いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

消費の反対に創造あり

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朝から湯河原の福浦エリアを散歩してみた。家の裏側が半島の入り口になっているので、進むとケモノ道を発見。さらに進むといくつかの廃屋がある。こんな道がないところに家があるとは。さらに進むと、海に出れる様子。波の音が近づいてくる。

さらに進んだ先は、家の下だった。ぐるっと回って崖の下に出ただけだった。しかし収穫があった。その崖は150万年の地層が剥き出しになっているという。

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その色具合を見ているうちに、その土を絵の具にしようと閃いた。
 自然以外のほとんどは人間がつくり出したモノ。塗料のルーツを辿れば、壁画に答えがある。人類最古のアート、ラスコーの壁画は身の回りの顔料で描かれたことで知られている。

 空き家を巡り旅をして、家もまた自然からつくられていることを知り、人間の暮らしも自然のうえに成り立つことを学んだ。
 自然から手に入れた色彩で表現すれば、その色はそうやってしか手に入らないオリジナルなものになる。湯河原で顔料づくりに取り組むことにした。

消費の反対には
創造があり
自然のなかに
人間の営みがあり
雑草のように
自然と人工の狭間で
想像を価値に変え
根を張り生きていく

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【モノと人間】について。なぜ、こんなにモノが溢れているのに少しも満足できないのか。

いろんな場所を訪れて、いろんな人に会って話してみても、満足で幸せハッピーって人間はあまりいないが、なかでもアイルランド出身でバルセロナに移住して活動するアーティストMark Reddenだけは、子供のように創作と戯れていた。空き家に暮らし舟をつくって自然と戯れるライフスタイルは、彼の影響で始まっている。感動を素直に表現すれば、それはオリジナルになる。学ぶは真似ることだし、始めるに遅いなんてことはないから、いつでもスタートすればいい。今すぐに。

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東京の家を片づけて、身の回りのモノがなくなって感じるのは、季節のせいもあって寒さ。いよいよ冬がやってくる。今年の冬は、岐阜県中津川市の古民家で越す予定。そこで冬に直撃されてみたい。

 空き家を巡り学んだことは、江戸時代から昭和初期までの民衆の暮らし方だ。かつて人々は、自然や身の回りにあるモノを駆使して生活していた。材料にも限りがあり、ないものはあるものと交換して手に入れた。だから、モノを大切にする文化があった。
 中津川の古民家のお父さんの子供の頃も物々交換だったらしい。ほんの60年前の話しだ。
嫁の実家で余っていたお菓子を貰ってきて食べている。物が溢れる場所では魅力がないお菓子も、モノが少ない我が家に来ると重宝される。これいかに。学ぶことが多い。

 千利休の「家は雨が漏らなければ、食事は飢えなければ」を参考にしていたが、考えてみれば、利休は、その言葉とは正反対の栄華を極めていた。ここには見逃していた奥儀が潜んでいる。むしろ宮沢賢治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の方が今の気持ちに響く。

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この3年間の活動から見えたのは、
ニューヨーク、マンハッタンの高層マンションに暮らす人々、その路上に生きる人々、ザンビアの泥の家に暮らす人々、東京で身を粉にして働き、働いては消費を繰り返す人々、地方で手に仕事を持って余暇を楽しむ家族、地方へ移住して自給自足に取り組む人々、快楽を貪る人々、捨てらた家たち、活用する路のない裏山の森、人々の暮らしから離れていく海、人間が開拓した場所に自然を回復させようとする雑草、スーパーマーケットに山のように陳列される食品、一方で、食べ物が手に入らない人々、スクラップ&ビルドな建築と行き場のない廃棄物。

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その何処かに自分の居場所を求めるのではなく、そのすべてが自分の世界で、その世界に生きる誰もが悩みを抱えている。その悩みを突破できるのは、ただひとつ【楽しみと喜び】だ。それを表現するのが芸術だと信じている。誰がなんと言おうと、喜びや楽しみを日々の暮らしに手繰り寄せ、憎しみや悲しみを遠ざけることだ。言うのは簡単だけど実行するのは難しい。世の中のほとんどは、ネットもテレビも雑誌も、妬み憎しみ悲劇を語る。それらを押し退けるチカラは【生きる目的】だ。

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だからこそ

冬の間
美しい暮らしを探求し
創作に専念して
雨ニモマケズ、風ニモマケズ、僕ハ、デクノボウニハナラナイ】
である。

 

