いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

それでも夏はやってくる。ワクワクして寝れない子供たち。

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海水浴場にペットボトルのSUPを持っていき、ライフセイバーさんと海水浴場を開いている市の担当者に相談すると、手作りSUPの試乗会を11日、12日、13日の連休でやってくれることになった。小学生以上を対象に開催され、述べ30人ほどが体験してくれた。


「ぼくは子供なので、なかなか海の上に行けないんですよ、貴重な体験です。」

「え、ペットボトルでつくったの? スゲー!乗りたい!」

「怖い!怖いよ!動かないで!」

「最初は難しいと思ったけど、すぐに乗れるようになったよ。」

いろんな反応があった。

ライフセイバーさんのレスキューボートで波を越えてやってきて「海には絶対落ちれない」という子がいた。話しを聞くと、目が見えないという。すごい勇気だと思った。

彼は

「これが海の上か!怖え!めっちゃ怖え!」と叫んだ。
それでも楽しんでいる様子だった。無事にSUPに乗り移ったあと


「めっちゃ揺れる!波揺れる!怖え!」と騒いだけれど
ジェットコースターを楽しむようだった。


子供たちは、ものすごいチャレンジをしているのだと思う。瞬間という瞬間を楽しみ、瞬間毎に新しい発見をして。夏休みに遊びに来た甥っ子は、毎日が楽しみ過ぎて、朝5時には起きる。ワクワクして、寝ていられないらしい。

その熱狂に比べたら、まだまだやれると思う。「大人になりさない」とか「大人なんだから」という文句があるけれど「子供を見習いなさい」とか「子供の気持ちで考えてごらん」とは言わない。子供の気持ちになれば、SUPに帆を張ってヨットにもできるだろうし、英語だって話せるようになるだろうし、世界一周だってできるだろう。まだまだやれる。

 

 

ペットボトルの筏は現代アートになるのか。

f:id:norioishiwata:20170808102147j:plainペットボトルで筏をつくった。ぼくはこの数年、舟をつくりたかった。北茨城市で、和船に出会ったけれども、その重さに怯んでしまった。仮に木材で和船をつくっても、運搬もできないし保管場所もない。もう少し、やるべき理由が重なるまで保留にすることにした。

そこで、もっともシンプルな海の乗り物、SUPをつくることにした。SUPとは、stand up paddleという立って漕ぐサーフボード。サーフボードとも呼べるけれども、つまりは筏。海に浮かぶ板状のモノをつくればいい。

f:id:norioishiwata:20170808102245j:plainモノづくりで、重視したいのは、材料がどこからやってきて、どこへいくのか。その流れは、モノが環境に与える影響を可視化してくれる。この日本には、使えるモノがたくさんある。ザンビアやアフリカを旅して、その違いに驚かされた。モノが少ない地域は「ない」を「ある」に変える創造力を持っている。その発想力で、日本を見渡せば、お宝がたくさん転がっている。

日本には、SUPを買える経済力がある人はたくさんいるだろうけれど、そもそもそれを買う目的は何か?突き詰めれば「海の上に立つこと」(イヤ、手づくりなんてダサい、お洒落なSUPに乗りたいって人もいるだろうけれど、ぼく的には、10万円もの金額を知らない人に払いたくない)。

そんなときは、サバイバル的な発想の転換で考えてみる。これが栽培化された思考の設計図やマニュアル的なやり方の対極にある野生の思考。動物が巣をつくるような身の回りの材料でつくる自然に即した表現技法。ぼくはサバイバルアートと呼んでいる。

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今回は

・ペットボトル 2L  48個

・木材①240cm 4本

              210cm  2本

              150cm  2本

・角材②160cm  2本

・紐

・インシロック

が主な材料

全部で5000円もしない。

ポイントは、ペットボトルの浮力をどうやって束ねるのか。その解決策として、木材にペットボトルを縛り付けた。実際に乗ってみると、捩れて不安定なので、横板も追加した。これで、海の上を立って漕げる。パドルも自作。

f:id:norioishiwata:20170808102821j:plainぼくの野望は、こうした創作がアートとして評価されるようにしたい。なぜなら、この筏は、環境負荷が少ないし、元々、ゴミだったモノを再利用しているので、また同じようにゴミに戻せるし、世界中の至るところで、この筏をつくることができる。金持ちも貧乏人も関係ない。

