人生とはなんて不思議で、手に負えない代物なのだろう。
ぼくは10代の終わりに進路について父親とケンカして家を出た。
土井さんは、
今回、
大学時代の仲間3人が人生の荒波を乗り越えて、
ぼくには子供がいないけれど、友達や親戚の子供たちが、
オイカワさんは
「自分のことを知ってくれている人としか仕事は生まれない。
だとするなら、よく見渡したらいい。自分の周りにいる人を。
ぼくは北茨城という土地に来て「アートによるまちづくり」
人生とはなんて不思議で、手に負えない代物なのだろう。
ぼくは10代の終わりに進路について父親とケンカして家を出た。
土井さんは、
今回、
大学時代の仲間3人が人生の荒波を乗り越えて、
ぼくには子供がいないけれど、友達や親戚の子供たちが、
オイカワさんは
「自分のことを知ってくれている人としか仕事は生まれない。
だとするなら、よく見渡したらいい。自分の周りにいる人を。
ぼくは北茨城という土地に来て「アートによるまちづくり」
やりたいことを言葉にして行動する。ぼくの場合は、自分と対話しながら、このブログに言葉を並べ、行動し表現する。その成果を文章や作品や展示で伝える。
より便利に快速化し、貨幣経済に支配される時代のなかで、忘れられ、失われていく人間の根幹にある、目の前にある小さな、そのミクロな視点が捉える、ほんとうに大切なモノコト。この時代のなかで、立つべき場所、問うべき思考、みるべき未来とは何なのか。それは、多数派でもなく、大企業でもなく、大資本が動く場所でもない、目の前の当たり前過ぎて見落としているモノコトに宿る。
身の回りの小さな出来事を世界全体のコモンセンスになるまで拡大し表現する。それを「ミクロメガス」と名付けよう。「ミクロメガス」は、ぼくが好きな本、16世紀のフランス、ヴォルテールの作品。岩波文庫の傑作「カンディード」に収録されているので、タイトル作品と併せて強烈にオススメする。
インターネットが発達し、物理的な境界線が消えた現在、ある地方で起きている小さな問題は、世界全体の問題になりうる。都市と自然、先進国と発展途上国、富裕層と貧困層、戦争と平和、右と左、上と下、成功と失敗。錯綜する情報は、たくさんの問題と議論を巻き起こす。「正しさ」は右にも左にもあり、真ん中にも絶対の答えは存在しない。
だとすれば、人間はどのように生きればよいのか。国家が武器を輸入するディストピア時代、ぼくは少数派になることを恐れない。おカネで物事の価値を判断しない。間違いや失敗も辞さない。なによりも勘違いと情熱を持って生きていく。それは、ぼく個人のためではなく、これからも生きながらえてほしい愛すべき人類のために。無邪気な子供たちの、その眼差し、振る舞い、その美しい心が、目先の欲望の犠牲にならないためにも。
未来を守るためには、自然との繋がりを復興するべきだと思う。ぼくのような小さな無名の人間が、どこまでやれるのか大志を抱いてみようと思う。これが「勘違いと情熱」だ。
人間が生きるために必要不可欠な自然との接点が消えつつある現代だからこそ、アートが表現するべき領域は、空想でも想像でもなく、極端に歪んでしまった現実にあると確信する。現実が、いかなる虚構も超越してしまった今、どうやって、混迷錯綜する広大な現実と仮想空間を横断できるのか。つまりは、あらゆるツールを駆使して冒険したいと思う。
目標は、現代に於ける理想的な人間活動を描くこと。幸せハッピーで、愉快痛快な。ぼくはそれをテーマにしたい。
理想的な人間活動とは、人類が何千年もの時を費やし蓄積してきた生きるための技術、つまり自然との関わりのなかで日々の暮らしをつくること。ぼくはそれを「生活芸術」と名付けた。
日本の地方から世界全体の地方へとリンクする、点と点を結ぶように横断して、貨幣経済だけでなく、自然界が育む採取経済までに価値範囲を拡大し、人間が生きること、その喜び、豊かさに直結するアートを人々の暮らしのなかに届ける、夫婦芸術家、檻之汰鷲(おりのたわし)。
