いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

期待しない、振り返らない。快適に生きるための技。

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海と森がある小さな町。新しい展開に期待しながら北茨城を訪れてきた。コンパクトで、東京からも2時間ほどだし、暮らすにはよさそう。もし縁があれば。いろいろ楽しみだ。未来に希望を託すと夢が広がる。もしかしたら、北茨城で空き家をみつけて改修してアトリエを持つことができるかもしれない。畑もやれるかもしれない。

 東京で10年振りの友達に会った。恵比寿で廃材を使ったイベントプロデュースの相談。これもまた夢広がるアイディアが炸裂していた。もしかしたら、最近考えていた廃材で小屋を建てることができるかもしれない。そうやって想いを載せていると次のステップに進むGOサインが待ち遠しい。

この1週間で、ロサンゼルスから来日するロックバンドのイベント企画、友達が新たに立ち上げる会社のロゴ制作、先に書いた北茨城の新生活や恵比寿の廃材プロジェクトなど。どれも楽しそうだけど、もし全部なくなったら、それは残念過ぎる。今までは、 そうやって傷ついたり悲しくなっていた。

けれど、仕事も未来も恋愛も、ダメなときはダメ。自分のチカラが及ばないこともある。

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そんなときは「駅のホームで電車を眺めるだけで乗らないこと」これが座禅のテクニックで、浮かんでは溢れてくる現在過去未来の想いに囚われない技。

 期待しない。
つまり未来に想いを託さない。その代わりに、やれることを「そのとき」全力でやる。

振り返らない。
つまり過去に想いを託さない。
ぼくの場合、北茨城に関してはやるべきことはやったから考えない。忘れながら返事を待つ。廃材のプロジェクトは、こちっから企画を提案すれば進む可能性があるから「いまやれることをやる」。それ以上でも以下でもない。

 期待や希望は、楽しいけど、過剰になれば現実を離れていく。世の中のニュースやインターネットの情報も、ただ見ることができれば、つまりその情報にホームから電車を眺めるように乗らなければ、ずっと自分らしく生きることができる。ほんとうに安倍首相の言動が、君の人生に影響を与えているのか。トランプ大統領の発言は、君の未来にどれだけ重要なのだろうか。遠くの壁を超えられるか不安になって一喜一憂するよりも、自分の壁を超えたほうがいい。誰かがつくった壁を乗り越えるなんてゴールがないマランソンみたいだ。永遠に続く。

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 日本の社会が悪い方向に進んでいたとしても、自分が流されずに、日々を大切に感謝して生きていれば、周りには平和が現れる。それを「一時的自律圏」と呼ぶ。自分自身をコントロールできれば、もっと社会をよくすることができる。
 
「自分が自分を信じなくて誰がお前を信じる?」尊敬する先輩が教えてくれた言葉。

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常識とは壊したほうがいい差別の壁だ。

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ゴキブリ。文字だけでも嫌な感じがする。その理由は、かつて人間がゴキブリに食べられていたからだと、ぼくは思っている。その記憶がDNAレベルで伝達されているのではないかと。
その仮説をある人に話すと
「実はわたしはゴキブリ飼っているんです。家にいるヤツじゃなくて。森にはもっとたくさんの種類が生息しているんです。それがいなくなったら森の生態系は壊れてしまいます。ゴキブリは人間を食べるほどには大きくはなれないです。嫌悪感は、単なる思い込みです。あるときラジオの子供質問コーナーで、ゴキブリはどれくらい汚いですか?という疑問に調査した結果、人間の掌より菌が少なかったんですよ。」

ぼくは何も知らないくせに、偏見の塊だった。なぜ、そんな風に思い込んでいたんだろうか。ゴキブリは汚い。それが「常識」。
 常識は、当たり前過ぎて疑う余地がない。常識に従えば、問題なく安全安心に生きることができる。だけど、世間の言われた通りに「ちゃんと」するほど、世界は狭くなっていく。ぼくは、知っているつもりになるほど、知らなくなっていく。逆に非常識になるほど、トンデモない言説が溢れ、世界は驚異と魅力で広がっていく。