身辺整理をしながら、改めて大切なモノコトを思い返した日【死ぬ訳でもないから】

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東京に戻り、家を片付けている。いくつか滞在できる空き家と出会ったので、これから漂泊民になってみようと思う。家があると安心だけど、遠くへ飛べないことも確かで、仕事も先が見えなければ不安だけど、見えないからこそ、自分で先の仕事をつくるようにもなる。不安とは自然現象であり、野生の証拠でもある。

東京に戻り、体調を崩して3日ほど寝込んで、週末に山梨の野外イベントで作品を制作し、戻ってきたら携帯電話を紛失していた。失態。おまけにノートパソコンの無線LAN機能が壊れてしまった。

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ノートパソコンは、4年前に購入してヨーロッパとアフリカの旅にも耐えた。池袋の量販店で、修理の相談をすると、このパソコンは、とても優れていたらしく、話を聞いているうちに感謝の気持ちが湧いてきた。考えてみれば身の回りにいろんな道具を持っている。

移動のための軽自動車、ノートパソコン、携帯電話、i-phone、丸ノコやインパクト、矩計、鑿、玄能、のこぎり、カヌー、釣り竿、靴や服、防寒着、布団やテント、両手、眼、足、鼻、口。日々、働いているのは、自分だけではなく、身の回りの道具たちも同じだ。

昨日は、新宿で本の出版の打ち合わせをした。水曜日の16時の予定だったのに間違えて火曜日に行ってしまった。曜日感覚も壊れている。それでも話しは進んで、いよいよ本を出版できる段取りが見えきた。20年来、お世話になってきた人と、こんな形で仕事をする未来があるとは。こんなに身近なところに夢が芽吹いていたとは。嬉しくて新宿から池袋まで歩いた。

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帰り道、ノートパソコンのことを想って歩いた。ずっと共に旅をしてきたし、出版する予定の本の編集作業もして、いろんな仕事をしてくれたパートナーだったと気がついた。もう少しこのノートパソコンに働いてもらって、本をもう一冊、この冬に書き上げよう、と考えて帰宅したら、紛失していた携帯電話が発見された。

東京に戻ってきて、深い谷に沈んでいるようで、遠くが見えないし、自然を感じることができなかったけど、太陽も昇るし月も星も見えるし、風も吹けば青空も広がる。

不安や不調があっても、感謝や愛が勝れば、奇跡は起きる。信じ続ければ、花は咲く。冬から春まで、次の夢を育ててみたい。

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どこからやってきて、どこへいくのか 【焚火曼荼羅】

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モノをつくるとき、材料がどこからやってきて、どうなっていくのか、考えてみると、すべて自然にあるものを利用できれば、成り立ちからその最期までが美しい。
山梨県昇仙峡の近くにあるキャンプ場で開催されたフェスOff-Toneで、会場にある石や木や草を並べ、曼荼羅をつくった。日が沈む頃に燃やし始めて、朝には灰になり、すべてが消えて無くなる。ぼくら夫婦が、もっとも理想とする作品のカタチだ。

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考えてみれば、生活のすべてを選択できて、それらがどう社会に影響するのか配慮して手に入れるなら、世界をずっと美しくできる。それは政府や企業がコントロールするものではなく、生活者の側からコントロールできる未来だ。ぼくは、それを「社会彫刻」と呼んでいる。その選択肢には消費だけでなく、自然も含まれている。

しかし、自然を相手にすることは、商品やサービスに比べ、扱いが難しく骨が折れるし、時には人から何かを奪うような暴力を働くこともある。それでも、何千年も、もっと遥か昔から営み続けてきた地球のシステムに従い生きる能力は、これからも絶対に必要不可欠な技術だ。

それらの能力は当然、商品やサービスではないから、どこにも売っていない。それらは、かつての知恵や、忘れられつつある、もしくは、役に立たたずに、サービスや商品未満として放棄されている領域にある。ぼくは、それらを掘り返して、社会に還元させたい。それを「生活芸術」と呼んでいる。

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社会には社会なりの像があり、無意識の「こうした方がよい」という強制力がそのカタチをつくっている。戦前、戦後、高度成長期、バブル崩壊東日本大震災以降、それぞれの時代にそれぞれの常識感覚が流通していた。

テレビも、冷蔵庫も洗濯機もないぼくら夫婦の生活は、両親の世代には美しくもなく、むしろ、なんでそんな暮らしを自ら選択するのか、と嫌がられることもある。それもそのはずで、常識や商品やサービスの外側に生活を発見しているからで、それでは100年以上も前の生活に逆戻りしてしまうからだ。

