった蔡國強(さいこっきょう)は藤田さんに「預かっている作品を売ってくれ。いまなら売れるし、それぐらいの作品ならこれからいくらでもつくれる。売れればギャラリーの運営の足しになる」と言った。

藤田さんは当時の蔡國強(さいこっきょう)の作品の写真を眺めながら
「売りたくない作品もいっぱいあったし、自分が所有しているのも売ったんだ。またつくると言うから。でも今振り返ると、やっぱりそのときの作品は、そのときにしかないんだよな。そう思ってたら蔡國強(さいこっきょう)から連絡がきて、あの頃売った作品を手放したい人いたら買ってくれ、て言うんだよ。やっぱり、同じようなものは作れないんだよな。そうやって成長して作品が変わっていくのもアートの魅力だよ」

廃船になった作品から派生した廃材を組み合わせて建てた3つの小屋があった。それは積み重ねると三重の塔になる作品だった。船とセットだから共に巡回する計画だったが、大き過ぎてコンテナに入らなくて、3つのうちのひとつはプロジェクトから切り離されることになった

そのひとつは、行き場がなくなり、廃棄されるなら、北茨城市磯原の藤田さんの土地に置かれることになった。

ところが、2つしかない三重の塔を見たギリシャの富豪が、ぜひこの塔を3つ揃えたいと言って、輸送費も全額出すからと購入することになった。北茨城市に置かれた小屋は、ギリシャに運ばれていった。それ以来、三重の塔は、ギリシャの富豪が大切にして、どこにも貸し出しもされることはなかった。

一度、蔡國強(さいこっきょう)ギリシャの富豪に三重の塔を展示したいと話したら、誰かが傷つけたり放火なんてされたら困るからと断られたそうだ。

いわきの海に沈んでいた廃船と、その廃材が世界屈指の美術品になったのだった。そして北茨城市にも、その作品がひっそりと佇んでいたこともあったのだ。

藤田さんと蔡國強(さいこっきょう)の交流はいまも続いていて、ニュージャージー州にある蔡國強(さいこっきょう)の別荘に、日本庭園をつくるプロジェクトが進んでいて、藤田さんはそのためにアメリカに行くんだ、と話してくれた。別荘には料理人がいて、旅費もすべてプロジェクトが賄ってくれる。

 

30年に及ぶ、ギャラリーとアーティストが歩んできた軌跡が、いわき市の小さなギャラリーで語られた。ここは世界の片隅かもしれないけれど、片隅から世界の中心へと飛び立っていく可能性はどこにだってあること教えられた。

One of thesedays 88

繰り返す毎日のなかで、何か考えたことや頭に浮かんだこと、行動したこと、誰かと話したこと、読んだり見たりしたことを、ここに記録している。

1日の基本は創作活動にある。生活すべての最優先事項が作品をつくること。10年くらい前に、どうしたら作品を作って生きていけるのか、ネットで調べたときにそう書いてあったのでそれを信じている。

受注があってつくるなら、それは確実な仕事になっているけれど、頼まれてなくてもつくる作品は、未だ仕事にはなっていない。お金になるかも分からない。イメージを取り出して明日へと先送りするような、希望への投資であり未来への配達だと思う。可能性の貯蓄。

1日の基本を創作活動最優先にするとしても、これに取り組める状況をつくるのが難しい。理想を描くことはできても実行するのはまた別の努力が必要だ。どうしたって予定を組んでしまう。頼まれている作品があれば、それをつくるし、それ以外にも、いくつか文章やデザインの仕事らしきこともしているし、畑をやったり釣りをしたりサーフィンをしたりの遊びもあるし、英語を勉強したり、やりたいことはいっぱいある訳で、社会のなかで生きるとは、人との繋がりのなかにあるから、人に会わない訳にもいかない。だから、頼まれもしない作品ばかりをつくってもいられないと考えてしまう。お金にならないことをしていると不安になってくる。けれども、お金にもならなくて頼まれたのでもなくて、評価されないことに没頭できるなら、生涯続けることができる。むしろ、そういう状況に自分を置けるとき、欲望のバランスを具合良くコントロールできている証拠でもある。あまりにも、いらない物事に振り回され過ぎなのだ。