2018年は、北茨城市を舞台に、失われていく生きるための技術、森に海に、大地にそのアートを表現する。
目の前の
小さなモノコトを耕すことから
今年を始める。
2018
檻之汰鷲(おりのたわし)
愛知県津島市での2軒目の空き家改修が完成した。依頼主はシンガーソングライターのまのあけみさん。そこにある材料で、できるだけ低予算でやるというオーダー。まのさんは、2年前の津島市の空き家改修ルミエールの仲間でもあり、僕たちの本、生きるための芸術を読んでくれて、ぼくらのことをよく知ってくれたうえでオファーしてくれた。最高な環境を用意してもらったからには、できる限りを尽くしたい。限界を超えたい。そういう場を与えられたとき何ができるのか。24時間を繰り返す日々のなか、1日1日できることを、コツコツと積み重ねていくしかない。
もともと革手袋の工場だったところに住環境を増築した物件。奥半分は戦後のつくりで、増築部分は昭和40年代。ぼくらが改修するのは奥半分の2階建。まずは床を張ることからスタート。床の次は壁。古い家なので隙間風が強く吹き込む。使っていない建具を窓に重ねて2重窓にしたり、隙間のところに板を張って直接の風を減らしたり、そこにある材料で工夫を楽しんだ。
窓を丸くしてみた。枠を変えるだけで、景色は別物になる。つまり、フレームを変えれば世界が変わる。見方を変えれば、つまらないものも、楽しくなる。
人間は、小さなことに簡単に躓く。転ぶ。立ち上がりまた歩き出せればいいけれど、そこから先に進まなくなることもある。生き延びるための道具に過ぎない家に翻弄されたり、たくさんのことを抱え過ぎて、欲に溺れて生きる意味すら見失ってしまう。どうして、人間はこんなにも生きることに対して不器用なんだろうか。空き家に関わることは、他人の人生に触れることでもある。生き様。友達とも家族ともまた違う、他人の家の敷居を跨ぐから垣間見える世界がある。
60代のまのさんは、自分が高齢者になる準備をしている。音楽家として独立して生きてきたまのさんは、会社や年金に頼った老後には期待していない。老人ホームにお世話になる金銭的な余裕があるかも定かではない。だから、まのさんは、高齢女史のシェアハウスをつくろうとしている。社会制度や施設にではなく、仲間たちと支え合いながら生きていく環境をつくろうとしている。ここには、夢と未来がある。
丸い窓は、角をなくした悟りの境地だという。別にそれほどのつもりもなく、ただ丸い窓から景色を覗いてみたかった。
何ができるのか分からないままで、この部屋の改修を始めた。それがサバイバル・アートという制作スタイル。ないものを買うのでなく、身の回りのもので代用する。本来の役割を終えていてもモノは別の役割で仕事をしてくれる。そこにあるものでつくることは、不自由なのだけど、だからこそ予想を超える展開になる。不思議なことが起きてくる。つくっているとき、夢中になるとき、ユートピアが現れる。
丸いちゃぶ台形の炬燵を持って来てくれる人が現れ、その丸が丸窓の発想に転じた。北茨城での古民家改修からずっと働きっぱなしで、倒れそうなほど疲労していた。けれど、動くと楽しくて、目の前のイメージをカタチにしたくて止まらなかった。朝から晩まで制作して、でもいよいよキツイ段階で、強力な助っ人が現れる。計画してないからこそ、偶然が味方になる。空白があるからチャンスが訪れる。家の壁に色を塗ると、家が好みの色を教えてくれる。オレンジ、茶色、白。差し込む光が影をつくり、空間のリズムを伝えてくる。そのままに色とカタチを塗り分けていく。
環境、出会い、この10日間の体験を素材にして、この部屋は完成した。ギャラリーでも美術館でもない、忘れ去られた日常空間にアートを出現させた。絵が生きる空間をつくる。暮らす人が絵を活かす。暮らす人が幸せハッピーな空間になる。
最後にまのさんは、ぼくらが提示した金額の倍を支払ってくれ、こう言った。