ぼくの考える「アート」とはARTの語源のアルスで、それは技術を意味する。特別な知識や経験を必要としない、原始的な技術のカタチを発掘、創造したい。ぼくは、それらをアートに位置づけたい。

そのためにも、このペットボトルの筏を、ギャラリーや美術館で観賞するモノへと変換させてみたい。人間は、ゴミを宝にできれば、金をゴミにもしてしまうし、人生をつまらなくもすれば、最高に楽しいものにもできる、嘘も本当に変えるほどの能力もある。そのチカラを証明しよう。ペットボトルの筏は現代アートになる。

多くの人が経験しているだろう「商売」について、改めて社会を動かすチカラを持っていることについて。

多くの人が経験しているだろう「商売」について、ぼくは今年、フジロックでBARをやって、生まれて初めて体験した。

f:id:norioishiwata:20170801110912j:plainBARとはお酒を仕入れて、コップに注いだり、カクテルをつくったりして要するに仕入れ値の何倍かで売ることができ、目の前で錬金術のようにおカネが増えていく。200円で仕入れて500円で売る。ところが、やってみると商売はそんな甘くない。

 まず、ロケーションが最高に良い反面、とても過酷で、フジロックの会場から車で1時間以上かけてすべての荷物を運ぶ。お客さんはゴンドラに揺られて絶景を楽しみながら30分でフジロックとは別世界の楽園へ到着するから御安心を。野外なので天候に応じて、売り上げが変動する。さらに氷を仕入れなければならない。冷やすための冷凍庫も必要。そんなこんなで経費が半端なく増えていく。f:id:norioishiwata:20170801111200j:plain

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f:id:norioishiwata:20170801111752j:plainぼくはアート作品を制作して、それを売って生きている。それを「商売」とは別のジャンルだと考えていた。けれども、今回の経験をきっかけに、モノを売るという意味で、アート活動もまた商売の一種だと考えるようになった。

商売とは、ある場所で安価で仕入れたモノを、そのモノが乏しい場所で高価で売却して、その差益を稼ぐこと。歴史的には、メソポタミアのシュメールやバビロニアには、シュメール文字による商取引による記録(4350年前の粘土板)も残っており、この発明(文字と粘土板による記録)によって、取引や交換の管理が容易となった、とされている。つまり、数を記録できるようになって、その余剰生産物を商売として、取引するようになっていった。

 いまの社会でも、何千年前と同じように、ぼくたちは、何かしらの「商い」をして、生きている。この社会に参加して生きるためには、それ相応のおカネを獲得しなければ、生きていけない。ぼくたちは、この「おカネ」という道具に翻弄されて生きている。

f:id:norioishiwata:20170801114445j:plainぼくはこの3年ほどを、おカネに依存しないで生きていけないだろうか、と実験してきた。例えば、空き家に暮らして、家賃をゼロ円にしたり、アート作品と物々交換をしてみたり、制作の材料を廃材に絞って、そのコストを限りなくゼロ円にしてみたり、魚を釣って夕飯にしたしてきた。こうやって個人が自分の体験や考えを共有できるこのメディアも、文字と粘土板の発明の最新型とも言える。つまり、過去の歴史から様々な技をサンプリング(引用)して、この時代に適応した生き方を模索してきた。この方向性にも、まだまだ可能性を感じている。

けれども、おカネというこの社会に流通する価値を獲得するゲームに参加する責任も同時に考えるようになってきた。人は、働いておカネを手に入れ、それでモノを買って生きている。もちろん、例外なユニークな生き方もたくさんあるけれども、そういう生き方を提唱するよりも、一般的な最大公倍数に通用するライフスタイルのつくり方に興味が湧いている。