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1日にできることは、とても小さくて、それでも踏み出す一歩がなければ、先には進まなくて、大きなことをやろうとしても、やっぱり、それもコツコツと続けていくしかない。自分をコントロールするスイッチみたいなものがあって自分の場合は「走ること」と「筋トレ」がそれだったりする。走るとき、諦める気持ちがすぐに現れる。走ると決めた自分とは違う気持ちがやってくる。そいつの話しに耳を貸さずに走り続ける。腹筋をしてると「もう無理だ!」とか「意味ないからやめておけ」と声がする。その声を黙殺して、やると決めたことをやる。それができれば、欲望をコントロールして、必要なものと必要ではないものを見分けることができる。

 

図書館で借りてきたヘミングウェイの「老人と海」を読んだ。数時間で読める短編で1954年にノーベル文学賞を獲っている。ヘミングウェイのキャリアの最期にあたる作品で、構想から完成まで20年にも及んだらしい。

 

ネットで拾い読みした記事にあった

ー成功は、遂行された計画ではない、何かが熟して身を結ぶことだ、其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならないものがある、何かが熟して生まれて来なければ、人間は何も生む事はないー

小林秀雄「還暦」

 

という文章がスッと入ってきた。

「つくる」ということは、何て豊かなことなんだろうか、と思う。「つくる」ときには、それ以外何も必要ない。材料や素材は、これまでの経験が蓄積されているから、改めて用意する必要もない。もちろん、これは妻のチフミと一緒に制作して、主にチフミが環境をつくってきてくれた恩恵でもある。そういう環境を整えてきたから、創作に没頭できる。

「つくる」ときは自分以外運動するものはなくて、そこらに横たわって転がっているものを拾い上げては、色やカタチや頭の中のイメージを組み合わせ、未だなかったカタチをみつける。これが何かとか、意味とかもなく、単純に心地よいカタチ、それを探している。

小さな作品だし意味はないかもしれないけれど「生きるための芸術」という果実が熟すための養分になっている。誰に頼まれなくても1円にもならなくても没頭できることは、死ぬまで続けられる。評価や成功なんて目標としては小さい。それじゃ果実ひとつにしか過ぎない。

簡単なことこそ難しくて、シンプルになるほど道は険しくなる。はじめに「繰り返す毎日」と書いたけれど、丁寧に言い直せば、毎日は違う。同じ日なんて1日もない。生まれてから死ぬまで、生きた時間は増えて、生きられる時間は減る。そんな1日にも役割がある。期が熟すまで、ぼくらは日々をつくることができる。One of thesedaysは、1日の断片を拾い集めて、つくるコラージュみたいなエッセーだ。

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檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/



釣れない釣りについて思考する

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朝、起きて海まで走った。目的地の長浜海岸に出ると船がいた。何かを捕っている。浜には釣り人がいる。今日の海はいつもと違う景色をしていた。

思い付いて、少し先の平潟港まで走ることにした。最近、釣りをはじめてから、海のことが気になって仕方ない。釣りを始めたと言っても、自分勝手なやり方で、できるだけモノを買わない方法を模索している。いまのところは、釣れない釣りを楽しんでいる。

そもそも人間は、道具すらも自然からつくっていた。

釣りをやってる人には、バカバカしい話かもしれない。釣りをやってない人にはどうでもいい話しかもしれない。実際、妻のチフミは、釣れない釣りを何をやっているのか、と静観している。

ところが、だ。当たり前とはじめから決めつけているようなところに、当たり前過ぎて忘れられていることが隠れている。社会や文明文化の発達によって失われつつある原始的な、生きるための人間活動、つまり、ほんらいの生活と呼ばれるものは、風化した当たり前の影に隠れたまま消えようとしている。そのわずかな影の名残りに、いまの時代これからの人間に必要な何かがあると睨んで「釣り」をリサーチしている。つまりは、すべての釣り人が師匠になってしまった。そして自分は恥ずかしいほど、間違ったやり方をしている。

🐟
海には魚がいる。けれども、いつでもどこにでもいるわけではない。潮の満ち干きや、プランクトンや小魚などの食料の状況や、潮の満ち干きは、月の満ち欠けに呼応しているし、底に生息する魚、回遊する魚、魚の種類によっても行動が違う。

