いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

裏山に発見した原初のカタチ

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いま住んでいる古民家の裏には森がある。この辺りは岩の採掘場があるので、もしかしたら、裏山にボルダリングをやれる岩があるかもしれないと期待して探検に出かけた。
裏山の山道を歩くと、それが道なのか水の流れた跡なのか、分からなくなる。人の痕跡をみつけて、きっと山道なんだと思う。何百年も、こうして人が歩いた道なんだろう。途中、イノシシの遊んだ跡もみつけた。

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この裏山にも名前があって、頂上があるかもしれない。15分くらい登ったら、明るくなっている場所をみつけた。そこは車が通る道が山を横切っていた。先を見上げると、岩があった。目当てのボルダーだった。近づいて観察するとコースをつくれそうだった。岩がいくつも転がっているから、3コースはつくれそうだった。

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もっと岩があるようにも、木々の隙間から見えたけど、これ以上進むと、戻れなくなるので引き返した。
ボルダリングというスポーツは、どうやって登るのかルートを考え、身体を駆使してゴールを目指す。これは人生にも応用できるテクニックだ。室内のジムでは予めつくられたコースを登り、外の岩でも誰かがつくったルートをガイド本を参考にして登ったりするが、岩を自然の中でみつけ、ルートを考案して登るのがもっとも創造的なプレイだと常々思っていた。実際、有名なコースがある岩も誰かが創案したものだし、始まりは、そういう遊びだったはずだ。万事、原初のカタチをみつければ、自然から成り立っていることが多く、ほとんどお金が必要ない。

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今回の裏山にボルダーを発見してテンションがあがった。このときのために、先月末、ボルダリングジムのマット交換の仕事で余ったマットを貰っておいた。チフミが、そのウレタンマットにカバーをつけてくれた。

家に帰って、ネットで地図を調べたら、この裏山には名前があった。なんと「岩山」だった。これは面白い遊び場をみつけた。有名でも観光スポットでもない場所だからこそ、磨けば宝物になる。

日常を旅する技術

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毎日はあまりに単純だから、ただありのままに言葉を記そう。今住んでいる中津川市高山のことをあまりに知らない。そう気がついたので、今朝は走ることにした。
 新しい土地に行って、その環境を知るには走るのがいい。日常という生活のなかにある景色に接触できる。それは、単純過ぎて、つい見逃してしまう貴重な場面だが、輝きを発見できれば、そこに幸せな今日が生まれる。

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 古民家から1kmほどで観音像に出会った。その奥には、お稲荷さんがあって、その参道の鳥居が崩壊していた。ひとは、自然から離れると共に、カミを敬うことも忘れてしまったのだろうか。それとも、それほど過疎が進んでいるのだろうか。カミとは、己の心を映す鏡だと思う。信仰とは己を信じることでもある。

さらに先へ走ると、石の採掘跡地を見つけた。その岩肌に触れてみたかったが、不法進入になっては、近所迷惑なので写真を撮るだけにした。人間がつくった痕。スクラッチ。傷。グラフィティー。

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 知らない土地に暮らすことは、知らない惑星に不時着するほどに魅力的だ。常に新鮮な眼差しが手に入る。まるでSF映画のように、ずっと向こうまで、果てしない未知の世界が広がっている。
 住み慣れた町だって、いつもと違う道を通れば、知らない景色に出会うことができる。そうだ、知らない景色が見たくて作品をつくっている。

 雨が降ってきそうだったので、4kmぐらいで引き返して家に帰った。それから、ウサギづくりに没頭した。
バルセロナで、アイルランドから来たトム・キャンベルに習った技術、パピエマシェで動物をつくっている。

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動物は、それぞれのカタチをしている。動物は骨格からつくらないと、そのキャラクターがつかめない。オオカミと犬、クジラとサメや、つくってみると実際どこが違うのか分からなくなる。だから、木で骨からつくって、紙で肉付けする。

 動物のカタチに触れると人間も含めて、生命の豊かさに驚愕する。森も同じで、歩けば、生命に溢れている。人間は、この自然を忘れて、自らがつくり出したシステムに隷属する。そのシステムから距離を置いて、生活をつくってみれば、経済的にはギリギリだが、それでも独立独歩なライフスタイルがここに誕生した。嫁と作品をつくって売って暮らすというサイクルのなかに、生きている喜びがある。このほんの小さな生活を幸せと呼ぶ。

