いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

人生をつくれたら、それでいいのだ。

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岐阜から東京に仕事をしにきた。池袋から渋谷までの地下鉄のなかで、リピートする広告映像に違和感があって、電車のなかにいるみんなが、どうかしている、とさえ思えてしまった。

どうかしているのは、ぼくの方だ。都市vs自然という安易な構図で考えてしまっている。都市は、たくさんの労働を生産する機関で、そのおかげでたくさんの生活が潤っている。都市に循環する消費と経済が血液のように巡って人間の生活を支えている。

ぼくは、都市の細胞の一部だったのに、そこから剥がれ落ちてしまった。2011年の東日本大震災をきっかけに生き方を変える決意をして、2013年からヨーロッパとアフリカを旅して、世界の人々の暮らしを知って、日本でも、納得のいくライフスタイルをつくるために、2014年から空き家を求めて、愛知県津島市で出会って長屋を改修して、それをきっかに空き家を転々として、これまでに三重県志摩市、神奈川県湯河原町岐阜県中津川市に暮らしてきた。
 空き家問題は、家にではなく、自然と共存できなくなった人間の側に原因があることが浮き彫りになってきた。つまり、古い家は、自然に近く、それは不便で面倒な存在になってしまった。

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だから、ぼくは、もっと自然と共にある人間の生活を調査するために岐阜県中津川市の古民家にやってきた。この家で冬を越そうと考えている。
 冬は、寒くて嫌な季節だと思っていた。だから、暖かくする。あらゆる手段で。でも、どんなに逃げても冬はやってくる。しかし、冬があるから春の喜びがある。桜が美しく感じる。真っ白な冬景色もきっと美しい。寒く厳しいから、余計にその白さが映えるんだと思う。

そんな冬をかつての人々が、どうやって越したのか、その知恵を採取したい。これがアートだとか、仕事だとか、おカネになるとか、関係なくて、そこにある生きるための知恵を身に付けたい。おまけに、冬を大好きになれば、1年中楽しめる。

 冬の暮らしに何があるのか。暖を取るための火。燃料の薪をつくらなければならないから薪割りの仕事ある。もっと重要なのは食料。どのように手に入れ、どのように保存していたのか。どんな食べ物だったのか。

 日本にある空き家の数が、日本人のライフスタイルの変わり様を映し出している。自然から得ていた命を長らえるための生存活動を、商品を消費して済ませるようになったから、生活の意味も質も変わってしまった。 

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 都市と自然。山に暮らしても、生活は都市の側に依存している。先日、夜に山の中で寝ようと試みただけで、恐ろしく不安だった。家から離れて、森の向こう側に広がる自然が果てしなく巨大だった。だから、山の中にいても都市に活かされている、と気づかされた。

 右か左か、という単純な話ではなく、都市と自然を循環させる「パイプ」が必要だと。その物語を書いている。

 東京のマンションで、誰の迷惑にもならず、薪で火を熾して過ごせたら、どれけ豊かだろうか。
 働いて収入を得る一方で、ほとんど消費することなく、自然の恩恵で生活できたら、おカネが毎月増えて、どれだけ愉快だろうか。

ライフスタイルをつくる。これほどクリエイティブなことはない。人生に反映されるのだから。人生をつくり操ることができれば、それは最高に幸せだろう。

怠け者が寝ている間に深く耕せ

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毎日、何かを考えてベストを尽くしているような気持ちでいても、少しずつ自分を許しているようで、つまり甘くなっているようで、やるべきことをしていない。残念ながら、とても発展途上な人間だ。しかし、そういう想いに至ると、やる気が出てくるから、さらに始末が悪い。

ぼくの場合、目指す先があるのに、それに向かって仕事をしていない。その自覚には、サイクルのような流れがあって、あるタイミングで、もっとやれると気づかされる。たぶん、いまは、流れと流れの狭間にいるのかもしれない。