つい最近まで、やたらと海に針を投げていたのだけれど、魚がいるポイントをみつけなければ、お話しにならないことが分かってきた。インターネットで調べれば、いろいろな情報があるけれども、それは残念ながら自分の興味には答えてくれず、一般的なお手本ばかりが披露されている。自分勝手な妄想に応えるには、つまりのところ、自分でやってみるしかない。

 

理想の条件:
・家の近場で魚を捕る。
・できるだけ道具や材料を買わない。

いまのところ、竿は拾ってきた竹。糸と針は買っている。エサは、浜を掘って砂虫を捕る方法を教えてもらった。ミミズも餌になると聞いた。むかしの人はどうやって釣りをしたのだろうか。それを調べてみたら何か発見があるかもしれない。

 

日本民俗文化体系6「山民と海人」によると、

日本という国土は海に囲まれ内陸の多くが山で、山から海へ注ぐ川の周辺に生活圏をつくってきた。縄文時代貝塚の跡からは、海の魚に加えて川魚もはサケ、マス、ナマズ、フナ、ウナギ など14種類を数える。漁といえば、海に注目が集まるけれども、生活文化の視点からすると、川魚は重要なタンパク源で、狩猟方法が、多岐に渡っていることから長い歴史があることが分かる。日本人は、海や川の魚を生活の糧にしてきてた。

 

ネットで調べていると、川の漁法の一覧があった。

http://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/rekishibunka/kasengijutsu12.html

 

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平潟港を散歩してみた。「釣り」という視点で、港を観察すると、違った景色が見えてくる。ちょうど長浜海岸にいた舟が港に戻ってきたので、話しかけてみた。

「お忙しいところ、すいません。質問してもいいですか?」
「何?」
「さっき長浜海岸で舟で何かを捕っているのを見たんですが、長浜海岸は何が捕れるんですか」
クロダイとか、いろんな魚捕れるよ」
「今日は捕れましたか」
「俺は潜ってウニ捕ってんの。だから魚は捕れねえよ」


潜って捕るのは原始的な漁法のひとつ。海には豊富な魚介類が生息している。漁師さんがそれらを様々な方法で捕ってくれるおかげで、食卓に新鮮な魚が並ぶ。できるだけ多くの魚を効率的に捕獲しようとすると、漁の質も手法も変わっていく。より多く効率的にすれば、むかしながらの漁法でコツコツと魚を捕る方法は消滅していく。小さな商店が、大きなスーパーやショッピングモールに潰されるのと同じ構造がある。


👤

集団や組織のなかで生きることが中心にある時代で、個として生きていく手段や技術を持つことは、武器になると思っている。人間は生まれてから何かしらかの集団や組織のなかで成長していく。やがて社会の一員となる。その社会も決してすべての人に快適な環境を提供するばかりではないし、ときには誤った方向に暴走することもある。だから「NO」と言える強さを持っていたい。それには自然と社会のバランスのなかで、貨幣と採取のなかで、理想のポジションをつくるしかない。

自然の一部である海を知るために「釣り」に興味を持っている。魚を捕ることだけが目的ではなくて、魚を捕る文化がどんなことなのか、観察して、行動して、経験してみれば、そこには、自然のなかで営まれてきた人間活動が浮き彫りになってくる。人間はすべてのことを何千年も続けてきた。意味のないことなんて、ひとつもない。

「魚を捕る」から「食べる」までがひとつのマーケットになっている。「捕る」は漁師から釣り人までを対象に様々な商品や手法、道具が流通している。「捕った魚」が食卓に並ぶまでに、卸業や流通、スーパーや魚屋、などの業態がある。魚を買って食べる側には、どこで魚を買って食べるのかという選択肢がある。どこの魚を食べるのか。その当たり前の行為ひとつが社会をつくっている。生活のすべてが社会活動になって誰かを活かしている。意味のないことなんてひとつもない。