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何かをすれば、同時に何かを失う。ひとつの木を切れば、その木はなくなる。お金を使えば、自分の手元から消える。もっと、質のよい木を欲しいと手に入れれば、誰かはその木を手に入れることができない。お金をもっと欲しいと手に入れれば、誰かの手元からはそのお金は消えていく。しかし、みんなが同じ競争をする必要はない。

そもそも「働く」とは何なのか。人と人の間にあるニーズを満たしたときに価値が生まれる。それは貨幣流通以前から存在するコミュニケーションであり、経済の原点である。山の中にある木や石や草を集めても売れるほどの価値はないが、並べ方や場所や環境を考慮して、周りの人のためになる行為であれば、そこには価値が生まれる。

「生活芸術」は、人生そのものが作品で、誰もがつくることができる。その生活は、明らかに質素で、しかし、他の誰よりも豊かである。水が、高いところから低いところへ流れるように。至るところの生活を潤す、純粋な水のように。

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できないことなんてない。イメージできるのであれば。

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人は常に偶然によって人と出会い、恋人も友人もそうやって結ばれていく。社会は、常に人が人と縁を持つことでつくられていく。貨幣は、人と人が価値を円滑に交換するための道具であり、その行為が経済を動かしている。そうあるのが理想の社会像だ。理想がなければ、未来をつくることはできない。理想とは、勘違いのような思い付きを丸呑みして信じ込ませることだ。できないことなんてない。イメージできるのであれば。

生活芸術的商売の発見
愛知県津島市には、しげんカフェという廃棄物の買い取り施設があって、ぼくたち夫婦が今月制作したPOP LIFEの像の発泡スチロールの廃棄を引き取ってくれた。発泡スチロールはリサイクルできないので、買い取りではなく有料で、630円支払った。しげんカフェのスタッフは親切にも、いくつかのお金を支払わないで処理する方法を提案してくれた。ひとつは、少しずつ、ゴミの回収日に出すこと、ひとつは近所のスーパーの発泡スチロール容器の回収に少しずつ出すこと、だった。しかし、翌日に津島市を発つぼくらはすぐに処分したかったので、630円はむしろ安価だった。お店のスタッフは「申し訳ないね、ゴミを買い取りできたらいいんだけど、リサイクルできないからね、余計な出費をさせて申し訳ないね。」と言ってくれた。そのとき、喉が渇いていたので「チフミにジュースを買うから100円をくれ。」と言うとお店のスタッフの人が「そんなの買う必要ないなら、そこにある水を飲んでいいから。」と水筒を差し出してくれた。よく冷えた水は、乾きを癒してくれた。

しげんカフェのやっていることは、不用物に価値を与える仕事で、社会的に貢献度が高く、それは徳の高い心をつくるのかもしれないと思った。人の役に立ち、尚且つ、人から何も奪わずにむしろ与える。これこそ、生活芸術的な商売の態度だと思った。

土曜日の朝、津島での滞在制作した作品の写真撮影をして、徳川美術館の展示を見て、東京に向かった。東京の家をいよいよ引き払うことにした。ぼくたち夫婦は、利用価値のない空き家を転々として、その家に滞在して、使える状態にして家主にお返しする、そんな暮らしを始めている。

妄想と現実、怪獣の教え
昼から夕方まで、名古屋から東京まで車を走らせ、六本木に向かった。土曜日の夜は、友人のアーティスト、ピューぴる、ことぴゅーちゃんが、怪獣のデザインをした「怪獣の教え」という舞台を観る予定だった。

その舞台芸術は、いまの東京、日本を表現していた。
東京という街は、いつも東京だった。コンクリートに覆わて、人が溢れて消費を煽ってくる。いつも何かが欲しくて、常に消費を繰り返してしまう。働いても働いても、決して満足するこはない。
高校生のとき、気が狂ってしまった友達が「空を怪獣が飛んでいて、それは視界いっぱいに広がっていて、街は陰に覆われて、俺は銃を持って追跡したんだ。」と話したことを思い出した。その友人は、見ず知らずの他人の家の押入れに隠れていたのを発見され逮捕されてしまった。もし、彼がその妄想を文章や絵で表現していたら、また違う未来があったかもしれない。