ぼくが今、生きるために持っている技術は「作品をつくること」「文章を書くこと」の2つ。

 作品をつくっているが何のためだろうか、と自分を疑うときがある。まず初めに「つくりたい衝動」があるのは確か。それを抑えるより、解放する方が、自分にとっては健康な状態。その行為に何の意味があるのかは、完成した作品が語る。作品が語るまでには、自分が驚くような仕上がりにまで達しなければならない。そのゴールは毎回更新されて、遠くなっていく。それを成長とも言えるし、無謀とも言える。そもそも、芸術に関するまともな教育も受けていない夫婦がアートをやっているのである。まるっきりのアウトサイダー・アートだ。

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ここ数日は、鹿を2頭つくっている。春の個展に向けて。鹿の骨格や生態を調べて、鹿を知る。山に暮らして、自然を身近に感じるほどに、人間がよくわからなくなる。自然がなければ、生きていけないのに、それを壊し、離れていこうとする。かと言って、都市生活を批判する気にもならない。もう、人間は野生に戻ることなんて、到底できない。ときに野生的な超人がいたりもするが。

ほんとうに何のためにつくっているのだろうか。嫁と二人で作品をつくっているので、お互いが納得しなければ、作品は完成しないから、とにかく、その質だけはスタート地点が低いにしても、高まっていることは確かだ。動物をつくりながら思うのは、なんでこんなカタチをしているんだろう、とか、この作品が何の役に立つのだろうか、と結局、よく分からないまま手を動かしている。

しかし、それでは何のために作品をつくるのかの答えになっていない。製作に時間を費やすごとに、社会との接点は減り、いままでの仕事のクライアントはいなくなる。人との接点は少なくなる。そうまでしてつくることをやめないのは、なぜなのか。それについて考え、メモしておくのは無駄ではない。

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シンプルな答は「幸せ」がそこにあるからだ。嫁と二人で、作品づくりに時間を費やすことは、楽しい。その成果を共有できるし、生涯それだけしていたい。遊びであり、仕事であり、人生そのものだ。また、この技術を追求すれば、世界に通用する可能性がある。アートを通じて世界中とコミュニケーションできるかもしれない。そんな夢を追いかけている。

 空き家を旅する生きるための芸術から、次のターンにステップアップしようとしている。積み上げきた足場を外して、また別の場所に組み上げる、ゼロからやり直す作業だ。
ひとつのことを追求すると同時にいろんな興味に触れて接して、実践して技術として身につけていく。できなくてもどかしいことばかりだ。

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 2014年からスタートした空き家を巡る冒険は、中津川市で冬を越える体験で、一区切りにして、本にまとめる。出版しようという編集者が現れた。これで3人目だ。これまでは実現に至っていない。本は完成しても、世の中に流通しない。それは売れる見込みがないからだろうか。空き家に関する本も、あちこちで書いてきた原稿をまとめているが、どうなるか分からない。まずは、書いてみる。そこに現れた流れから物語を組み立てる。
このブログのおかげで過去2年を振り返ることができる。こうして文章を書くことは決して無駄ではなく、考えをカタチにする実践にもなっている。1万時間費やせば、何でもプロになれるという説があるように、やったらやった分だけ、それについて理解を深めることができ、技術を進歩させることができる。

やれることが減っていく分、やれていることは極まる。

そうだ、なぜつくるのか。その答えを探している。答えが分からないのは、ぼくが人間だからだ。「人間」について、いくら言葉を費やしても、完全に表現することができない。何千年も前から、プラトンよりもっと前の時代から、人間について考えを巡らせてきたが、人間がつくりだすモノやコト、社会や世界の広さをどうやっても捉えることはできない。それでも、人間は、己の存在意義を、人類の役割を掴もうと、その想像力で挑んできた。芸術とは、まさに「人間」を捉える作業のように思う。
ぼくは、その人間を理解するための技術を駆使して、世界中を旅したい。なぜなら、人間を理解するためには、人間を表現するためには、もっともっと、人間を知らなければならない。

そうした人生を送るためにも、作品をつくり続け、人間を伝えるためにも文章を書き続ける。分かった。足りていないのは、海外へ進出するための資料づくりだ。

 ・作品をつくる
・文章を書く
・海外へ企画書を出す

 この3つをやり続けること。
 今日の会議は以上。

道を見失ったら自分に聞いてみる。それが答えだ。

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ぼくは自分がどの辺にいるのか把握できなくなってきた。それは、地理的な位置ではなく、アート活動とライフスタイルの向かう先として。そんなときは自分との対話が足りていない。自分がどうしたいのかは、自分に聞けば、それが答えだ。

