いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

50年の時を経て目の前に集まった友情

f:id:norioishiwata:20180109231249j:plain人生とはなんて不思議で、手に負えない代物なのだろう。まるで自然そのもののように。昨日は、父と友達2人が、北茨城を訪ねてくれた。東京から電車に乗って。ぼくは43歳で父親は、75歳くらいだろうか。ぼくが生まれたとき、父親は今のぼくより若かった。

ぼくは10代の終わりに進路について父親とケンカして家を出た。もう会わないと思っていたけれど、20代の半ばに、父親の友達から電話を受けて、ガンで死ぬかもしれないと告げられて、病院に行った。結局、父親は、死なずに生きている。そのとき、連絡をくれたのが、昨日、父親と一緒に北茨城に来た土井さんだった。土井さんは、ぼくの父親の友達で、ぼくの友達にも子供がいるから、こうイメージできるようになった。例えば、友達が息子とケンカして、連絡が途絶えてしまっていて、その子供が赤ん坊のときから知っていれば尚のこと、その親子にできることがあれば助けになりたいと思う。

土井さんは、ぼくの父親と母親が知り合うきっかけでもあったらしい。不思議だ。ぼくは土井さんから生まれたわけではないけれど、土井さんがいなかったら、いまの自分は存在しないことになる。

今回、父親と一緒に北茨城に来たもうひとりの友達はオイカワさんで、日本画が好きで、横山大観の絵を所有しているほどだ。その横山大観が過ごした地を訪れるのが夢だったと、北茨城に足を運んでくれた。

f:id:norioishiwata:20180109231422j:plain大学時代の仲間3人が人生の荒波を乗り越えて、50年もの時を経て、ぼくの目の前に集まっている。ぼくが父親とケンカしたことも知っているし、それ以前のことも知っている。友達とは、なんて素晴らしいのだろう。目の前にあるのは「友情」という人と人を結びつける愛だった。

ぼくには子供がいないけれど、友達や親戚の子供たちが、成長していく過程に立ち会っている。いろんなことが起きるだろう。誰ひとりとして、人生を思い通りに操ることなんてできやしない。

オイカワさんは
「自分のことを知ってくれている人としか仕事は生まれない。そんなものだよ。見ず知らずの人がある日突然、何かしてくれることなんてないさ。」と教えてくれた。

だとするなら、よく見渡したらいい。自分の周りにいる人を。自分が仲間だと思う友達と集まれる機会は、とても貴重な時間だと改めて感じた。人を大切にできる環境にいるなら、それは素晴らしい。もし、できていなかったり、してないようだったら、連絡したり、会ったりして、楽しい時間を過ごしたらいい。

ぼくは北茨城という土地に来て「アートによるまちづくり」という仕事をしている。北茨城の五浦には、岡倉天心がいた。その弟子でもある横山大観がいた。ぼくにとって、横山大観は、歴史的に有名な日本画家であり、なんの接点もなかった。だから、どんなに素晴らしい絵だと説明されても、ずっと遠くにあって、心に響いたことがなかったから、ほんとうの魅力が分からなかった。けれども、ぼくの父の友人がコレクションするほど愛する作家の横山大観に出会ってから鑑賞した絵は、ぼくにとって、とても親しみのある景色に変わっていた。身近に感じるようになったその景色は、北茨城の海だった。偉大な日本画家の作品ではなく、ひとりの人間が愛した自然が目の前にあった。

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勘違いと情熱で生きる

f:id:norioishiwata:20180105202306j:plainやりたいことを言葉にして行動する。ぼくの場合は、自分と対話しながら、このブログに言葉を並べ、行動し表現する。その成果を文章や作品や展示で伝える。

 より便利に快速化し、貨幣経済に支配される時代のなかで、忘れられ、失われていく人間の根幹にある、目の前にある小さな、そのミクロな視点が捉える、ほんとうに大切なモノコト。この時代のなかで、立つべき場所、問うべき思考、みるべき未来とは何なのか。それは、多数派でもなく、大企業でもなく、大資本が動く場所でもない、目の前の当たり前過ぎて見落としているモノコトに宿る。