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 昨日の今日は、明日だった今日に変わった。今朝は、森の整理をしながら、木を切って薪をつくった。午前中に焚き火をして思いついた。こんなにたくさん木があって燃やせるのだから、陶器をつくろうと。
パピエマシェの技法を転用して、陶芸をやろうと考え、それをある自治体に企画として提出するつもりだったが、やってしまった方が早い。誰かに期待して足踏みすることを「他力本願寺」と呼んでいる。願うばかりで何もしなければ、神頼みと同じ。願い頼るほどの想いがあるなら自分でやれ。

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モロッコで教わったパンを焼く窯を日本で再現して鳥をつくったことがある。それが初めての焼き物作品だった。とても原始的な方法だけど、水と土と火でカタチをつくることができる。
 「こうしなければできない」というセオリーがある一方、その反対には、セオリーが成立する以前の原初の方法がある。それはいつも自然からの恵みを最大限に利用した生きるための技術だ。
 何かがないから、できないことはなくて、歴史のあらゆる時代から、いろんな技法をサンプリングして、サバイバルできる。

 気がつけば、空き家を巡る冒険を始めた2年前の目標地点よりもずっと先へ進んでいる。空き家に暮らして、春の展示に向けて制作に没頭している。その先は、もっと未知の世界だ。おカネがなければ、使わないで生きる方法をみつければいいし、やりたいことがあれば、どうやればできるのか、考え抜いて、継続すればいい。必ず方法はある。諦めさえしなければ。

 未だ見たことのない景色に出会うために、どんどん、つくろう。これからがほんとうの芸術だ。

 周囲を気にして、今の目の前の雑音に反応して道を変えることはない。周りに誰も見えなくて、不安なぐらいが程よい。なぜなら、いまは山を登っているのだから。頂を目指しているのだから。旅しているのだから。

生きるための活動=理想の生活

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夜10時。1日の仕事を終えて、これを書いている。
 約一週間、東京に出稼ぎに行ってきた。ある閉店するボルダリングジムのマットを別のジムに運び、そのジムのマットと入れ替えるという難易度の高い仕事だった。深夜12時に始めて終わったのは昼の12時。気合いが入った。それは登山のようだった。
ボルダリングの仕事の他に、春の展示に向けて、シカとオランウータンをつくった。つくりながら、正直な話、動物なんてつくって、売れるのか不安だった。それでも、つくるしかない。それを仕事にすると決意して3年が過ぎた。

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 嬉しいことに、11月に湯河原で展示していたニホンオオカミが4点も売れた。東京ではペンギンと海の絵を2点売った。これで生き延びることができる。嫁と2人で作品をつくり、それを売って生きる。これほどシンプルな暮らしはない。これは、かつてのライフスタイルにヒントを得ている。例えば、山奥に暮らし、籠や日常の道具をつくって街へ出て売るような。

 朝から中津川の古民家の改修のアイディアを家主さんに提案した。材料的にも予算的にも、内容的にもシンプルなミニマルプラン。基本的に家は、住めればそれでいい。あとは、ファッションだと思う。つまりお洒落。それはそれで楽しめばいい。そもそも、戦前の住宅は大工による手仕事で、国産材を使い、とてもしっかりしている。古い家は道具だ。使いこなすことができなければ意味がない。

 午後は、つくり途中の作品に宇宙を描こうとしたが、どうにもカタチにならなかった。宇宙をつくりながら、車の移動中の景色に着想した作品をつくった。夜の10時まで作業したが、宇宙はつくれなかった。明日、また作業スペースを広げて、再挑戦することにした。 

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 食事はチフミがありあわせの材料でつくってくれる。薪で風呂を沸かした火を七輪に移して、調理する。少しずつ、消費と生産のバランスが、生き延びるための生活スタイルへと変化していく。何を買って、何を買わずに済ませるのか。そのために何をつくるのか。生き方自体を創意工夫して、生活をつくる。

そんな風にして1日を過ごせることに感謝して、明日こそは、宇宙をモノにしたい。

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人生をつくれたら、それでいいのだ。

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岐阜から東京に仕事をしにきた。池袋から渋谷までの地下鉄のなかで、リピートする広告映像に違和感があって、電車のなかにいるみんなが、どうかしている、とさえ思えてしまった。

どうかしているのは、ぼくの方だ。都市vs自然という安易な構図で考えてしまっている。都市は、たくさんの労働を生産する機関で、そのおかげでたくさんの生活が潤っている。都市に循環する消費と経済が血液のように巡って人間の生活を支えている。