「怪獣の教え」は、他の誰でもない自分の夢を生きろ、と伝えていた。

人は常に選択して生きている。右か左か。今か明日か。自分の夢を生きるとは、とても難しく険しい道だ。気がつかなければ、すぐに他人の夢に寄りかって生きてしまう。
東京で生まれ育ったぼくは、常に音楽や本を探していて、その刺激を理解することが、自分の価値だと思っていた。平日働き、休みになると、新しい刺激を追い求めていた。その頃は、まだ自分の夢を生きていなかった。誰かの夢を追体験して満足していた。それは常に消費だった。

どんな小さな夢の種でも、自分の心のなかで育て続ければ、やがて芽を出す。大抵の場合は、そんな小さな芽を育てるより、あっちの大きな畑で働いた方が効率が良いし、何より安心だ、とお世話をしてくれる。そうやって自分の畑を放置してしまう。

ぼくの場合は、嫁と一緒にアート活動を始めたこと、アート作品に貨幣価値を与え、仕事にしたこと。そこから自分の夢を生きる道が始まった。

それは些細な頭に浮かんだイメージを捉えてカタチにしていく作業だ。例えば「空き家に住んでみよう」と思いつく。どうすればいいのか考える。それができない理由を消去していく。ライフスタイルをつくることは、この時代に最もクリエイティブな表現だと思う。そう行動する人間が増えれば社会が変わる。

自分の夢を生きるとは、とても危険で不安なことだ。誰かが完成させた夢を追体験するのとは次元が違い、夢を現実とすり替えてしまうことだから。しかし、好きなことをしているから、何の苦労も不安もない。そのことをしている限り。それはときに自分との闘いでスポーツのようでもある。そこには優しさや愛や勇気といった、大きな畑で忘れられていく大切なことが詰まっているように思う。

徳川美術館に陳列された品々は、手工業の傑作ばかりで、自然をモチーフにした作品が多かった。そのはずで、200年も前には、自然が身近で、生活のすべてで、そこには畏怖があり、至るところに神が宿る信仰があり、だからこそ美しい瞬間を捉えることができたのかもしれない。

ぼくは自分のつくるものに価値が与えれら、人の手に渡ることを大事にしたい。それは、人と人の出会いであり、そこに価値が生まれる瞬間だから。その人から戴いた価値を、よい未来へと循環する社会をつくるための糧にして生きていく。だからこそ、生活は芸術であり、社会が押し付けてくる現実を押し退け、ぼくの夢に浸食されて理想が立ち現れてくる。「怪獣の教え」を観て、ぼくは、2013年から自分の人生の舞台に立ち続けていると気がついた。

次のテーマは「商い」
「世界旅行」「空き家」とテーマをみつけては開拓してきたぼくら夫婦の次の冒険は「商い」にしてみたい。商売をテーマに、自然や社会から採取できるマテリアルをアートにして、貨幣経済へと還元させる理想の交易を描いてみようと思う。
生活芸術とは、生きること、当たり前の日常のなかを冒険すること。日々のルーティンも、僅か右や左に寄れば、まったく新しい世界が広がっている。思いついたことは、まずやってみる。ぼくら夫婦にできることは、誰にでもできる。生き方は、自分の手でつくれることを証明しよう。

商いの原則
1. 他より安い物
2. 質の高い良い物
3. 付加価値の付いた物
4. 誰かに頼まれるようなこと
5. 売れる場所をみつける
6. 儲からないと思われているもの
7. 暇を潰せるもの
8. 人生の悩みを解決出来る術

目の前に起きている仔細な出来事こそが、何よりも、磨けば輝く人生の一部だから。

目の前に起きていることを記録すれば、それは人生そのもので、その記録が他人のことではなく、自分の身に起きたことであれば、間違いなく、それは芸術。

では、どんな芸術人生をつくることができるのか。古今東西のライフスタイルを採取編集して、試行することがぼくたち夫婦のテーマ「生きる芸術」。

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この2週間ぐらいに起きた出来事
9月は愛知県津島市で、アートイベントの会場になる建物を改修しながら、展示する作品を制作していた。ここの長屋では、アーティストインレジデンスが実施されていて、そこに参加する形で滞在している。アーティストインレジデンスとは、クリエイターが滞在して作品をつくる環境を提供する宿泊施設のこと。1年前を想えば、この場所でそれが行われているなんて夢のような話だ。