 身の回りの小さな出来事を世界全体のコモンセンスになるまで拡大し表現する。それを「ミクロメガス」と名付けよう。「ミクロメガス」は、ぼくが好きな本、16世紀のフランス、ヴォルテールの作品。岩波文庫の傑作「カンディード」に収録されているので、タイトル作品と併せて強烈にオススメする。

 インターネットが発達し、物理的な境界線が消えた現在、ある地方で起きている小さな問題は、世界全体の問題になりうる。都市と自然、先進国と発展途上国、富裕層と貧困層戦争と平和、右と左、上と下、成功と失敗。錯綜する情報は、たくさんの問題と議論を巻き起こす。「正しさ」は右にも左にもあり、真ん中にも絶対の答えは存在しない。

 だとすれば、人間はどのように生きればよいのか。国家が武器を輸入するディストピア時代、ぼくは少数派になることを恐れない。おカネで物事の価値を判断しない。間違いや失敗も辞さない。なによりも勘違いと情熱を持って生きていく。それは、ぼく個人のためではなく、これからも生きながらえてほしい愛すべき人類のために。無邪気な子供たちの、その眼差し、振る舞い、その美しい心が、目先の欲望の犠牲にならないためにも。

 未来を守るためには、自然との繋がりを復興するべきだと思う。ぼくのような小さな無名の人間が、どこまでやれるのか大志を抱いてみようと思う。これが「勘違いと情熱」だ。

f:id:norioishiwata:20180105202646j:plain人間が生きるために必要不可欠な自然との接点が消えつつある現代だからこそ、アートが表現するべき領域は、空想でも想像でもなく、極端に歪んでしまった現実にあると確信する。現実が、いかなる虚構も超越してしまった今、どうやって、混迷錯綜する広大な現実と仮想空間を横断できるのか。つまりは、あらゆるツールを駆使して冒険したいと思う。

 目標は、現代に於ける理想的な人間活動を描くこと。幸せハッピーで、愉快痛快な。ぼくはそれをテーマにしたい。

 理想的な人間活動とは、人類が何千年もの時を費やし蓄積してきた生きるための技術、つまり自然との関わりのなかで日々の暮らしをつくること。ぼくはそれを「生活芸術」と名付けた。

日本の地方から世界全体の地方へとリンクする、点と点を結ぶように横断して、貨幣経済だけでなく、自然界が育む採取経済までに価値範囲を拡大し、人間が生きること、その喜び、豊かさに直結するアートを人々の暮らしのなかに届ける、夫婦芸術家、檻之汰鷲(おりのたわし)。

 2018年は、北茨城市を舞台に、失われていく生きるための技術、森に海に、大地にそのアートを表現する。

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目の前の
小さなモノコトを耕すことから
今年を始める。

2018
檻之汰鷲(おりのたわし)

http://orinotawashi.com/

 

夢中になるとき、ユートピアが現れる 

f:id:norioishiwata:20171219194700j:plain愛知県津島市での2軒目の空き家改修が完成した。依頼主はシンガーソングライターのまのあけみさん。そこにある材料で、できるだけ低予算でやるというオーダー。まのさんは、2年前の津島市の空き家改修ルミエールの仲間でもあり、僕たちの本、生きるための芸術を読んでくれて、ぼくらのことをよく知ってくれたうえでオファーしてくれた。最高な環境を用意してもらったからには、できる限りを尽くしたい。限界を超えたい。そういう場を与えられたとき何ができるのか。24時間を繰り返す日々のなか、1日1日できることを、コツコツと積み重ねていくしかない。

もともと革手袋の工場だったところに住環境を増築した物件。奥半分は戦後のつくりで、増築部分は昭和40年代。ぼくらが改修するのは奥半分の2階建。まずは床を張ることからスタート。床の次は壁。古い家なので隙間風が強く吹き込む。使っていない建具を窓に重ねて2重窓にしたり、隙間のところに板を張って直接の風を減らしたり、そこにある材料で工夫を楽しんだ。

f:id:norioishiwata:20171219194816j:plain窓を丸くしてみた。枠を変えるだけで、景色は別物になる。つまり、フレームを変えれば世界が変わる。見方を変えれば、つまらないものも、楽しくなる。