ぼくは、都市の細胞の一部だったのに、そこから剥がれ落ちてしまった。2011年の東日本大震災をきっかけに生き方を変える決意をして、2013年からヨーロッパとアフリカを旅して、世界の人々の暮らしを知って、日本でも、納得のいくライフスタイルをつくるために、2014年から空き家を求めて、愛知県津島市で出会って長屋を改修して、それをきっかに空き家を転々として、これまでに三重県志摩市、神奈川県湯河原町岐阜県中津川市に暮らしてきた。
 空き家問題は、家にではなく、自然と共存できなくなった人間の側に原因があることが浮き彫りになってきた。つまり、古い家は、自然に近く、それは不便で面倒な存在になってしまった。

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だから、ぼくは、もっと自然と共にある人間の生活を調査するために岐阜県中津川市の古民家にやってきた。この家で冬を越そうと考えている。
 冬は、寒くて嫌な季節だと思っていた。だから、暖かくする。あらゆる手段で。でも、どんなに逃げても冬はやってくる。しかし、冬があるから春の喜びがある。桜が美しく感じる。真っ白な冬景色もきっと美しい。寒く厳しいから、余計にその白さが映えるんだと思う。

そんな冬をかつての人々が、どうやって越したのか、その知恵を採取したい。これがアートだとか、仕事だとか、おカネになるとか、関係なくて、そこにある生きるための知恵を身に付けたい。おまけに、冬を大好きになれば、1年中楽しめる。

 冬の暮らしに何があるのか。暖を取るための火。燃料の薪をつくらなければならないから薪割りの仕事ある。もっと重要なのは食料。どのように手に入れ、どのように保存していたのか。どんな食べ物だったのか。

 日本にある空き家の数が、日本人のライフスタイルの変わり様を映し出している。自然から得ていた命を長らえるための生存活動を、商品を消費して済ませるようになったから、生活の意味も質も変わってしまった。 

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 都市と自然。山に暮らしても、生活は都市の側に依存している。先日、夜に山の中で寝ようと試みただけで、恐ろしく不安だった。家から離れて、森の向こう側に広がる自然が果てしなく巨大だった。だから、山の中にいても都市に活かされている、と気づかされた。

 右か左か、という単純な話ではなく、都市と自然を循環させる「パイプ」が必要だと。その物語を書いている。

 東京のマンションで、誰の迷惑にもならず、薪で火を熾して過ごせたら、どれけ豊かだろうか。
 働いて収入を得る一方で、ほとんど消費することなく、自然の恩恵で生活できたら、おカネが毎月増えて、どれだけ愉快だろうか。

ライフスタイルをつくる。これほどクリエイティブなことはない。人生に反映されるのだから。人生をつくり操ることができれば、それは最高に幸せだろう。

怠け者が寝ている間に深く耕せ

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毎日、何かを考えてベストを尽くしているような気持ちでいても、少しずつ自分を許しているようで、つまり甘くなっているようで、やるべきことをしていない。残念ながら、とても発展途上な人間だ。しかし、そういう想いに至ると、やる気が出てくるから、さらに始末が悪い。

ぼくの場合、目指す先があるのに、それに向かって仕事をしていない。その自覚には、サイクルのような流れがあって、あるタイミングで、もっとやれると気づかされる。たぶん、いまは、流れと流れの狭間にいるのかもしれない。

ぼくが今、生きるために持っている技術は「作品をつくること」「文章を書くこと」の2つ。

 作品をつくっているが何のためだろうか、と自分を疑うときがある。まず初めに「つくりたい衝動」があるのは確か。それを抑えるより、解放する方が、自分にとっては健康な状態。その行為に何の意味があるのかは、完成した作品が語る。作品が語るまでには、自分が驚くような仕上がりにまで達しなければならない。そのゴールは毎回更新されて、遠くなっていく。それを成長とも言えるし、無謀とも言える。そもそも、芸術に関するまともな教育も受けていない夫婦がアートをやっているのである。まるっきりのアウトサイダー・アートだ。

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ここ数日は、鹿を2頭つくっている。春の個展に向けて。鹿の骨格や生態を調べて、鹿を知る。山に暮らして、自然を身近に感じるほどに、人間がよくわからなくなる。自然がなければ、生きていけないのに、それを壊し、離れていこうとする。かと言って、都市生活を批判する気にもならない。もう、人間は野生に戻ることなんて、到底できない。ときに野生的な超人がいたりもするが。

ほんとうに何のためにつくっているのだろうか。嫁と二人で作品をつくっているので、お互いが納得しなければ、作品は完成しないから、とにかく、その質だけはスタート地点が低いにしても、高まっていることは確かだ。動物をつくりながら思うのは、なんでこんなカタチをしているんだろう、とか、この作品が何の役に立つのだろうか、と結局、よく分からないまま手を動かしている。