生きるための人間活動を知りたい。そして極力シンプルな方法で魚を捕ってみたい。捕ると食べるをひとつにしたい。新しいシリーズのはじまりだ。



One of thesedays 86

生活を開拓している。やろうとしていることは、下記のグラフで説明できる。ここ数日は、自然と採取の領域を調査した。

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つまり、できるだけ、おカネを使わないで自然にあるものを利用して、何かを採取する。採取するのは価値あるもの。食べ物でも貨幣でも楽しみでも何でもいい。価値があれば。

土曜日の午前中に庭の竹を整理して、ウナギの仕掛けをつくった。アトリエの裏にある川に仕掛けてみた。やりながら思った。ウナギを食べるために仕掛けるというより、この上流までウナギが来ているのかを知りたい。一匹獲れて食べてしまっては、この地に産卵に来ているウナギに失礼だ。

午後、林業家の古川さんが遊びに来た。間伐材の再利用の計画や、釣りの話をした。山の猟師さんが持ってきてくれたシカの角を見た古川さんは
これで昔はルアーをつくったらしいよ」

と教えてくれ

「切ってみよう」

とやってみた。気がついたら2人で身の回りのモノを使ってシカの角ルアーをつくっていた。

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日曜日の午後、いわき市からナオトさんが、美味しくて評判の豆腐を持って遊びに来た。釣りをするけれど、ほぼ釣れないし、落ち着きがないから向いてないと話したら

「落ち着きない方がいいんですよ。投げてヒットしなければ、魚はいないんですから。あと干潮のときは釣れないですよ。満ち潮のときです」

と教えてくれた。

 

川沿いにクレソンが自生しているらしい、と教えてくれたひとがいたので、ナオトさんとクレソンを探しに行った。川沿いを歩いていくと、道は途中で終わっていた。まだ続くのだろうけど、草刈りがそこで終わっていたので、クレソンを諦めて帰った。でも、こっちの川の方がウナギがいそうだ、と小さな収穫もあった。

 

月曜日の朝、川の仕掛けを見てみると、ウナギはいなかった。餌のミミズはなかったたから食べたのか、餌だけ流れたのか。そもそもウナギは川にいないのか仕掛けが悪いのか。場所を変えて、クレソンを探した川に設置してみた。

 

竹の仕掛けで上流の川でウナギは獲れるのか。この地域に生息しているのか知りたい。シカの角ルアーで魚は獲れるのか。満潮の時間帯を狙ってやってみたい。

こうやって生活のフィールドを開拓して遊んでいる。はじめから利益を目指せばそれは仕事と呼ばれるものだし、はじめは遊びでも結果が出れば、遊びも仕事に変えることができる。

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"no expectation"(期待しない)

"no expectation"(期待しない)が、最近、我が家の合言葉になっている。インスタグラムにコラージュの絵を投稿したら、海外のアート系のウェブサイトからコメントが入った。

「君の絵が気に入った。わたしたちのサイトで紹介させてくれ。詳しくは、プロフィールをチェックしてくれ」

サイトを見ると、アートを紹介、販売するサイトで年に4回、紙の媒体もリリースしている。5年前だったら、ぼくは興奮と喜びで、今夜には祝杯をあげただろう。でも、いまは、期待しない。駅のホームで電車が通過するのを眺めるようにして、その期待には乗らない。

 

喜びや興奮の基準をどこに置くかによって、生活のリズムやパターンを調整できる。まだ起きてもいないことに、期待したり、一喜一憂するよりも、確実に目の前に起きている出来事に喜びや興奮を見出した方がずっと現実的で、着実に生活をつくっていける。「捕らぬ狸の皮算用」をしないこと。むかしの日本人の教えは、現代では、ネイティブ・アメリカンの教えのように心に刺さる。

 

たまにこんな仕事のオファーがある。

「某大手代理店と、大きなアートのプロジェクトを進めていて、予算は1億円ある。来年から、再来年に、つまりオリンピックに合わせ計画されるんだけど、石渡さんもアートで企画を出してもらえませんか。」