「あなたたちみたいなアーティストはいない。だってわたしのために生きていく空間をつくってくれるのだから。値段なんてない。だから安売りしてはダメ。またおカネができたら作品買ってギャラリーにするわね」
その夜、行った温泉でこう話しかけられた。
「兄さん、立派な髭だね。職業を当ててやろう。あんた芸術家だろ?」
芸術家として生きると決心して、5年が経ち、少しは理想に近づけたのかもしれない。諦めなければ、夢は叶うし、成功もできる。諦めるなんて死ぬまでない。
茨城県の北茨城市の奥地で、古民家を改修していて、
ぼくは、アートが好きで常につくっていたい。
つくるとき、まず自分がビックリしたい。だから、
そいつらは、何かをしているときに、目的とは違う、
これは「見立て」という言葉でも説明できる。調べてみると「
ぼくはいま、言葉を並べて、
例えば、マルセル・デュシャンが便器を展示して、
ぼくは、何かテクニック的に優れた作品をつくりたいという願望よりも、
それこそが、ぼくの考えている生活芸術で、先日、
有名な哲学者ニーチェは「生きる」を哲学の最優先事項にした。
ぼくは、切り落とした端材を作品のリストに加えた。
昔に読んだ本にこう書いてあった。「芸術作品は、
何だってタイミングが支配している。友達と出会うのも、
先日、隣まちの温泉にいったら、
つまり、この絵は美しいだけでなく、同時に穢らわしくもある。ぼくは何も知らずに、この絵に感動した。予期しないタイミングで、
明日も、朝起きて、1日を過ごし、その日の出来事に感動したい。
美しい場所をみつけた。いま改修している古民家の裏の景色。
雑草は、人間が開拓したところにしか生えなくて、
かつては、田んぼも畑もやって、生活は井戸水が潤し、
ここは、茨城県北茨城市富士ヶ丘の楊枝方。この地域は、
ネットのニュースで、もんじゅが廃炉を想定した設計をしてないから燃料が取り出せない、
マンションだって50年前には永遠に壊れないと販売されていた。
いま古民家の周辺にある小屋や隠居を解体して、
そもそも、現代人の暮らしは、循環していない。
かっての暮らしは、
古民家の家主だった有賀さんの叔父さんは、夜中に家を出て、
かつての暮らしがあった場所で、自然を目の前にすると、
最近、自分が強く正しいと思うとき、それは間違っていると思うようになった。
どうして森林を活用しないのか、と訴えたところで、
ハッキリしているのは、やたらに「正しい」と主張するひとは、
Nightmares on waxの新曲MVに刺激を受けて、映像作品を作りたくなった。「Back to nature」と題された作品は、コラージュの映像版で、人類が文明化していく様子を、洗練されセンスで編集し、観る人を太古から現代まで旅に連れていく。
ぼくは、いつも勘違いしている。映像作品なんかほとんど作ったことないのに、やれると思ってしまう。まずは、映像に詳しい友人に質問した。
「Nightmares on waxの新しいMVみたいな映像作品をつくりたいんだけど、できるかな?」
「あ!あれね!最高だよね。難しくないと思うよ。今度、東京に来るとき連絡してよ」
と言ってくれたので、さっそくバスを予約して北茨城から東京へ。
友人のオフィスがある恵比寿で雑談をしながら、映像のつくり方を教えてもらった。
「実は、もう技術はいらないんだよ。AIはどんどん発達してて、センスだけあれば、やれる時代になっているんだ。」
「もうadobeの映像編集ソフトだって月6000円でつかえるから。」
「むしろ、何をつくるのかイメージして、それをカタチにする。その作業の方が重要だから、映像を編集するというよりは、コラージュで平面作品をつくって、それを場面にして構成していけば、できるよ。」
友人は、岡村靖幸さんや、コーネリアスの映像を手掛ける村尾くん。村尾くんは、なんでもぼくより知っている知恵袋のような存在。