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この日、津島のルミエールセンターで出会ったは砂川さんは、動物や生き物が好きで、東日本大震災をきっかけに、小動物を預かる取り組みを始めたら、どういう訳か爬虫類ばかりが集まってきたらしい。

いろんな動物に触れるうちに詳しくなり、いまではいろんな動物を飼う人の相談役になっている。
 「鳥の体調を知るには足の裏をみるんです。足が擦れていたら、それは長い間、木に止まっていた証拠なので、飛べていないから、どこかが具合悪い。とても当たり前のことなんです。」
 「ぼくは、誰も飼育できない凶暴なトカゲも手懐けました。やり方は噛ませて、どんなに痛くても騒がないことです。痛みも気絶するほど、幽体離脱するほどだと騒ぐ気も起きないですから。そこまで非暴力なら、凶暴なトカゲも仲良くしてくれます。」

 今では、爬虫類をかなりの数飼っているらしい。爬虫類と聞いて、あなたはどう思うだろうか。
ぼくは蛇には触れないかもとイメージする。だけど、それも思い込みの偏見で、ヌルヌルしてそうとか思うけど、確かに思っているだけで、触ったことはない。

 砂川さんは、あるとき飼っているトカゲが調子悪くなり、病院にいくと「トカゲを診察したことがないからわからない」といわれ、砂川さんは「原因は分かっているから、指示通りに手術してくれ」と依頼すると「トカゲの手術なんて、やったことないから」と断られ「俺がやるからやり方を教えてくれ」と自らメスを握って手術をしたらしい。おかげで、トカゲは回復した。そんな砂川さん、いまでは、動物園やら動物病院のアドバイスにのることもあるらしい。

 思い込みと常識が、視野を狭くする。家の改修方法にしても、砂川さんの動物の話にしても、技術の栽培化が進み過ぎた結果。つまり教えられた通りにやれば、資格さえ持っていれば、おカネになる仕事さえしていれば、それでいいのが常識。それは、まったくその通りでどこも悪くない。それでいい。

しかし、どういう訳か、何かの間違いか運命の悪戯か、常識の圏外に踏み出してしまうひとがいる。すぐ戻ることもできるけど、そのフィールドに喜びを感じてしまうひともいる。それは心の底から溢れる対象への愛なんだと思う。そういう人たちを何と呼んだらいいのだろう。

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この世界は、自分が見ているのと同じように、人の数だけあって、それぞれ違うのだから遠くに行かなくても、ちょっと違う角度から日常を覗いてみるだけで旅ができる。旅とは遠くに行くことではなく、新しい眼差しを手に入れることだ。キツネは、ずる賢くないし、蛇だって人間を誘惑したりしないし、オオカミだって悪い動物じゃない。UFOだって飛んでいるかもしれないし、ぼくたちだって、もっともっと幸せに生きる方法があるかもしれない。
 平凡で、単純で、日常的なこと、奇妙で普通じゃないことのあいだに差別をなくせば、日々の暮らしのなかにですら発見と喜びに満ちた大冒険ができる。

 砂川さんに「自由ですね」とコメントしたら「いや自然ですから」と言われた。自由の反対は不自由だから、自由ではまだまだ、不自由なんだと思う。正義が悪でもあるように。

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空き家は問題じゃない

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扉を開けると人が集まっていた。2年前は空き家だった津島のルミエールセンターを半年振りに訪ねた。

空き家とは何か
思うに、家主さんがその家を大切にしていたり、そこに愛があれば、空き家ではない。例え使っていないとしても。

この津島の長屋群は、もっと注目を集める場所になる。
なぜなら、
「ここの改修は終わらないです。ずっとやりますよ。それがライフワークですから。」と家主の水谷さんが言う。
ここは小さなガウディのサグラダファミリアで、シュヴァルの理想宮でもある。人生が注ぎ込まれた建築は、世にも珍しい芸術作品になる。家主の水谷さんは、建築家や専門家がおカネでしか解決できなかった木造住宅の構造補強を誰でもできるようにした。