ぼくは、生きるために「つくり」、そのカタチを伝えることで、世の中に愉しみを提供したい。これこそがぼくの目指す生活芸術の態度だ。ぼくは今、岐阜県中津川市の古民家に暮らしている。朝から晩まで、作品づくりに集中している。作品はコラージュという技法でつくる。紙を切って貼って見たことないイメージをカタチにする。最近は自然をモチーフにすることが多くなってきた。

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 「自然」には2種類あって、それは人間側の都合でつくられた自然。もうひとつは地球規模の時間軸から見た自然。山の中に足を踏み入れても、そこはまだ人間側の自然の領域を出ない。足の踏み場がある山や森は人間によって管理されている。
 先日、木や枝を使ってデブリハットというシェルターをつくった。冬の前なので寒いとか熊がいるかもとか、いろいろな理由で、深夜に少しだけ横になって過ごしてみた。
そこは闇の世界だった。闇と言っても黒ではなく、紺色の静寂な空間が広がっていた。月明かりも手伝い、夜はとても豊かな空間だった。

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 自然に接近するほどに、今迄やってきたアートが薄っぺらく感じてしまう。それでも何でも、やらなければならない。なぜなら作品をつくることは、息をするのと同じで、意味なんか必要なかったりもする。生存に不可欠な行為なのだから。

 「つくる」行為にはいくつもの種類があり、すべての創造行為が、そこを起点にとび散っていく。

僅かな着想でコラージュ作品をつくることが多くなってきた。「森」「雑草」「女性」「火」、それぐらいのキーワードからスタートして、それぞれまったく違う作品に仕上がったりする。「それでいい。そこは実験の場所だし、コラージュで表現できないものがないほど追求すればいい。」とチフミは言ってくれた。

雑草は見たことのない景色「幻列島」に変わり、女性はデビッドボウイとプリンスの象徴画になり、火は自分では仕上げまで到達できなくて、チフミに壊してもらい完成に至った。

こうやってつくった作品たちを、貨幣と交換する。これは正しい経済活動だ。つくったカタチに社会的な価値が与えられ、ぼくら夫婦は、生き延びることができる。だから、贋金をつくっていると言い換えることもできる。作品づくりを時に「贋金づくり」と呼ぶ所以でもある。

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しかし、それとは別にぼくには伝えたいことがある。まったく別ではないにしろ、おカネと交換できなくてもやらなければならない使命がある。使命とは本人が勝手に思い込んでやるバカな行為のことだ。それが生きるための芸術だ。

ぼくは中津川の山の中で生きているが、多くの人は、そんな場所では生きていけないという。しかし人間は、森がなければ生きていけない事実もある。ぼくは幸いにも、そんな場所で生きていけるナリワイがある、と他人事のように羨ましがられる。ところが逆で、生きていく術がないからナリワイを生み出している。これは重要なポイントで、満たされてしまえば、人間は何もしない。命令でもされない限り。そう、人は、満たしてもらうために、命令され動く。そうやってほどほどに満たされて生きている。それでもいい。しかし、問題はそれでは嫌だという人までが強制的にその列に並ばされてしまう、日本の全体主義の暴力にある。

 一体、幸せになるのにどれだけ働けばいいのか。そもそも会社は誰かを幸せにするために、その機関を働かせているのか。そもそも国家は、国民の幸せのために機能しているのか。そもそもすべてが違う。そもそも経済のために働いている。それはそれでいい。それでは嫌だという人までがそれで満足しろ、と夢や目標までもが消されてしまうことに強烈な違和感を持っている。

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ここまで共感できる、あなた。もう芸術家になるしかない。なんでもいい。100円でも1000円でも貨幣価値を生み出す何かをトライ&エラー繰り返して、失敗は成功するための実験だと喜んで、根気よく続けて、自らの消費と支出の無駄をなくすことができれば、独立独歩の人生を歩むことができる。空き家暮らしは家賃をゼロに近づける技術でもある。経済社会から独立できれば、人生の時間はすべてあなたのものだから、それは豊かで幸せな暮らしになるに違いない。もうとっくにやってる人もいるかも知れない。それはそれで、ぼくは、それを伝えたくて、これを書いている。ほんの僅かな悩める友達のために。