人間は、小さなことに簡単に躓く。転ぶ。立ち上がりまた歩き出せればいいけれど、そこから先に進まなくなることもある。生き延びるための道具に過ぎない家に翻弄されたり、たくさんのことを抱え過ぎて、欲に溺れて生きる意味すら見失ってしまう。どうして、人間はこんなにも生きることに対して不器用なんだろうか。空き家に関わることは、他人の人生に触れることでもある。生き様。友達とも家族ともまた違う、他人の家の敷居を跨ぐから垣間見える世界がある。

f:id:norioishiwata:20171219194925j:plain60代のまのさんは、自分が高齢者になる準備をしている。音楽家として独立して生きてきたまのさんは、会社や年金に頼った老後には期待していない。老人ホームにお世話になる金銭的な余裕があるかも定かではない。だから、まのさんは、高齢女史のシェアハウスをつくろうとしている。社会制度や施設にではなく、仲間たちと支え合いながら生きていく環境をつくろうとしている。ここには、夢と未来がある。

丸い窓は、角をなくした悟りの境地だという。別にそれほどのつもりもなく、ただ丸い窓から景色を覗いてみたかった。

何ができるのか分からないままで、この部屋の改修を始めた。それがサバイバル・アートという制作スタイル。ないものを買うのでなく、身の回りのもので代用する。本来の役割を終えていてもモノは別の役割で仕事をしてくれる。そこにあるものでつくることは、不自由なのだけど、だからこそ予想を超える展開になる。不思議なことが起きてくる。つくっているとき、夢中になるとき、ユートピアが現れる。

f:id:norioishiwata:20171219195011j:plain丸いちゃぶ台形の炬燵を持って来てくれる人が現れ、その丸が丸窓の発想に転じた。北茨城での古民家改修からずっと働きっぱなしで、倒れそうなほど疲労していた。けれど、動くと楽しくて、目の前のイメージをカタチにしたくて止まらなかった。朝から晩まで制作して、でもいよいよキツイ段階で、強力な助っ人が現れる。計画してないからこそ、偶然が味方になる。空白があるからチャンスが訪れる。家の壁に色を塗ると、家が好みの色を教えてくれる。オレンジ、茶色、白。差し込む光が影をつくり、空間のリズムを伝えてくる。そのままに色とカタチを塗り分けていく。

f:id:norioishiwata:20171219195109j:plain環境、出会い、この10日間の体験を素材にして、この部屋は完成した。ギャラリーでも美術館でもない、忘れ去られた日常空間にアートを出現させた。絵が生きる空間をつくる。暮らす人が絵を活かす。暮らす人が幸せハッピーな空間になる。

最後にまのさんは、ぼくらが提示した金額の倍を支払ってくれ、こう言った。
「あなたたちみたいなアーティストはいない。だってわたしのために生きていく空間をつくってくれるのだから。値段なんてない。だから安売りしてはダメ。またおカネができたら作品買ってギャラリーにするわね」

その夜、行った温泉でこう話しかけられた。
「兄さん、立派な髭だね。職業を当ててやろう。あんた芸術家だろ?」

芸術家として生きると決心して、5年が経ち、少しは理想に近づけたのかもしれない。諦めなければ、夢は叶うし、成功もできる。諦めるなんて死ぬまでない。

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心が動くままにつくること

茨城県北茨城市の奥地で、古民家を改修していて、古材を切り落とした端材に目が止まった。それがこれ。

f:id:norioishiwata:20171211220801j:plainぼくは、アートが好きで常につくっていたい。シンプルに言えば、没頭しているのが好きだ。なかでも、偶然現れるカタチが好きで、どうやったらそれに遭遇できるのか、いつも考えている。

つくるとき、まず自分がビックリしたい。だから、絵を何枚も描いたあとに現れる床のペンキの跡や、傷だらけの古材、コラージュで切った雑誌の使わなかった端片、さらにはその裏側、失敗した作品、偶然ひょんなことで遭遇するカタチたち。