「好き」という感情は、ダイレクトに伝わる。「好意」は、人を動かす。フジロックで遊んだ友達は、お酒が大好きで、ずっとその話をしている。仕事中で飲めなければ、仕事が終わる瞬間を心待ちにして、懸命に働いている。仕事を終えた、その友達のところには、お酒が集まってくる。BARをやったぼくも、その彼にはサービスをしてしまう。なぜなら、お酒を飲むことが、彼を幸せにするから。「好き」を欲するのは「幸せ」への近道だ。「好き」の感情を躊躇うことなく解放してやればいい。

f:id:norioishiwata:20170801115140j:plain人は「モノ」や「想い」は比較的、ギフトしてくれる。それはそれで有難い贈り物だ。例えば、先週末に開催したバーベキューイベントには、たくさんの食材が提供された。けれども「おカネ」になると、それはそう簡単にいかない。大切なのことは、獲得したおカネをどう使うか。社会のなかを血液のように循環している貨幣をどの方向へ流すのか、理想の社会をつくるためのハブになるような「おカネ」の流し方を身に付けてみたい。

つまり、自分自身がひとつの企業であり、国家だとするならば、何にその予算を投入するのか。ひとり政治ごっこだ。自分の生活圏、ネットワークのなかに貨幣を流通させる「おカネ」の使い方。今年の夏は、これで遊んでみたい。洋服は必ず、お気に入りのお店で買う、もしくは友人のブランドで買う。CDは、できるだけマイナーアーティストのを買ったり、アート作品を買ってアーティストを応援することや、スーパーではなく八百屋で野菜を買ったり、野菜をタダで貰うなら、その価値を別のところへ投資してみたり、付き合いのある料理店で宴会をしたり、お気に入りの土地へ旅をして飲み食い宿泊しておカネを落とす、など。貨幣の行き先は、いろいろ選択できる。

見渡してみれば、生活のエトセトラを商う知り合いはたくさんいる。すべての人が商人で、持っている貨幣価値をどこに流すのか。ぼくたちは、「たったそれだけのこと」や「当たり前のこと」のやり方を変えるだけで、時代を動かすほどのチカラを持っている。それが、ぼくの考える新しい経済活動だ。

芸術の語源はars(技術)。生きるための芸術を求めて日常を冒険するアート

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ぼくは嫁と北茨城市に暮らしている。生活そのものをつくり変えたいと考えて、世界を旅して各地で学んだことを3年かけて日本で実践して、仕事にならない日常を冒険してきた。
家賃を安くするために愛知県の空き家に暮らして、船をつくる技術を身につけるために家を改修した。長野県で2万円の材料でカヌーをつくる方法を習って、三重県の漁師町に暮らし、カヌーで遊び、竹で竿をつくりアジを釣った。家の材料となる木の現在を知るために岐阜県の森のある古民家で冬を越して100年前の日本人の暮らし方に出会った。

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つまり、いまの社会では価値がないとされるモノコトを活用して、生きる方法を探ってきた。そこには自然からつくる生きる技術があった。
友人のススメで、北茨城市が芸術家を募集していることを知り、応募して今年の4月から北茨城市で芸術家として芸術によるまちづくりに取り組んでいる。
いま目的は2つある。自然からつくる生きる技術をアートとして表現すること。それはサバイバルアートと名付けた身の回りにある材料で作品をつくること。もうひとつは、北茨城市という環境のなかにアートを表現すること。
これはLocational Artと名付けた表現方法を実践すること。ぼくは、技法に名前をつけて自分の立ち位置をつくるようにしている。名付けることは、新しい土地や星をみつけるのと同じ発見という発明だ。