この想いと日々つくるコラージュの間に、女と男という人間の最もベーシックなユニットの間に、自然と共にある昔の暮らしのなかに、普遍的な新しい芸術表現があるような気がしてぼくは嫁と活動をしている。
 実を言えば、その目的は、その行為をしている時点で達成している。毎日、作品づくりのことばかりを考えて嫁と旅をしながら、新しい体験と視点を手に入れて。そうした生活を手に入れるために2014年の春、空き家探しを始めた。
そう、これはこれで本にして出版する予定だ。これもその時に見た夢。つまり、ぼくは2年前の夢のなかにいて、その多くが現実になった今、ぼくはまた新しい夢の世界に逃げ出さなければ、この世界の住人になってしまう。冒険とは常に未だ見たことない世界を求めて旅をすることだから、捕らえられたら、満足したら終わってしまう。

ぼくはあると思う。人間がもっと根源的にその生を発揮できるライフスタイルが。それは国境を越えて、宗教や人種も越えて、人間が人間としてお互いを理解し合えるような、貧しさの向こう側に、経済的な利害を越えて、国家が単なる地方自治体ほどの小さな機関になるような、そんな視点をこの命がある限りに手にしてみたい。

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人間の巣【最もシンプルな家のつくり方】

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 遭難したり、家を失ってしまったらどうやって生き延びればいいのか。どんな動物にも睡眠や休息が必要で、安心して眠るには、巣が必要だ。人間も動物だから究極的には巣があれば生きていける。それが、このDebris hut(デブリハット)。

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木を組み合わせて骨をつくり、枝を絡ませて、その上から落ち葉で覆う。それだけ。作業は2時間ほど。最もシンプルな家のつくり方。

冬の生活

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次のテーマは「冬」。
自然と対話したい。日本には四季があり、春夏秋冬とそれぞれ違う表情をみせてくれるから、冬を全身で受け止めて暮らしてみる。
冬は寒くて嫌なモノだけれど、自然の循環のなかでは、必要な季節であり、自然界から冬が消えてしまったら、それでは生態系が狂ってしまう。一方で便利が発達して、都市部での快適な暮らしの中から着実に冬が消えようとしている。

冬とは寒いこと。だから火は不可欠なのに、都市生活では火を自由に扱うことができない。毎日、踏みしめる足の下には土もない。極端な言い方をすれば、既に人間の生活は狂っている。

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岐阜県の加子母で知り合った杣(そま=きこり)の熊澤くんは「森を間伐したり手を入れるのは人間側からの必要だけの話しで、自然側からすれば、山崩れも長い目で捉えれば必要な現象なんだよ。」と話してくれた。

ぼくは、自然の側から人間の暮らしを観察してみたい。だから今年の冬は、岐阜県中津川市高山の古民家で過ごすことにした。その古民家で森と共に暮らす。
古い家で生活するのは、不便そのものだけど、不便は自然であり、便利は不自然だから、この場所で、不便な冬を楽しんでみたい。ぼくにとって不便は、チャンスでしかない。満たされれば、発見やアイディアは便利の中に埋もれてしまう。この「冬」にしか生まれない何かを誕生させてみたい。

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ぼくは「生活芸術」という仕事をつくった。

 生活とは「生きながらえるための生命活動」であり、生活芸術とは「美しく生きるための技術」であり、生活芸術の作品とは「美しく生きるための技術によってつくられた作品」。

この仕事は、
未だこの世の中に存在していないから、これに価値を与え、社会に流通させ、より生活芸術を深めていきたい。つまりは、都市生活にどうやって自然をインストールするのか、それが次のお題だ。

生きるから死ぬまでの芸術

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ここ1週間、福浦に滞在しながら、素晴らしいロケーションの家で作品展示をしながら顔料づくりの実験を繰り返した。
身の回りにある材料で作品をつくる【サバイバル・アート】の発想で、150万年前の地層から剥がれ落ちた土を採取してトライ&エラーを繰り返した。
絵をつくりながら、その作品が何からできて、その材料がどこからやってきて、それはどうなっていくのかを考えてきた。それは、古い家から学んだこと。