そいつらは、何かをしているときに、目的とは違う、別な何かを発見するセレンディピティという現象で説明される。それは失敗を成功に変える奇跡であり、科学者や発明家が何かを発見するテクニックのひとつでもある。

f:id:norioishiwata:20171211220938j:plainこれは「見立て」という言葉でも説明できる。調べてみると「見立て」は日本独自の芸術技法らしい。「モノ本来の姿ではなく、別のモノとして見る」これは和歌や漢詩からきた文学表現を利用して、千利休が生活用品を茶道具に取り入れたことに由来される。

ぼくはいま、言葉を並べて、偶然に発見した得体の知れない端材に価値を与えようとしている。

例えば、マルセル・デュシャンが便器を展示して、日用品である便器をアートにしてしまった事件は、どうだろうか。現代アートには、まるで何でもアート作品にできるような感があるけれど、実は、それには相当なテクニックが必要で、すべての便器がアートになる訳ではない。その仕事は、脱獄映画や銀行強盗の完全犯罪のように用意周到にギャラリーに運び込んで、最初から最後までアート作品のフリをした便器がついにアート作品になってしまった唯一無二の事件。つまり、決して便器など持ち込めないと信じられている神聖な場所に、穢らわしい便器を芸術品として提示して、嘘を本物にしてしまった。その記録保持者がマルセル・デュシャンという訳だ。

f:id:norioishiwata:20171211220613j:plainぼくは、何かテクニック的に優れた作品をつくりたいという願望よりも、芸術の範囲を広げたい。芸術がもっと日常生活のなかに、高いところよりも低いところへ水が流れていくように、広がっていけばよいと思っている。なぜなら、日々の暮らしのなかに感動する機会が増えた方が、より多くの人生が楽しくなる。カッコつけて理解されないより、カッコ悪くて笑われる方がいい。

それこそが、ぼくの考えている生活芸術で、先日、海外の友達に最近何をしている?と聞かれたので「日本でリビングアート(生活芸術)というコンセプトをつくってる」と説明すると「それは面白いね、それが表現できたらヤバいね、どんな作品になるのか見せてね」と返信をくれた。パートナーのチフミは「生活芸術が分からないから、ひとことで説明して」と言って、ぼくが「芸術は人生だ」と答えると「やっぱり分からない」と即答してくれた。つまり、ぼくには、まだ生活芸術とはなんぞや、その問答の入り口さえ見つかっていない。

有名な哲学者ニーチェは「生きる」を哲学の最優先事項にした。人生を神に捧げさせる宗教を相手に「神は死んだ」と宣言した。つまり神なんて存在しないのだから、神に祈るくらないなら「自分の人生を生きろ」という態度。キリスト教の影響下のヨーロッパで、そうニーチェが宣言できたのは、人間にとって「生きる」ほど重要なことはないという確信があったのだと思う。ルドルフ・シュタイナーが書いた「ニーチェ みずからの時代と闘うもの」を読んで初めてニーチェを理解できて親しい気持ちになれた。

ぼくは、切り落とした端材を作品のリストに加えた。ぼくはいくつか作品をストックしている。なぜなら、アート作品には「時間/time, 場所/place, 機会/opportunity」がとても重要だから。

昔に読んだ本にこう書いてあった。「芸術作品は、鑑賞されて初めて芸術になる。それは、花の蜜をミツバチが集めて甘くなるように、作品はたくさんの人の目に触れて成長し、芸術作品となる。」

何だってタイミングが支配している。友達と出会うのも、タイミングだし、生涯の伴侶と出会うのもタイミング。それを運命と呼ぶひともいる。ぼくは、タイミングは、波乗りみたいなことだと思う。波を掴めるかどうか、それが作品の生き死にを決めるタイミングでもある。

f:id:norioishiwata:20171201102541j:plain先日、隣まちの温泉にいったら、有名な落穂拾いのプリント画が飾ってあった。3人の女性が、並んで畑仕事をしているような絵。人間と自然の循環が見えて、何度も見ていたけれど、はじめて素敵な絵だと思った。ネットで調べてみると、フランスの画家、ミレーの作品だった。絵が描かれた1850年ころは、収穫の際に落ちた穂は、拾わないという風習があった。なぜなら、貧しいひとたちが、拾って生き延びる余地を残したらしい。だから、この絵が発表されたとき、賎しい絵だと批判された。