家主の水谷博士が考案した「リフェイス2.0」という技術を習得するイベントを開催して、参加者のチカラを借りながら、40坪の広い木造建築の壁に施工した。

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発泡スチロールを彫刻してリフェイス2.0を表面に定着させてつくる新しい立体作品を制作している。約180cmの男と女の像で、タイトルは「POP LIFE」人と人が出会い挨拶をする姿を作品にした。すべての愛は偶然の出会いから始まる。

友達のアキちゃんから電話で、真鶴のアートイベントに参加しないかと誘いがあった。空き家を使って作品展示するイベントで、スケジュールが空いていて、フットワークの軽い人がいなくて、ぼくら夫婦を思い出して声を掛けてくれた。繋がる時はぴったり一致する。

中京テレビの取材があった。ゴリ(ガレッジセール)が突然現れ、ザンビアで家を建て、日本には家が余っているから、空き家を転々として、アート作品をつくり暮らしていることを話した。ゴリさんは「なんて自由なんだあ!俺も生き方を考えるなあ」とコメントした。芸能人にそんな風に言われて気分が良かった。けど、仕事だからそういう風に話したのかもしれない。

重なるもので、他のテレビ局からも出演のオファーがあった。こちらは、夫婦でお互いの普段言えないことをテレビで言う企画で、不満がある夫婦を募集しています、と。アホか。なんでテレビでそんなことを言う必要があるのか。幸せな夫婦ということなら出演します、と返事をした。

アイルランドの友人、パピエマシェの師匠トムからシリアの子供たちを支援するアート展を開催するから作品を提供できないか、とメッセージを貰った。不思議なもので、評価が高い作品が売れるとは限らない。作品は愛によって結ばれるから、ただひとつの想いが芽生えれば、作品は売れていく。「いいね」と「欲しい」は、まったく次元が違う。おかげで、今回オファーを貰ったアート展に出品するために手元に残っていたような作品がある。

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遠く離れた同じ地球上で、苦しまなければならない人々に何かできるのであれば。この舟の作品がアイルランドに渡り、シリアの子供たちの助けになるなら、創作活動をしていた意味がある。

人間は、生まれる場所だけは選ぶことができない。人間は、ほとんど同じカタチをした種なのになぜ、こんなにも違いがあり、争いが絶えないのだろうか。ぼくら夫婦が作品づくりに没頭しているとき、そこには平穏と平和がある。創作に格闘していても、その行為は、他者や世界に何ら影響を与えない。だからこそ、素材や制作方法は徹底的に思考して、世界に与える影響を配慮したい。それが美くしさに関係するから。

嫁チフミとこれからのことについて話した。日本国内だけでなく、海外でも作品をつくりながら暮らしていこうと計画した。2013年は、旅だったので2018年には移住する計画を立てた。まず、目の前のチャンス、9月15日締め切りのフィリピンのレジデンスに書類を提出した。

ぼくらは、いよいよ家がなくなる。しかし、いろんな場所にある愛らしい家に暮らすことができる。それは人と人の縁が繋いでくれる暮らしだ。

10月の終わりからに岐阜県中津川で暮らし、アキちゃんが誘ってくれた神奈川県真鶴のアートイベントにも参加して暮らしつみようと思う。徳島県の人からも誘いがあったので春になったら移動してみよう。

季節は夏から秋に変わった。ぼくら夫婦は、いよいよ空き家から空き家へと暮らしを旅する冒険芸術家になった。これは、2年前に夢見たライフスタイルだった。

人生を芸術として思考して試行すれば、未知の領域を開拓し、人生を思いのままに表現する創作となり、哲学よりも宗教よりも、直接的に人間を人間らしく、さらにこれまでのどんな時代よりも平和な社会をつくることができる。ひとりひとりの人生は、瞬間毎の選択がつくっているから、貨幣経済の奴隷にさえならなければ、それが可能だと信じている。個人が自分の想いを果たし独立独歩できれば、国家や社会に従う必要がなくなり、争いや憎しみだって、ずっと少なくなる。ついには、自分の身の回りのすべてを美しくすることだってきっとできるはずだ。

悲しいニュースや誰かの行動や、ネットの誰かの記事や本やテレビやどんな商品やサービスよりも、目の前に起きている仔細な出来事こそが、何よりも、磨けば輝く人生の一部だから。
そのためにも、これから更に、自然のチカラを生活のなかに抱き暮らしていきたい。

どうしてわたしたちは、生活を変えることができないのか。

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今日は今日であり、明日は明日。だからこそ、その日、その日を愛おしく過ごしたい。だからこそ、振り返って言葉にしておく、週末あったことを。次へ進むために。