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プロフェッショナルは、報酬を得て仕事をする。逆に言えば、プロはおカネにならないことはやらない。10万円の仕事より50万円の仕事がしたい。誰もがそう思う。
だけど、ぼくたちは、どうしてもこの津島の長屋を再生したかった。1円にもならなくても。実はおカネにならないモノコトの方が、人生にとって重要だったりする。信頼や友情や友達や恋人や結婚や愛や楽しみや幸せや命。人と人の間には、おカネでは数えられない大切なことがある。それはモノと人でも同じ。

 2年前、家主の水谷さん夫婦とぼくら夫婦で始めた空き家再生は、建物の改修は完成しなくても、その過程に集まる仲間がいて、入居者がいて。この日も新たな入居者が決まった様子。

 現在、構造だけを残して、床や壁を新しくする作業中。入居者は、自由度の高い家づくりを体験できる。これだけ自由に改造できる家も日本中見渡してもなかなかない。

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 家は人生を捧げるようなモノではなく、人生を楽しむための道具。もし、家を買えないとか、競争にウンザリしてるなら、思い切って古い家に暮らすのがいい。人の反対側に向かっていけば、ずっとその道を歩けば、それはそれで価値ある人生が見えてくる。答えなんてないし、常識なんて人の数だけあるのだから。

ぜひ、愛知県津島市宝町13 ルミエールセンターを訪ねてみてください。「たんぽぽ屋」という優しさに溢れたショップもあるので案内してもらってください。

野生の技術を求めて 2017

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元旦の朝、6時に日の出を拝みにいった。長野県諏訪湖の畔り。静かな湖面と空が喩えようのない色をしていた。言葉にならない現象に遭遇すると絵にしたくなる。

 昨年は、念願だった古い家を転々として、愛知県津島市三重県志摩市の安乗、神奈川県湯河原市の福浦に暮らしながら旅をして、岐阜県中津川市の古民家に、いま暮らしている。空き家から始まった活動は「自然と人間」というテーマに広がってきた。

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ぼくは「働かなければならない」ということが10代のころから理解できなくて、長く悩んできた。だから、子供もいないので、嫁に協力してもらって、生き方の実験をすることにした。何をしておカネを手に入れ、どんな家に住んで、どんな場所に暮らすのか。つまり、生活そのものをつくることにした。

 古い家でも自分さえよければ、都市から離れるほどに家賃はとても安くなる。そんな地域には仕事がないというが、自分が生きていくだけの仕事なら、つくったり、みつけることもできる。例えば10代や20代、もちろん生涯に渡り、好きなことに没頭したいなら、こういう手段もある。

 他人が必要としないモノコトで足りれば、そんなに働く必要もなく、千利休の言葉のように「家は雨が漏らなく食事は飢えないほど」で充分生きていける。「働かなければならない」をやらずに3年間やってきた漂泊生活は、野生の人間という視点を与えてくれた。

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 歴史を遡れば、人間は自給自足できたが、いつも管理者たちに苦しめられてきた。米は収穫者の生活を満たさなかった。人間は人間を管理するために狩猟採集から定住型へと変更させた。安全安心な管理された環境で、生活のすべてをサービスと商品として提供され、それを手に入れるために「働かなければならない」という常識に囚われているのではないだろうか。

ぼくは、定住しないことで、商品とサービスの範囲外に生きる方法を追求することになった。

人間が本来持つ能力を発揮できるのは、身ひとつで自然と対峙したときで、それはスポーツやアウトドア、かつての不便な生活のなかに埋もれてしまっている。ところが、その能力は、なかなか習得するのに時間がかかる。だから、おカネを出して手に入れることもある。でも、本来の能力を発揮しようとするなら、そこで要求されるおカネは、そんなに多くないから、生きるための労働は「しなければならない」ではなく「やりたくてしょうがない」という自発的な喜びに満ちたものにすることができる。 なぜなら、自分が生きるだけならば、人間はそんなにたくさん働く必要はないからだ。