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これまでは、おカネを必要としない表現を追求してきた。なぜなら、おカネがなければ、できないという現状を突破してみせたいからだ。世界を見渡せば、豊かとはいえない暮らしを余儀なくされる環境がたくさんある。その環境は歴史がつくってきた。常に持つ者が持たざる者を搾取する構造が世界を支配してきた。それは人類がいくら成長しても変わらない。いくら平等が叫ばれても唄われても、基本構造は変わらないまま。だからこそ、コストのかからない、あらゆる環境で表現できる技法を用いてきた。廃材や価値を失ったモノコト。世界の片隅が輝くことが美しい。その光は生きる希望でもある。

100年前には、日本人の多くは自然に囲まれた環境で、おカネに依存しない暮らしを営んできた。それは厳しい労働を伴う暮らしでもあった。その反動から人々は都市へと流出した。ぼくは東京に生まれ育った。確かに東京には、たくさんのモノや人が動いている。けれども、その環境がよいかと考え見渡せば、地球のバランスから考えれば、とてもよいとは言えない。その感覚は現在、拡がっていて、地方へと新しい暮らしを求めて移住する人が増えている。

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ぼくはこの3年間、アートで生きていくと覚悟して、旅をして、人との出会いのなかで作品を売り、生きていくことができた。そんなに多くのおカネを必要としないライフスタイルになっていった。少ないことは美しい。シンプルになるほど、無駄がなくなる。新製品を買う必要もなくなった。ゴミにもならず、300年も使える新製品があれば、それは素晴らしい発明だと思う。けれど多くの新製品は、短いサイクルで中毒症状を起こすように購買を促すばかり。自分の作品は安くても売れればいいし、食べ物を自給して小さい暮らしを営めればいいとも考えるようになっていた。

けれどもぼくは、この一カ月ほどで考えが変わった。なぜなら、いま北茨城市で芸術家として活動しているから。それは都市でなくとも、豊かな生活を営めることを実証する責任がある。都市と地方に分類するなら、日本の国土のほとんどが地方。そこに人々が暮らせるなら、もっと快適な生活の可能性が拡がる。事実、インターネットがあれば、必要なモノは、ほぼ手に入る。ないのは仕事だ。であれば、仕事もつくれることを実証しよう。そう勝手に、ヤル気が湧いてきた。いつも勘違いや思い込みからモチベーションは沸き起こる。周りに合わせる必要はない。勘違いを暴発させれば、自分が立ち上がる。

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都市に比べて何もないと言われる環境には、価値を失ったモノコトが溢れている。それは名前を失っているモノコト。つまり、ほとんどが自然に還ろうとしている。「何もない」とレッテルを貼られた大地には「自由に使える」素材に溢れている。ぼくには、それらがチャンスにしか見えない。名前を失ったモノコトに名前を与え価値を見出せば、人が動き、経済が生まれる。3人、5人、10人。ひとりでも心を動かせれば、成功だ。ホームランである必要なんてない。

ぼくがいまいる場所で、生きていくことができると実証するために、この場所に経済圏をつくるために、芸術家として起業することにした。無意識のうちにおカネを吸い取るような、嘘や言い訳ばかりの、くだらない商品やサービスやシステムよりも、檻之汰鷲の活動、アート作品の方が、人類の未来に有意義だとハッキリと証明してやろうと思う。檻之汰鷲の作品をまちや自然のなかに刻んでいこうと思うので、応援よろしくお願い致します。

夫婦芸術家
檻之汰鷲(おりのたわし)

http://orinotawashi.com/

「できない」も大丈夫。続ければ別のことが「できる」。

f:id:norioishiwata:20170708183110j:plain板でサーフィンはできないのか。友人から譲り受けた木材があまりにサーフボードみたいだったので、海に行ってやってみた。その木は、海に沈まなかった。できるような気もするけれど、そもそもぼくはサーフィンができない。

Facebookにこの出来事を投稿したら、源頼朝が板で波乗りをしていたという未確認情報が舞い込んできた。なにそれ。面白い。googleで検索してみると、あった。「板こ乗り」という波乗り遊びが日本にあったらしい。