中津川市高山にある青山家の古民家と周辺環境を活用した「森と暮らす」プロジェクトがスタートした。森に触れてみたかった。その体験を基に森と人間の暮らしについて考えてみたかった。その体験を日々の暮らし反映したかった。

イベントのプログラムは、森の木を伐採してキャンプスペースをつくること。森を散策して、かつての森と人の暮らしを知ること。それらを、家の所有者、杣(そま=きこり)から学ぶことだった。

土曜日の午後、森の開拓作業からスタート。草を刈り、木を伐採して、太い木はチェンソー経験者が切り倒し、参加者みんなが夢中で開拓した。自分も木や蔓と格闘した。伐採された森には太陽の光が差し込むようになった。青山家のお父さんは「森が混んでいると木は成長できない」と教えてくれた。それは、そのまま人間に当て嵌まると思った。競争ばかりでは、上を目指すばかりで、枝葉を充分に広げることができない。

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日曜日の朝は、青山家のお父さんの案内で裏山を散策した。そこには、かつて森と暮らしてきた痕跡があった。お父さんが子供の頃は、森の中に畑があった。そして森は財産だから、すべてを手入れし管理していた。森は今でも青山家の古民家に水を供給している。

いま現在、日本中のあちこちで、森の価値を見失っている。森の価値が分からなければ、森のある家にも価値がない。畑も田んぼも活用できない。そうやって、ぼくらは、自分たちが生活できる領域を可能性を失っている。もしくは、見えないうちに、ほんとうに見失っている。

この古民家には、失われていくモノコトが詰まっている。山から湧いてくる水。木が与えてくれる薪。薪を燃やした火。火で炊いたお米。畑の野菜。裏山の森。築120年の伝統工法の日本家屋。景色。つまり、120年前の暮らしのタイムカプセルがここにある。
昭和23年生まれのお父さんが子供の頃、お米が貨幣だった。行商人が魚やらお菓子やらを背負って運んできて、お米と交換していた、と話してくれた。そんな経済社会が、すぐ最近まであった。

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こうした山の暮らしの中に幸せに生きる技術が埋まっている、そう確信している。なぜなら、都市生活者は、すべてを貨幣と交換する。水=水道もしくはペットボトル。火=ガス。スーパーマーケットで買う野菜、米。コンクリートのマンション、もしくは新建材でつくられた家を、高額な家賃と取引する。つまり、人生という奇跡の一部と交換で手に入れた貨幣で満足を買う。しかし、その満足は続かない。なぜなら、都市生活は永遠の消費機関で、創造は見えない領域で操られ、高みをひたすらに目指す木々になってしまうからだ。

ぼくが明らかにしたいのは、「常識」や「社会」というものが、ほんの僅かな部分でしかない、ということ。それよりも、もっと大きな自然という全体があること。それを少しづつ、こうやって言葉にしている。ぼく自身も少しづつ、その可能性を再発見している。まだまだ、いける先がある。その道こそが芸術だ。ぼくは哲学者でも宗教家でもない。だから、言葉だけでなく、生活芸術として、森での体験を都市生活にインストールしてみたい。

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今日久しぶりに図書館へ行った。「光あるうちに光の中を歩め」というトルストイの本を手に取った。タイトルに惹かれた。
序章に
「どうして我々は、こんな生活をしているのでしょう?」「どうして自分でも感心しないと思うようなことをするのでしょう、いったい生活を変えるということはできないものでしょうか?我々は名誉や富と引き替えに、人生に喜びを与えるすべてのものを失わなければなりません。都会に集まり、柔弱な生活を送り、そのためにも健康を損ない、遊興三昧の日々を送りながらも、結局退屈して、どうも自分たちの生活は本当の生活ではなかったと後悔しながら死んでいくといったありさまです。」と書かれていた。

どうしてわたしたちは、生活を変えることができないのか。

いや、できる。人間が社会と自然のバランスに気が付きさえすれば。そこそこ50年ほどの文化を捨てさえすれば。勇気を持って自然のなかに生活しさえすれば。つまり、足るを知りさえすれば。ぼくら夫婦の生活そのものが、その実験場だ。

青山家の古民家には、人間の暮らし方のヒントが詰まっている。それに触れる機会を与えてくれた青山さんこと青山剛久に感謝すると共に多くの教えと体験を与えてくれたご両親にも感謝。

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