しかし、それでは何のために作品をつくるのかの答えになっていない。製作に時間を費やすごとに、社会との接点は減り、いままでの仕事のクライアントはいなくなる。人との接点は少なくなる。そうまでしてつくることをやめないのは、なぜなのか。それについて考え、メモしておくのは無駄ではない。

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シンプルな答は「幸せ」がそこにあるからだ。嫁と二人で、作品づくりに時間を費やすことは、楽しい。その成果を共有できるし、生涯それだけしていたい。遊びであり、仕事であり、人生そのものだ。また、この技術を追求すれば、世界に通用する可能性がある。アートを通じて世界中とコミュニケーションできるかもしれない。そんな夢を追いかけている。

 空き家を旅する生きるための芸術から、次のターンにステップアップしようとしている。積み上げきた足場を外して、また別の場所に組み上げる、ゼロからやり直す作業だ。
ひとつのことを追求すると同時にいろんな興味に触れて接して、実践して技術として身につけていく。できなくてもどかしいことばかりだ。

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 2014年からスタートした空き家を巡る冒険は、中津川市で冬を越える体験で、一区切りにして、本にまとめる。出版しようという編集者が現れた。これで3人目だ。これまでは実現に至っていない。本は完成しても、世の中に流通しない。それは売れる見込みがないからだろうか。空き家に関する本も、あちこちで書いてきた原稿をまとめているが、どうなるか分からない。まずは、書いてみる。そこに現れた流れから物語を組み立てる。
このブログのおかげで過去2年を振り返ることができる。こうして文章を書くことは決して無駄ではなく、考えをカタチにする実践にもなっている。1万時間費やせば、何でもプロになれるという説があるように、やったらやった分だけ、それについて理解を深めることができ、技術を進歩させることができる。

やれることが減っていく分、やれていることは極まる。

そうだ、なぜつくるのか。その答えを探している。答えが分からないのは、ぼくが人間だからだ。「人間」について、いくら言葉を費やしても、完全に表現することができない。何千年も前から、プラトンよりもっと前の時代から、人間について考えを巡らせてきたが、人間がつくりだすモノやコト、社会や世界の広さをどうやっても捉えることはできない。それでも、人間は、己の存在意義を、人類の役割を掴もうと、その想像力で挑んできた。芸術とは、まさに「人間」を捉える作業のように思う。
ぼくは、その人間を理解するための技術を駆使して、世界中を旅したい。なぜなら、人間を理解するためには、人間を表現するためには、もっともっと、人間を知らなければならない。

そうした人生を送るためにも、作品をつくり続け、人間を伝えるためにも文章を書き続ける。分かった。足りていないのは、海外へ進出するための資料づくりだ。

 ・作品をつくる
・文章を書く
・海外へ企画書を出す

 この3つをやり続けること。
 今日の会議は以上。

道を見失ったら自分に聞いてみる。それが答えだ。

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ぼくは自分がどの辺にいるのか把握できなくなってきた。それは、地理的な位置ではなく、アート活動とライフスタイルの向かう先として。そんなときは自分との対話が足りていない。自分がどうしたいのかは、自分に聞けば、それが答えだ。

ぼくは、生きるために「つくり」、そのカタチを伝えることで、世の中に愉しみを提供したい。これこそがぼくの目指す生活芸術の態度だ。ぼくは今、岐阜県中津川市の古民家に暮らしている。朝から晩まで、作品づくりに集中している。作品はコラージュという技法でつくる。紙を切って貼って見たことないイメージをカタチにする。最近は自然をモチーフにすることが多くなってきた。

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 「自然」には2種類あって、それは人間側の都合でつくられた自然。もうひとつは地球規模の時間軸から見た自然。山の中に足を踏み入れても、そこはまだ人間側の自然の領域を出ない。足の踏み場がある山や森は人間によって管理されている。
 先日、木や枝を使ってデブリハットというシェルターをつくった。冬の前なので寒いとか熊がいるかもとか、いろいろな理由で、深夜に少しだけ横になって過ごしてみた。
そこは闇の世界だった。闇と言っても黒ではなく、紺色の静寂な空間が広がっていた。月明かりも手伝い、夜はとても豊かな空間だった。

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 自然に接近するほどに、今迄やってきたアートが薄っぺらく感じてしまう。それでも何でも、やらなければならない。なぜなら作品をつくることは、息をするのと同じで、意味なんか必要なかったりもする。生存に不可欠な行為なのだから。