つまり、この絵は美しいだけでなく、同時に穢らわしくもある。ぼくは何も知らずに、この絵に感動した。予期しないタイミングで、この絵と出会ったことで、素直にこの作品と向かい合うことができた。感動には、偽物も本物もない。目の前にあるカタチ、それしかない。心が動くとき、そこには古いも新しいも偽物も本物も関係なくなるときがある。最近思うのは、ぼくの心が動くままにつくること、それができれば、いつか誰かを感動させることができる。これが正しいからと選択するなら、もはやそれは正しくないし、美しいからと真似るのであれば、そこには美しさの微塵もない。

f:id:norioishiwata:20171211221307j:plain明日も、朝起きて、1日を過ごし、その日の出来事に感動したい。出会ったとき、何を感じるか。何を受け取るのか。まだまだやれる。

自分が強く正しいと思うとき、それは間違っている

f:id:norioishiwata:20171201101746j:plain美しい場所をみつけた。いま改修している古民家の裏の景色。耕作放棄地の奥には手入れされないままの森林。緑色は針葉樹林で、戦争中に植林された。家族親戚総動員でやったそうだ。将来、資産になる見込みだったから、日本中で植林をして、どこの山も杉や檜が植えられて年中緑色になっている。赤色や黄色のところは広葉樹で紅葉している。そこは、もともと植林しなかった原生林か、もしくは杉や檜を伐採して放置した結果、再び原生林に戻った、と教えてくれる人がいた。

 雑草は、人間が開拓したところにしか生えなくて、自然が回復しようとする生態系のシステムで、種類を変えながら大きくなり、ススキは、雑草から森へと移り変わる手前だと聞いたことがある。

 かつては、田んぼも畑もやって、生活は井戸水が潤し、山から薪を集めて火を焚いて、山から動物を獲って、実はこの家の裏には川もあるからヤマメなんかを漁っていた。時間を50年ほど巻き戻せば、ここには人間が生きるために必要なモノコトがすべて揃っていた。何千年もの時を賭けて日本人が自然から、編み出した生きるための知識が、ここにはあった。昭和の高度成長期前にあった日本人の暮らし方は、自然と共に生きる技術の世界最高水準にあったと思う。

 ここは、茨城県北茨城市富士ヶ丘の楊枝方。この地域は、世間的な言葉を借りるなら限界集落という場所だろう。つまり、日本人は、こういう場所には住みたくない、もしくは住めなくなってしまった。けれども、ご覧の通り、ここには美しい自然がある。しかし、自然が美しいとき、それは人間が開拓していないからで、人が離れてしまい興味を持たないから、この美しさがあるという矛盾だったりもする。

f:id:norioishiwata:20171201101950j:plainネットのニュースで、もんじゅ廃炉を想定した設計をしてないから燃料が取り出せない、という記事をみた。それについての批判もたくさん見かけたけれども、原子炉どころか、終わりを想定しているモノコトなんて存在していない。そんな後始末のことよりも、もっと先へと進みたい。それが欲なんだと思う。

 マンションだって50年前には永遠に壊れないと販売されていた。住宅だって壊すことを前提に設計されていない。恋愛だって終わるつもりはない。死ぬつもりで、生きてる人もあまりいない。

 いま古民家の周辺にある小屋や隠居を解体して、その材を再利用して、古民家と農小屋を改修している。解体した廃材は、処分するのに費用がかかる。家具だって冷蔵庫だって。もんじゅの記事を見て、自分のことに置き換えるなら、壊すことを想定した住宅とは何だろうか、と思う。古民家は、ほとんど自然物でつくられている。100年前なら、ほとんど自然の循環のなかで処分できただろうけど、いまは、対価を払わなければ処分できない。つまり、ぼくらの目の前にあるほとんどは、その終わりを想定してデザインされていない。