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こうした経済圏と自然界の境界線でフィールドワークを続けるために、ぼくはアート作品を嫁とつくって売ったり、知人の仕事を手伝ったり、家の改修などで、対価を得て生活の糧にしている。つまりは、人が興味を持ってくれるから、2013年から生き延びることができた。途切れることなく、仕事と貨幣が循環して、僅かな理解者に助けられ生きている。ある意味で、これも自然なことかもしれない。ほんとうに不思議な現象だと思う。

 経済圏の外には、なかなか面倒で厳しいところもあるけれども、うまく付き合えば、恵みを与えてくれる自然があるので、その魅力や活かし方を紹介していきたい。
 小さな生活を抱えて、2017年も嫁が理解してくれる限り、旅を続けようと思っているので、本年もよろしくお願い致します。

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貧しいは幸せなのか?

正直なところ、ぼくは貧しいと思うことがある。欲しいモノはいつも買えないし、贅沢な暮らしができる訳でもないし。なぜなら、アート作品をつくって売るのが唯一の収入だから仕方ない。そんなにたくさん高額で売れる訳でもないから、どうしたって質素な生活になってしまう。

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だけど、不思議なことに、このシンプル極まりない毎日がとても楽しい。朝起きて寝るときまで創作のことだけを考えて過ごしている。アリとキリギリスの話しだったら、ぼくはどっちなのだろうか。好きなことしかしないぼくはキリギリスなのか。

何をしているかと言えば、朝から晩まで春の展示に向けて動物をつくっている。アートとは、色とカタチの組み合わせで鑑賞者の心を捉えて離さない「モノ」をつくる競技だと思っている。その「モノ」がどのようにつくられたかも含めて魅力的であるべきだ。

だから材料についても欲が出る。どこからきて、やがてどうなっていくのか。展示を終えたり、所有者が飽きてゴミになるようでは、目指すところのアートではない。

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つまりすべてが自然からつくられれば、とても美しいと思う。森を整備するのに家主さんが切った木を燃やすので、野焼きをやってみることにした。火と土と水でつくられる陶芸は、すべてが自然の要素で構成される。野焼きは、縄文土器のつくり方で、アフリカではその方法でいまでも陶器をつくっているらしい。

日本の陶芸はかなり技術的に進歩していてそのやり方に従うなら素人には手が出せない。日本は技術先進国だから何だってやり方が細かくて複雑だ。だけど、歴史をずっと遡れば、原初の技術がある。それは自然さえあればいつでも何処でも実践できる「野生の技術」だ。

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おカネがなく、モノを買えないから、おかげで工夫をするようになる。日本人も50年前は、自然から便利を生み出して暮らしていたが、みんなが豊かになることを目指して高度成長を遂げた。おかげでぼくらは、不自由なくモノを食事を与えられて育った。

ところが、ここにきて時代が変わりつつある。モノがいらなくなってしまった。所有することは豊かさではなくなってしまった。たくさん働いてたくさん消費できる生活は、成功ではなくなってしまった。

ぼくは2つの時代を生きているのかもしれない。誰よりもたくさん知識やモノを蓄え、ほかのひとよりモノコトを持っているという価値の時代。できるだけ所有せずに身軽にシンプルに生きることに価値がある時代。

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だから、ぼくはやっぱりいろいろモノが欲しくなってしまう。背反する2つの時代の志向性が、いつも衝突する。欲しい、なぜ欲しいのか、いらない。いや欲しい。

 消費欲はずっとあって、本はいつも欲しい。20代30代は、本を集めていた。読まない本、眺めるだけの本、買って満足の本、たくさんあった。いまは、コレクションを増やす前に、図書館にいく。本棚の間を歩いていると、興味ある本が手元に集まってくる。実は、こうやって集まってくる本は、そのときの自分の興味を映し出してくれる。

 「最古の文字なのか?」
 ー氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く
 ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー著