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偶然とはよくできた必然で、福浦のスーパーマーケットのゴミ箱で、最近注目していた本「スモール・イズ・ビューティフル」を拾った。その本は多いことや大きいことよりも、全体のバランスのなかで、つまり、生産性や経済成長ばかりを追うのではなく、自然という有限な資源のなかで、どう人類が社会をつくるべきかを提案していた。ぼくはその理想を社会に求めるのでなく、個人の生活のなかに求めることが今の時代に要求されていると感じている。誰かに要求するのではなく自分自身を駆使してこそ。

絵の具ひとつ、お金を出せば買うことができる。でも、その絵の具をつくるという選択肢もあるはずだ。

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福浦が与えてくれたテーマ「顔料づくり」。友人に誘われ辿り着いた場所で着想したのだから、この縁に感謝しかない。絵を描くというよりも環境からカタチを取り出す、彫刻のような制作方法。今回の課題は、土を細かく粉砕して不純物を取り除くこと、土に何を混ぜて絵の具のように固定させるのか。

インターネットで検索すれば、いくつものやり方がみつかる。たくさんあるなかで自分に適しているのは何か。答えはインターネットには書いていない。やってみなければ、自分の答えは手に入らない。

卵と植物性の油に土を混ぜれば、油絵の具と同じ効果が得られるし、木工用ボンドを水で溶いて使う方法もある。

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福浦港でみつけた古い船に惹かれ、それをコラージュで作品にすることにした。いくつかのアイディアは散らばっていて、どう作品に結びついていくのか分からないけど、それぞれを少しずつカタチにしていった。

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昨日の夜、友人からの電話で、とてもお世話になった人の死を知らされた。ガンだったが、奇跡的に回復して、音楽活動を続けていたから、深夜の知らせは、驚きが涙に変わった。

昨日と今日のように、突然、生が死に変わっても、生涯現役だった死は素晴らしいと思う。

生と死は表裏一体で、ぼくが追い求める芸術は、死の芸術でもある。だから、どのように死を迎えるかはとても重要。「生きろ」と社会は強制するが、ハッピーな死に方があってもいい。なければつくればいい。美しい死を。

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何十年も会わない友達は、目の前にいないから、存在していないとも言えるし、ぼくの目の前にいない誰かにとっては、ぼくは存在していないとも言える。ほとんどのモノコトは目の前に存在していない。見えるモノコトなんて、ほんとうに僅かだ。

だから、存在することよりも、目の前に存在しないことがこの世界のほとんどを占めている。

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多くの絵画はモノの存在をカタチにするが、ぼくはその不在をカタチにする絵もありえると気がついた。目の前に現れた存在を無にするような表現。空は青いけれども、その青も空も実体としては存在していないような。
始まりがあれば、終わりがくる。だから、終わってしまう前に始める。

消費の反対に創造あり

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朝から湯河原の福浦エリアを散歩してみた。家の裏側が半島の入り口になっているので、進むとケモノ道を発見。さらに進むといくつかの廃屋がある。こんな道がないところに家があるとは。さらに進むと、海に出れる様子。波の音が近づいてくる。

さらに進んだ先は、家の下だった。ぐるっと回って崖の下に出ただけだった。しかし収穫があった。その崖は150万年の地層が剥き出しになっているという。

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その色具合を見ているうちに、その土を絵の具にしようと閃いた。
 自然以外のほとんどは人間がつくり出したモノ。塗料のルーツを辿れば、壁画に答えがある。人類最古のアート、ラスコーの壁画は身の回りの顔料で描かれたことで知られている。

 空き家を巡り旅をして、家もまた自然からつくられていることを知り、人間の暮らしも自然のうえに成り立つことを学んだ。
 自然から手に入れた色彩で表現すれば、その色はそうやってしか手に入らないオリジナルなものになる。湯河原で顔料づくりに取り組むことにした。

消費の反対には
創造があり
自然のなかに
人間の営みがあり
雑草のように
自然と人工の狭間で
想像を価値に変え
根を張り生きていく

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