そもそも、現代人の暮らしは、循環していない。食料も廃棄するし、毎日のゴミがどこへ行って、どう処分されているのか知らないし、糞や尿がどうなっていくのか、知ろうとすれば知れることさえ、興味を持たないまま、日々を過ごしている。けれども、それを知らずに生きれることは快適かつ幸せなのかもしれない。

かっての暮らしは、そうしたすべてを自分の手で処理しなければ生きれなかった。勉強したくても、遊びたくても時間がなかった。

古民家の家主だった有賀さんの叔父さんは、夜中に家を出て、駅まで10km歩いて始発に乗って、水戸まで高校に通ったらしい。たった50年で、それだけ時代は変わる。もし有賀さんの叔父さんほどの熱意と行動力がこの時代にあったら、どれだけの夢を叶えられるだろうかと、思う。

 

かつての暮らしがあった場所で、自然を目の前にすると、自分の行いのほとんどを悔い改めたくなり、少しでも何かを循環させてみたいと考える。だから、解体した材料で、家を改修している。家は生き延びようとしている。サバイバルしている。

 f:id:norioishiwata:20171201102224j:plain最近、自分が強く正しいと思うとき、それは間違っていると思うようになった。「正しさ」なんて、とても曖昧で状況や立場によって変わってしまう。例えば、新築の住宅を建てる建築士に「あなたはこの家が壊れるときのことを考えているのですか?」と抗議したところで、建築士さんは、それとは全く違うベクトルで200%の正しさを追求している。

 どうして森林を活用しないのか、と訴えたところで、ぼくの知識が及ばない事情で、もう何年も前から、そうなっている。目の前の自然が美しいからって、どうして、みんなは自然を大切にしないのか!と憤ったところで、それもやっぱり、なにか違うと思う。

ハッキリしているのは、やたらに「正しい」と主張するひとは、正しくない。間違っているということ。なぜなら、みんなが、それぞれに正しいから。自然は、それを教えてくれる。針葉樹林も広葉樹も雑草も、みんながそれぞれに生き延びているから、その逞しさが美しい。

 

どんなに技術が進歩しても「もうこれでいい。充分ということはない」

f:id:norioishiwata:20171123003156j:plainNightmares on waxの新曲MVに刺激を受けて、映像作品を作りたくなった。「Back to nature」と題された作品は、コラージュの映像版で、人類が文明化していく様子を、洗練されセンスで編集し、観る人を太古から現代まで旅に連れていく。

ぼくは、いつも勘違いしている。映像作品なんかほとんど作ったことないのに、やれると思ってしまう。まずは、映像に詳しい友人に質問した。

Nightmares on waxの新しいMVみたいな映像作品をつくりたいんだけど、できるかな?」
「あ!あれね!最高だよね。難しくないと思うよ。今度、東京に来るとき連絡してよ」
と言ってくれたので、さっそくバスを予約して北茨城から東京へ。

友人のオフィスがある恵比寿で雑談をしながら、映像のつくり方を教えてもらった。

「実は、もう技術はいらないんだよ。AIはどんどん発達してて、センスだけあれば、やれる時代になっているんだ。」
「もうadobeの映像編集ソフトだって月6000円でつかえるから。」
「むしろ、何をつくるのかイメージして、それをカタチにする。その作業の方が重要だから、映像を編集するというよりは、コラージュで平面作品をつくって、それを場面にして構成していけば、できるよ。」

友人は、岡村靖幸さんや、コーネリアスの映像を手掛ける村尾くん。村尾くんは、なんでもぼくより知っている知恵袋のような存在。

f:id:norioishiwata:20171123004320j:plain夢だった映像作品は、根気とセンスでつくれると結論して、一段落。どころで、これからの時代を生き延びるに必須なセンスとは何ぞや、の話しになった。技術的なところはAIが処理してくれるなら、一体どこに表現の差が生まれるのか。