言葉だけ拾って並べてみると、何やらスゴイんだぞ、という雰囲気だけは伝わってくる。詳細を聞いて数日間から数週間、企画をまとめて、送ると

「いいですね!これでクライアントに投げみます!」

で結局、何も起こらない。けれどもぼくはアホなので、何度もこの餌に釣られて、期待を膨らました。

「おお!何百万円かは稼げるかも。また海外に行けるかも!」

期待と夢は膨らんで、日々の積み重ねを横に置いて、せっせと期待を追ってしまう。けれども、結局のところ、これは餌だ。

そこじゃない。大切なのは。大きなプロジェクトに乗っかることでもないし、大金を手に入れることでもない。大切なのは、何をしたいのか。なぜしたいのか。

ぼくは、妻のチフミと絵を描いて、その絵は、日々の小さな積み重ねのなかで、研ぎ澄まされた表現で、何をして何をしないのか、その生活のなかの選択のひとつひとつが絵に反映されていて、その生き方は、社会の循環のなかで理想をつくっていて、ぼくたち夫婦の表現や活動が、誰かの心を動かしたとき、ぼくたちのアートに価値が生まれ、鑑賞者の心にも何かしらの感動が生まれる。動いた心は日々の暮らしを変えていく。そうやって、社会のカタチが個人の選択によって変わっていく。

ミミズが大地を耕して、少しづつ数ミリずつ大地を押し上げているとダーウィンが発見したことのように、小さな積み重ねが大きなことを動かしている。大きいことは小さなことが動かしている。全体と部分がある。小さいながらにできることを模索していくとき、何が必要で何が不要になるのか見えてくる。社会は拡大しようとするけれど、その流れには乗らずに、小さなライフスタイルをつくっていく。大きくなることに対して、小さくなっていけば、可能性はどんどん大きくなっていく。社会が100なら100を目指すのではなく、社会が100に対して0.1でいられるなら、解像度が変わってくる。

 

昨日、知り合いの人がアトリエを尋ねてきて

「実はシーカヤックが、会社の倉庫に眠っているのが分かって、もしよかったら石渡さん乗りませんか。ウチの会社のプロモーションにもなるので」

舟が好きなぼくには魅力的なオファー。で話を聞いてみると、シーカヤックは中国の倉庫にあるらしい。日本に届くまで時間がかかるそうだ。

そう。ノー・エクスペクテイション(期待しない)だ。

絵を日々つくる。無限にある色とカタチの組み合わせのなかから、心が動く瞬間をみつける。その瞬間を永遠に封じ込める。それは過去でも未来でもなく、期待も後悔もない、只今、この瞬間。

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つくり続ける。

One of thesedays 85
夫婦芸術家
檻之汰鷲(おりのたわし)

http://orinotawashi.com/




生活の芸術、限界の向こう側へ。

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新しいことをはじめようと思って、できない理由はいくらでもあるけれど、やりたい気持ちを最優先する。そうすることにしている。初期衝動ファースト。パンクロック、ヒップホップ、ストリート由来の音楽が教えてくれたこと。けれども同時にやれない理由もすぐ浮かんでくる。やれない理由、その①「何のために」と考えてしまう。その②「お金の問題」その③「最初から諦めている」

この三つの問いは、人生に深く突き刺さる杭で、子供のころにかけられた呪いの魔法でもある。

サッカーのワールドカップを観て思い出した。ぼくは4年前「アイ・アム・ア・フットボール」という作品をつくった。その絵は、夢や目標をボールのように人から人へ伝えてゴールを目指すという行動とセットになった作品だった。そのときの夢は「空き家を改修して、木工の技術を身につけて、ボートをつくって、海の傍で絵を描いて暮らすこと」

「アイ・アム・ア・フットボール」をバカ正直にインストールしたぼくは、夢中で4年間、走り続けた。人から人へ伝えたボールは、いろんなシチュエーションでパスされた。4年経ってみれば、失敗の方が多かったけれど、その夢は実現した。大切なのは、自分が自分を信じること。信じていれば、周りの人は協力してくれるし、いまはいなくても、理解者や協力者が現れてくる。「信じること」は、この記事のはじめに書いた「3つのやれない理由」の呪いを解く呪文でもある。