そもそも日本には海水浴の文化はなく、恵みを与えてくれる海は神聖な場所で漁師以外は入らなかったという。それが明治時代になって庶民が海で遊べるようになったらしい。漁師は、和船の底敷きにしていた板を使って、陸にあがり、船を引っ張った。そのときの板が「板こ乗り」のルーツらしい。

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f:id:norioishiwata:20170708183543j:plain考えてみれば、どうして「サーフィン」なのだろうか。皆が同じような板に乗って同じような恰好をして。「板こ乗り」の投稿をみたサーフボードをつくる友人がサーフィンは波に乗れれば何でもアリなんだよ、とテーブルを逆さにして波乗りする衝撃映像を教えてくれた。

ぼくは知らないことが多いし、学ぶことが苦手で、つまり手順を踏んで何かを上達することができない。ギターも弾けないし、ピアノも弾けないし、スケートボードもできない。デッサンもやってないし、油絵もやらない。どれも等しく上達しない。けれども、どの分野も、原初は初心者のような未熟なカタチから誕生している。ぼくでも、そのカタチにリーチすることはできる。

知識や経験が積まれてくると頭で理解してやらなくなってしまう。サーフィンができたら、上達することを目指して板になんか乗らないだろうし「できる」は、失敗と隣り合わせの「できない」を恐れる。でも大丈夫。行動すれば何かが起きる。むしろ、失敗に近い方が予想以上の出来事が待っている。

f:id:norioishiwata:20170708183608j:plain今年は「板こ乗り」で海と遊ぼう。世界中のどんな場所に暮らす人でもつくれるような海と遊ぶ道具を作品にしたいと思った。道具がないからできないのではなく、その道具からつくってしまえばいい。去年はカヌーをつくったので、今年はサップをつくりたい。「できない」も継続すると能力のひとつになるから、人生何が起きるか分からない。諦めるなんて死ぬまで必要ないね。

夫婦芸術家
檻之汰鷲(おりのたわし)
http://orinotawashi.com/

ぼくたちの失敗。絵を売ること。

f:id:norioishiwata:20170706155732j:plainオークションイベントに東京半蔵門で参加した。80x80cmとA3サイズの2点を1週間展示して、欲しい人が値段をつけることができる。ぼくたち夫婦はゼロ円スタートにした。そうすれば、欲しい人が手を出せると考えた。

イベントの最終日に2日間に渡ってオークションは開催された。ぼくたち檻之汰鷲は、初日のトップバッターだった。オークションイベント自体が初めての試みで、すべてがチャレンジだった。残念なことに、ぼくたちの作品が競売されるとき、お客さんがほとんどいなかった。そんな中で始まったオークション。
オークションの司会者が
「この作品を欲しい方!」と声をあげると「7500円!」競う相手もいないので、そのまま落札された。もうひとつは、facebook経由で一万円の値段をつけてくれた人がいたので一万円スタートとなった。
「この作品を欲しい方!」と声をあげると「15000円!」
そのまま落札された。

作品はいつも5万円で売っていたので、とてもショックだった。けれども、欲しい人が安い値段でぼくらの作品を手に入れることができたのは、ラッキーなこと。複雑な気持ちになった。

f:id:norioishiwata:20170706155825j:plainオークションイベントには15組のアーティストが参加してして、最も高い値段は、ハヤシイサオのペインティング30万円と50万円。
ハヤシイサオはこう説明した。
「ぼくは命掛けで絵を描いています。この線を描けるようになるまで30年以上かかっています。岡本太郎ピカソを越えようとしました。ぼくはその岡本太郎を越えたいんです。そういう画家がいてもいい。やりたいことを全力でやる。そういうエネルギーをこの作品に込めています。みなさんが、やりたい何か、そこに踏み込めることを願っています。」
そんなメッセージだった。残念ながら入札はなかった。けれどもハヤシイサオは、この値段で買うお客さんを持っていて、この日に来れなかった。それだけだった。