第一線で活躍するアーティストと仕事をしている村尾くんが話してくれたのは、一流と呼ばれる人たちの飽くなき追求する姿勢だった。

例えば、つい先日、日本でライブを披露したBECKは、楽屋にスタジオをつくり、ライブ前に何時間も演奏して、ステージに立った。もっとも練習するバンドとして知られるメタリカは、会場にステージと同じリハーサル用のステージをつくり、ライブ前に何時間も演奏して、その後クールダウンしてからライブをやる。
Red Hot Chili Peppersも、セレブなパーティーやイベントで騒ぐよりもスタジオに入って曲をつくるのが、最高に楽しい、とインタビューで語っていた。

村尾くんが仕事をする日本の音楽家たちも、毎日スタジオに入って制作に取り組んでいるそうだ。ライブが終われば、映像をみて、何が間違っていたか確認する。何故その間違えが起きたのか検証する。そうやって、果てしない追求を続けている。

どんなに技術が進歩しても、
「もうこれでいい。充分ということはない」

f:id:norioishiwata:20171123004757j:plain表現を追求するとは、アスリートなのだと気がついた。諦めないこと。いや、むしろ、ゴールなんてなくて、葛飾北斎が百何十歳まで生きれば「絵が生きる」と言ったような境地。表現は競うものではなく、ひたすら磨くこと。まさに生きる芸術という意味を教えてもらった。まだまだ、やれるどころじゃない。死ぬまでやれる。それが生きるということだ。

 

平潟港漁夫の今昔物語

f:id:norioishiwata:20171121225054j:plain北茨城市は北側のトンネルを抜けると、すぐに福島県いわき市になり、そこに、近隣のひとたちが利用する小さな温泉がある。そこに行くと、いつも地元の人の話が聞ける。

今日は60歳後半の漁師、ジンサンの話。

平潟の海は、昔から豊かで、明治時代から漁業が盛んだった。伝馬船(てんません)という小さな舟を手で漕いで、底曳き網漁をしていた。平潟の港は、茨城県のなかでも、もっとも魚の種類が豊富に漁れる港だった。だから、むかしは築地辺りで、平潟と言えば、名前の通った港だった。

話してくれたジンサンが、漁師になったころは、先輩たちは、漁の名人ばかりだった。イカの名人、ノドグロの名人、網の名人、舟の名人。とにかく、技術は充分あり、魚がたくさん漁れるから、みんなノンビリ暮らしていた。

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ところが、いつからか、北の方の港の船が平潟まで来るようになって漁をしていくようになった。平潟の船が悪天候で休む日も、漁をしにやってくる。しまいには、イカの産卵期で漁を休んでいるのに、イカも魚も奪っていく。

漁のエリアに当時は制限がなかったけれど、いくらなんでも酷いから抗議にいった。すると北の漁師たちは「お前らの漁が下手なだけだ」と言う。

平潟の漁師たちは、もともと、豊かな港でやってきたので、比較的性格も穏やかだから、腹立ったけど、怒りを抑えて、またいつものように漁をして日々を過ごした。けれども、乱獲する漁は、次第に海の生態系に影響を与え、豊かだった平潟港の水揚げ量は、減っていき、漁業が成り立たなくなり、倒産するところも増えてきた。ジンサンも、平潟で漁ができなくなり、大津港の船で漁師を続けていると話してくれた。

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東日本大震災があったとき、北の漁師の船も道具も何もかもが、津波に飲み込まれて、漁ができなくなった。世間は、北の漁師たちに同情するけど、俺は、やっぱり悪いことすると、それなりの報いがあると思った。

震災の原発事故で放射能が海に流れて、宮城は、宮城の海、福島は福島の海、茨城は茨城の海って、エリア分けされて、そとの漁師が、平潟に来なくなってから、平潟の海の生態系が戻ってきて、イカもたくさん漁れるようになった。

俺は漁師いっぽんでやってきて、魚が漁れないのが一番つらいから。いまは、大津港の船に乗せてもらって、仕事ができて、御飯が食べれて幸せだ。

ジンサンは湯船に浸かりながら、そう話してくれた。