夢だった映像作品は、根気とセンスでつくれると結論して、一段落。どころで、これからの時代を生き延びるに必須なセンスとは何ぞや、の話しになった。技術的なところはAIが処理してくれるなら、一体どこに表現の差が生まれるのか。
第一線で活躍するアーティストと仕事をしている村尾くんが話してくれたのは、一流と呼ばれる人たちの飽くなき追求する姿勢だった。
例えば、つい先日、日本でライブを披露したBECKは、楽屋にスタジオをつくり、ライブ前に何時間も演奏して、ステージに立った。もっとも練習するバンドとして知られるメタリカは、会場にステージと同じリハーサル用のステージをつくり、ライブ前に何時間も演奏して、その後クールダウンしてからライブをやる。
Red Hot Chili Peppersも、セレブなパーティーやイベントで騒ぐよりもスタジオに入って曲をつくるのが、最高に楽しい、とインタビューで語っていた。
村尾くんが仕事をする日本の音楽家たちも、毎日スタジオに入って制作に取り組んでいるそうだ。ライブが終われば、映像をみて、何が間違っていたか確認する。何故その間違えが起きたのか検証する。そうやって、果てしない追求を続けている。
どんなに技術が進歩しても、
「もうこれでいい。充分ということはない」
表現を追求するとは、アスリートなのだと気がついた。諦めないこと。いや、むしろ、ゴールなんてなくて、葛飾北斎が百何十歳まで生きれば「絵が生きる」と言ったような境地。表現は競うものではなく、ひたすら磨くこと。まさに生きる芸術という意味を教えてもらった。まだまだ、やれるどころじゃない。死ぬまでやれる。それが生きるということだ。
北茨城市は北側のトンネルを抜けると、すぐに福島県いわき市になり、そこに、近隣のひとたちが利用する小さな温泉がある。そこに行くと、いつも地元の人の話が聞ける。
今日は60歳後半の漁師、ジンサンの話。
平潟の海は、昔から豊かで、明治時代から漁業が盛んだった。伝馬船(てんません)という小さな舟を手で漕いで、底曳き網漁をしていた。平潟の港は、茨城県のなかでも、もっとも魚の種類が豊富に漁れる港だった。だから、むかしは築地辺りで、平潟と言えば、名前の通った港だった。
話してくれたジンサンが、漁師になったころは、先輩たちは、漁の名人ばかりだった。イカの名人、ノドグロの名人、網の名人、舟の名人。とにかく、技術は充分あり、魚がたくさん漁れるから、みんなノンビリ暮らしていた。
ところが、いつからか、北の方の港の船が平潟まで来るようになって漁をしていくようになった。平潟の船が悪天候で休む日も、漁をしにやってくる。しまいには、イカの産卵期で漁を休んでいるのに、イカも魚も奪っていく。
漁のエリアに当時は制限がなかったけれど、いくらなんでも酷いから抗議にいった。すると北の漁師たちは「お前らの漁が下手なだけだ」と言う。
平潟の漁師たちは、もともと、豊かな港でやってきたので、比較的性格も穏やかだから、腹立ったけど、怒りを抑えて、またいつものように漁をして日々を過ごした。けれども、乱獲する漁は、次第に海の生態系に影響を与え、豊かだった平潟港の水揚げ量は、減っていき、漁業が成り立たなくなり、倒産するところも増えてきた。ジンサンも、平潟で漁ができなくなり、大津港の船で漁師を続けていると話してくれた。
東日本大震災があったとき、北の漁師の船も道具も何もかもが、津波に飲み込まれて、漁ができなくなった。世間は、北の漁師たちに同情するけど、俺は、やっぱり悪いことすると、それなりの報いがあると思った。
震災の原発事故で放射能が海に流れて、宮城は、宮城の海、福島は福島の海、茨城は茨城の海って、エリア分けされて、そとの漁師が、平潟に来なくなってから、平潟の海の生態系が戻ってきて、イカもたくさん漁れるようになった。
俺は漁師いっぽんでやってきて、魚が漁れないのが一番つらいから。いまは、大津港の船に乗せてもらって、仕事ができて、御飯が食べれて幸せだ。
ジンサンは湯船に浸かりながら、そう話してくれた。