 「土器づくりの民族誌
 金子守恵著

 「魂をゆさぶる歌に出会う」
 ーアメリカ黒人文化のルーツへ
 ウェルズ恵子著

 民族音楽紀行
エスキスモーの唄
 小泉文夫

 「芹沢銈介全集」 2巻 16巻

という具合に。
 図書館に行き、本を選ぶと消費欲がかなり減る。たくさんあるモノのなかから興味あるものをみつけるという行為と消費が結びついていると思う。

 必要のないモノまで相手にしていては、ほんとうにやりたいこと、やるべきことに費やす時間がなくなってしまう。残念ながら、1日はどうやっても24時間しかない。その限られた時間をどう愛と感謝に満ちて過ごすことができるのか。宮本武蔵は「無駄なことをしない」と五輪書に記している。

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 結局のところ、夫婦でアート作品をつくって生きるという、ライフスタイルに挑戦しながら、思うのは嫁のスゴイところだ。
チフミは「わたしは貧しいなんて思ったことはないよ。ご飯も食べれるし、好きなところへ行けるし。」と言ってくれる。
 楽しいときや調子いいときは、たくさん人に恵まれるが、調子悪いときやドン底にいるとき、一緒にいてくれる人はなかなかいない。
ぼくは嫁が理解してくれ一緒に活動してくれるから、こんな生活ができる。たったひとりでも全力で理解してくれる人がいれば、この世界に無謀な挑戦もできる。誰かと比較すれば貧しくても、ぼくら夫婦が生きていくには、これはこれで豊かだったりする。

自分を殺してまで働いておカネを増やしても、幸せはやってこない。自分が幸せになろうとするのではなく、誰かを幸せにできたときに、やっと見える風景なのかもしれない。

裏山に発見した原初のカタチ

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いま住んでいる古民家の裏には森がある。この辺りは岩の採掘場があるので、もしかしたら、裏山にボルダリングをやれる岩があるかもしれないと期待して探検に出かけた。
裏山の山道を歩くと、それが道なのか水の流れた跡なのか、分からなくなる。人の痕跡をみつけて、きっと山道なんだと思う。何百年も、こうして人が歩いた道なんだろう。途中、イノシシの遊んだ跡もみつけた。

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この裏山にも名前があって、頂上があるかもしれない。15分くらい登ったら、明るくなっている場所をみつけた。そこは車が通る道が山を横切っていた。先を見上げると、岩があった。目当てのボルダーだった。近づいて観察するとコースをつくれそうだった。岩がいくつも転がっているから、3コースはつくれそうだった。

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もっと岩があるようにも、木々の隙間から見えたけど、これ以上進むと、戻れなくなるので引き返した。
ボルダリングというスポーツは、どうやって登るのかルートを考え、身体を駆使してゴールを目指す。これは人生にも応用できるテクニックだ。室内のジムでは予めつくられたコースを登り、外の岩でも誰かがつくったルートをガイド本を参考にして登ったりするが、岩を自然の中でみつけ、ルートを考案して登るのがもっとも創造的なプレイだと常々思っていた。実際、有名なコースがある岩も誰かが創案したものだし、始まりは、そういう遊びだったはずだ。万事、原初のカタチをみつければ、自然から成り立っていることが多く、ほとんどお金が必要ない。

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今回の裏山にボルダーを発見してテンションがあがった。このときのために、先月末、ボルダリングジムのマット交換の仕事で余ったマットを貰っておいた。チフミが、そのウレタンマットにカバーをつけてくれた。

家に帰って、ネットで地図を調べたら、この裏山には名前があった。なんと「岩山」だった。これは面白い遊び場をみつけた。有名でも観光スポットでもない場所だからこそ、磨けば宝物になる。

日常を旅する技術

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毎日はあまりに単純だから、ただありのままに言葉を記そう。今住んでいる中津川市高山のことをあまりに知らない。そう気がついたので、今朝は走ることにした。
 新しい土地に行って、その環境を知るには走るのがいい。日常という生活のなかにある景色に接触できる。それは、単純過ぎて、つい見逃してしまう貴重な場面だが、輝きを発見できれば、そこに幸せな今日が生まれる。