さらに15年前。妻のチフミと結婚したとき、海外を旅する計画をした。あまりに非現実で、口に出すのも恥ずかしかった。それから10年経って、それは実現した。夢は途方もなく大きい方がいい。夢なんだから。いまの自分が無理だと思うくらいじゃないと、それは夢じゃない。お金の問題が吹き飛ぶくらいじゃないと夢じゃない。何のためにとか考えてる間もなく、やりたくて仕方ないことじゃないと夢じゃない。

ぼくは、いま北茨城市の海の傍に暮らしながら、空き家だった古民家を改修して、ギャラリー&アトリエをつくった。この場所には自然があって、自然と共に暮らす人々がいる。それは受け継がれてきた、自然と共に暮らす日本人の姿、失われていく原風景の末裔でもある。

観光地でも何でもない地方にも、価値があることを伝えたい。自然から生きるために必要なモノを生み出すチカラこそが、芸術だと思っている。そんな芸術が、日本の田舎には今も息づいている。それをアートとして表現して伝えるために、自然と共に暮らす人々の営みを仮に「生活芸術」と名付けた。

 

生活を芸術にしたい理由は、世界を旅したとき、日本を遠く離れて、やっと日本という国を感じたことが原点にある。日本人として世界に表現できる個性が、日本の文化にある気がした。それは日本人の宗教感や信仰、そのライフスタイルのなかに深く根差している。それは、春夏秋冬の四季が織りなす、暖かくも厳しい自然との付き合い方にある。

自然(しぜん)という言葉は、ネイチャーの訳語として明治時代に輸入され、その概念が生まれた。そもそも日本人には、ネイチャーの概念はなく、すべてが自然(じねん)だった。人間も自然も区別がなかった。

茶道の詫び寂びに代表されるように、質素な生活のなかに美しさを見出す文化は、自然と一体化してきた日本人ならではの芸術観だと思う。その芸術は、日本人が自然と共に生きてきた、その生活のなかに溶け込んでいる。これまでに宮澤賢治柳宗悦が、日常のなかの芸術を抽出して言葉で表現した。宮澤賢治の農民芸術概論、柳宗悦民藝運動がそれに当たる。けれども彼らの表現は、西洋由来の「アート」には接触しなかった。鶴見俊輔の著書「限界芸術論」は、1960年代の終わりに、日本の芸術の限界を提示すると共に超える可能性を示唆した。

鶴見は、芸術を、「純粋芸術」、「大衆芸術」、「限界芸術」の3つに分類している。鶴見は、5000年前のアルタミラの壁画以来、落書き、民謡、盆栽、漫才、絵馬、花火、都々逸、マンガにいたるまで、暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた芸術的な表現を限界芸術とする。

ぼくがやろうとしていることは、宮沢賢治柳宗悦鶴見俊輔の「限界芸術」に続く何かだと思って、この4年間、日本人の暮らしのなかに芸術の破片を求めてきた。人間が生きてきたその足跡にアートを見出してきた。

この数ヶ月はOne of thesedaysとして、毎日の出来事をこのブログに記録してきた。ここには、ぼくが求めるアートの種が埋まっている。うっかりすると、日々の情報量に流されてしまいそうな些細な出来事。自分以外、誰にも関係も利益もないような出来事。それらから、どうやってアートを抽出して、表現するのか。それらをどう社会に伝えていくのか。アートは、社会を彫刻する道具でもある。

ぼくは茨城県北茨城市を拠点に活動している。ここは日本の片隅ではなく、むしろ世界の中心だ。自分がいる場所が世界の真ん中だ。死んだら見えている世界は閉じてしまうのだから。自分の世界は、自分のいる場所から広がっていく。世界のどんな場所に生まれても、そこが世界の中心だ。

世界の片隅を世界の中心に変えたい。世界中の田舎に滞在して、その場所の「何もない」に価値を与えたい。価値を転倒したい。ゼロやマイナスを芸術に変えたい。自然を駆使してきた人間の営みを発掘して、その血と汗と涙をアートとして伝えたい。

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だから、いつだって興味があれば新しいことをはじめる。ぼくは永遠に素人だし何も知らない。だから裸になって教えを乞う。知ってることより知らないことの方が、この世界には多いのだから。

One of thesedays 83

アトリエには朝から来客があった。アトリエにしている古民家の元家主の有賀さんが、草刈りをしてくれた。もう自分のものではない土地なのに。そうしたら、キジが卵を抱えているのをみつけて教えに来てくれた。