 「つくる」行為にはいくつもの種類があり、すべての創造行為が、そこを起点にとび散っていく。

僅かな着想でコラージュ作品をつくることが多くなってきた。「森」「雑草」「女性」「火」、それぐらいのキーワードからスタートして、それぞれまったく違う作品に仕上がったりする。「それでいい。そこは実験の場所だし、コラージュで表現できないものがないほど追求すればいい。」とチフミは言ってくれた。

雑草は見たことのない景色「幻列島」に変わり、女性はデビッドボウイとプリンスの象徴画になり、火は自分では仕上げまで到達できなくて、チフミに壊してもらい完成に至った。

こうやってつくった作品たちを、貨幣と交換する。これは正しい経済活動だ。つくったカタチに社会的な価値が与えられ、ぼくら夫婦は、生き延びることができる。だから、贋金をつくっていると言い換えることもできる。作品づくりを時に「贋金づくり」と呼ぶ所以でもある。

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しかし、それとは別にぼくには伝えたいことがある。まったく別ではないにしろ、おカネと交換できなくてもやらなければならない使命がある。使命とは本人が勝手に思い込んでやるバカな行為のことだ。それが生きるための芸術だ。

ぼくは中津川の山の中で生きているが、多くの人は、そんな場所では生きていけないという。しかし人間は、森がなければ生きていけない事実もある。ぼくは幸いにも、そんな場所で生きていけるナリワイがある、と他人事のように羨ましがられる。ところが逆で、生きていく術がないからナリワイを生み出している。これは重要なポイントで、満たされてしまえば、人間は何もしない。命令でもされない限り。そう、人は、満たしてもらうために、命令され動く。そうやってほどほどに満たされて生きている。それでもいい。しかし、問題はそれでは嫌だという人までが強制的にその列に並ばされてしまう、日本の全体主義の暴力にある。

 一体、幸せになるのにどれだけ働けばいいのか。そもそも会社は誰かを幸せにするために、その機関を働かせているのか。そもそも国家は、国民の幸せのために機能しているのか。そもそもすべてが違う。そもそも経済のために働いている。それはそれでいい。それでは嫌だという人までがそれで満足しろ、と夢や目標までもが消されてしまうことに強烈な違和感を持っている。

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ここまで共感できる、あなた。もう芸術家になるしかない。なんでもいい。100円でも1000円でも貨幣価値を生み出す何かをトライ&エラー繰り返して、失敗は成功するための実験だと喜んで、根気よく続けて、自らの消費と支出の無駄をなくすことができれば、独立独歩の人生を歩むことができる。空き家暮らしは家賃をゼロに近づける技術でもある。経済社会から独立できれば、人生の時間はすべてあなたのものだから、それは豊かで幸せな暮らしになるに違いない。もうとっくにやってる人もいるかも知れない。それはそれで、ぼくは、それを伝えたくて、これを書いている。ほんの僅かな悩める友達のために。

この想いと日々つくるコラージュの間に、女と男という人間の最もベーシックなユニットの間に、自然と共にある昔の暮らしのなかに、普遍的な新しい芸術表現があるような気がしてぼくは嫁と活動をしている。
 実を言えば、その目的は、その行為をしている時点で達成している。毎日、作品づくりのことばかりを考えて嫁と旅をしながら、新しい体験と視点を手に入れて。そうした生活を手に入れるために2014年の春、空き家探しを始めた。
そう、これはこれで本にして出版する予定だ。これもその時に見た夢。つまり、ぼくは2年前の夢のなかにいて、その多くが現実になった今、ぼくはまた新しい夢の世界に逃げ出さなければ、この世界の住人になってしまう。冒険とは常に未だ見たことない世界を求めて旅をすることだから、捕らえられたら、満足したら終わってしまう。

ぼくはあると思う。人間がもっと根源的にその生を発揮できるライフスタイルが。それは国境を越えて、宗教や人種も越えて、人間が人間としてお互いを理解し合えるような、貧しさの向こう側に、経済的な利害を越えて、国家が単なる地方自治体ほどの小さな機関になるような、そんな視点をこの命がある限りに手にしてみたい。

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人間の巣【最もシンプルな家のつくり方】

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 遭難したり、家を失ってしまったらどうやって生き延びればいいのか。どんな動物にも睡眠や休息が必要で、安心して眠るには、巣が必要だ。人間も動物だから究極的には巣があれば生きていける。それが、このDebris hut(デブリハット)。

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木を組み合わせて骨をつくり、枝を絡ませて、その上から落ち葉で覆う。それだけ。作業は2時間ほど。最もシンプルな家のつくり方。