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 古民家から1kmほどで観音像に出会った。その奥には、お稲荷さんがあって、その参道の鳥居が崩壊していた。ひとは、自然から離れると共に、カミを敬うことも忘れてしまったのだろうか。それとも、それほど過疎が進んでいるのだろうか。カミとは、己の心を映す鏡だと思う。信仰とは己を信じることでもある。

さらに先へ走ると、石の採掘跡地を見つけた。その岩肌に触れてみたかったが、不法進入になっては、近所迷惑なので写真を撮るだけにした。人間がつくった痕。スクラッチ。傷。グラフィティー。

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 知らない土地に暮らすことは、知らない惑星に不時着するほどに魅力的だ。常に新鮮な眼差しが手に入る。まるでSF映画のように、ずっと向こうまで、果てしない未知の世界が広がっている。
 住み慣れた町だって、いつもと違う道を通れば、知らない景色に出会うことができる。そうだ、知らない景色が見たくて作品をつくっている。

 雨が降ってきそうだったので、4kmぐらいで引き返して家に帰った。それから、ウサギづくりに没頭した。
バルセロナで、アイルランドから来たトム・キャンベルに習った技術、パピエマシェで動物をつくっている。

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動物は、それぞれのカタチをしている。動物は骨格からつくらないと、そのキャラクターがつかめない。オオカミと犬、クジラとサメや、つくってみると実際どこが違うのか分からなくなる。だから、木で骨からつくって、紙で肉付けする。

 動物のカタチに触れると人間も含めて、生命の豊かさに驚愕する。森も同じで、歩けば、生命に溢れている。人間は、この自然を忘れて、自らがつくり出したシステムに隷属する。そのシステムから距離を置いて、生活をつくってみれば、経済的にはギリギリだが、それでも独立独歩なライフスタイルがここに誕生した。嫁と作品をつくって売って暮らすというサイクルのなかに、生きている喜びがある。このほんの小さな生活を幸せと呼ぶ。

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 昨日の今日は、明日だった今日に変わった。今朝は、森の整理をしながら、木を切って薪をつくった。午前中に焚き火をして思いついた。こんなにたくさん木があって燃やせるのだから、陶器をつくろうと。
パピエマシェの技法を転用して、陶芸をやろうと考え、それをある自治体に企画として提出するつもりだったが、やってしまった方が早い。誰かに期待して足踏みすることを「他力本願寺」と呼んでいる。願うばかりで何もしなければ、神頼みと同じ。願い頼るほどの想いがあるなら自分でやれ。

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モロッコで教わったパンを焼く窯を日本で再現して鳥をつくったことがある。それが初めての焼き物作品だった。とても原始的な方法だけど、水と土と火でカタチをつくることができる。
 「こうしなければできない」というセオリーがある一方、その反対には、セオリーが成立する以前の原初の方法がある。それはいつも自然からの恵みを最大限に利用した生きるための技術だ。
 何かがないから、できないことはなくて、歴史のあらゆる時代から、いろんな技法をサンプリングして、サバイバルできる。

 気がつけば、空き家を巡る冒険を始めた2年前の目標地点よりもずっと先へ進んでいる。空き家に暮らして、春の展示に向けて制作に没頭している。その先は、もっと未知の世界だ。おカネがなければ、使わないで生きる方法をみつければいいし、やりたいことがあれば、どうやればできるのか、考え抜いて、継続すればいい。必ず方法はある。諦めさえしなければ。

 未だ見たことのない景色に出会うために、どんどん、つくろう。これからがほんとうの芸術だ。

 周囲を気にして、今の目の前の雑音に反応して道を変えることはない。周りに誰も見えなくて、不安なぐらいが程よい。なぜなら、いまは山を登っているのだから。頂を目指しているのだから。旅しているのだから。