キジは桃太郎に出てくる程、日本でポピュラーだし、有賀さんはそう遠くない昔、8年前までは、たまに食べたと話してくれた。それでも、よし!キジを獲ろう!と思わないから、まだまだ生活に余裕がある。そこまでのサバイバルはしてないようだ。

有賀さんと縁側で話しをしていると、近所のカズミ兄さんが「イノシシが檻にかかった」と知らせてくれた。行ってみると、1mものイノシシが檻に突進している。はじめて生きているイノシシを見た。檻の入り口を鼻で持ち上げている。檻から出ようと必死で、鼻から血を出している。

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そこに近所のスミちゃんが現れて「シゲ坊に連絡したからじき来るから、そっとしておけ」と言った。シゲ坊さんとは、猟師で害獣を駆除して農作物を守るヒーローだ。

集まった人々でイノシシの様子を見ながらシゲ坊さんを待ったけれど、現れなかった。檻が動かないように杭を挿してイノシシが出ないようにして、スミちゃんの家にお茶をしに行った。スミちゃんの家では、植木屋さんが木を刈っていた。植木屋さんは、スミちゃんの中学校の同級生で、この集落にお嫁に来る前から知っている。植木屋さんは、スミちゃんは、なんでもできると教えてくれた。いま建っている家の基礎はスミちゃんがやったそうだ。「むかしは、なんでもできることは自分たちでやったんだ」と教えてくれた。

 

アトリエに戻って、少し作業をしていると
「ダーーン」と銃声が集落に響いた。シゲ坊さんがイノシシを殺した。シゲ坊さんはウチに寄ってくれ、死んだイノシシを見せてくれた。放射能の影響がなければ食べれるのにと思う。もし食べれたら、ご馳走だから滅多に口に入れることはないだろうけど。スミちゃんは、イノシシ食べれたときは、売れるから食べれることなんて、あんまりなかったと話してくれたのを思い出した。

シゲ坊さんは友人から貰ったシカの角を持ってきて「何かに使え」と置いていってくれた。

3時ころ、チェンソーでキノコの椅子をつくるタイラさんが現れた。ちょうど間伐材でイベントをやる企画を練っていたので、打ち合わせすることができた。必要なときに必要な人が現れるのは、その方向に未来がある道しるべだと思っている。

夕方は、そのイベントに誘いたかった林業家の古川さんが家族と友人で来てくれた。古川さんは、先日河口で獲ったウナギを調理しに来てくれた。古川さんは手際よくウナギを捌く。頭にアイスピックを刺して動かないようにして、骨に沿って肉を剥ぐ。骨も焼けば美味しく食べられる。売ってるものは加工してあるから調理が簡単だけれど、採取した食材は調理に時間がかかる。手をかけただけ美味しいとも言える。自然から獲物を探し出して、捕獲して火で調理する、原始的な人間活動。ここにアートを感じる。生きるための技術。

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天然のウナギを炭で焼いて食べた。身が厚くてふっくらとして、格別に美味しかった。古川さんの子供たちと友達は、家の周りを探検してタケノコをみつけてきた。焼いて食べたら、ひとりの子供は不味いと言って吐き出して、ほかの子供は美味しいと食べていた。それぞれの味覚がある。

日が暮れると古川さんの友達家族は帰った。そこからさら古川家とのBBQが続いた。と言っても、焼くものは、美味しくないタケノコ。子供たちはキャンプだと喜んでいる。古川さんがシカの角を見て、ルアーをつくったらいいと教えてくれた。かつて日本人は、シカの角でルアーをつくっていたそうだ。

フジロックの BAR用につくった屋台が役に立って、雨が降っていてもBBQを楽しめた。こうやって北茨城での日々を観察してみると、実は目の前に「生きるための技術」が陳列されている。あとは、どのようにアート作品に転換するのか。加工/調理。毎日の小さな出来事のなかに、命や自然や生きるための工夫や、作品になるヒントや種が埋もれている。生活の芸術は、特別なことではなく、日々の暮らしのなかにこそアートがある、と実証する試み。そろそろ爆発させてみたい。