ハヤシイサオは「アーティストは人生を賭けて作品をつくっているのだから、それに価値をつけて、その価値に見合う作品をつくらなければいけない。10年前に作品を売ったお客さんは、今でも毎日作品を見て楽しんでいると連絡をくれた。君の作品はゼロがひとつ足りないよ。それでいいの?」と言った。

「ぼくも命掛けでやっているよ。今回はゼロ円でやってみたかったんだ。結果には、満足していないけど。今回このイベントにハマらなかったよ。」と言うとハヤシイサオは
「本人がいいなら、何も言わないけど。俺もこのイベントにはハマらなかったな。」
ゼロ円と50万円の作家が言葉を交わし、なぜだか共感した。

ハヤシイサオは半蔵門のオークションイベントと同時に根津で個展を開催していた。気になったので足を運んだ。路地裏の小さなバーで開催されていた。そこに小さな作品が展示してあった。ハヤシイサオと話して、その生き方、考え方が好きになった。海を愛するペインティングが気持ちよかった。
いくつか気になった作品の値段を聞いてみると、端材に描いたペインティングは買えない値段ではなかった。

チフミが
「これ買う」
と言った。
ハヤシイサオは
「え?ほんとに!?」
と驚いた。

ぼくたちは、作家だけれど、ほかの人の作品を買ったことがなかった。ハヤシイサオは作家に作品を買って貰えるなんて嬉しいと感動を言葉にしてくれた。ぼくたちも何故か、オークションでの失敗が、清算された清々しい気持ちになった。

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絵を売ること。
絵を買うこと。

アートと呼ばれる複雑で理解ができないような現象も、経済活動のそとにある訳でもないし、貨幣という一定の価値基準のなかで、評価されるからこそ、その価値を伝えることができる。10万円の絵には、その理由と価値がある。作家はそれを証明しなければならない。絵との巡り合わせは一期一会の出会いでもあるし、運命や経験、人生の様々な出来事のような、心が動く瞬間でもある。

ゼロ円だったぼくら夫婦の作品は2000円でも落札できたのに7500円の値段をつけてくれたことに、10500円ではなく、15000円入札してくれたことに愛があると気がついた。ありがとう。ありがとう。涙が出た。
村上隆が本に書いているように「芸術家として起業する」ことがアートで生きていくこと。いよいよ次のステージが見えてきた。

ヨーロッパとアフリカを旅した「生きるための芸術」をぼくは今年出版して、その続編「生活芸術」を書いている。一昨日から書くことを再開した。人生の些細な出来事を記録すれば、それは物語になる。すべての人生がたった一度しなかない夢のような軌跡なのだから。


夫婦芸術家
檻之汰鷲(おりのたわし)

http://orinotawashi.com/

オークション価格0円スタートで誰もがアートを手に入れる機会を。

f:id:norioishiwata:20170630085334j:plain久しぶりに都内で作品を販売します。しかも、オークションなので0円スタートにしました。作品は人に見られて成長します。だからぜひギャラリーで実物見てください。作品の価値を決めるのは、観賞者で、観賞者の心が動いたとき、価値が生まれ作品は完成すると思うんです。ぼくたちの作品にそれができるのか試しています。

今回参加しているグループ展「THEJAPART」はユニークな方法でアート作品を買えるシステムをつくりました。電話にてオークションに参加できます。WEBにてそれぞれの作品の金額が随時更新されています。欲しいと思う金額でご参加ください。ぜひオーナーになってください。

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「Mr.walking」
http://thejapart.com/tawashiorino-a3/

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「朝日のあたるYeah!」
http://thejapart.com/tawashiorino/

ぼくたち夫婦の作品は材料を採取するところからスタートします。身の回りにある使われていないモノ。最近は木材、家を解体した古材を使います。築100年の蔵を解体した木材は200年前に植えらた木です。今回の新作2点は、既に200年の時を経てここに存在しています。

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7月1日土曜日には16時から、生きるための芸術をテーマにしたトークもやりますので、今週土曜日は半蔵門anagra に、7月2日は嫁チフミの誕生日なのでよろしく応援に来てください。ね笑