いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

先人から学び真似し応用する、生きる技術の実践方法

やっと納得のアジ釣りができた。釣り人の教えを解釈して、長い竿、仕掛け、餌のアミエビが必要なことが分かった。

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今朝、浜を散歩して長い竹竿を拾った。これに糸と仕掛け、アミエビを餌にすればアジが釣れるかもしれない。5000円の竿を買わなくても。

アジが動き出す夕方に波止場に向かった。いつもの釣り人たちに竹竿を笑われる。「それで釣れるかな。」しかし、どう考えても数十年前は、竹竿だった。
5時から始めてまず1匹。周りもあまり釣れない。6時を過ぎた頃から、竿を入れれば釣れる状態になった。釣り人先輩たちにも、竹竿を笑われながら、よく釣れるなあ、と褒めてもらった。

f:id:norioishiwata:20160825104014j:plain法則を発見。狩り場で周りの人のやり方を学ぶ。どうすれば採れるのか分析する。アジ釣りは、偶然にも達人と知り合い、教えて貰えたのが最大の収穫だった。学ぶとは、先達のやり方を真似ることから始まる。

これは、他のことにも応用できる。ぼくは、この法則を援用してアートフェアで作品を売ってみたい。

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海を冒険する安乗ボートクラブ。

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安乗ボートクラブ。部員は嫁のチフミと自分。今日は少し遠出して、わたかの島へ。最寄りの浜から、見えないが半島を回ればすぐの島。

カヌーを漕ぎ出して、海のうえ、太陽の下。大自然の中で、舟を漕ぐ楽しみ。チフミは「こんなことやって暮らせるなんて最高だね。不安はあるけど。」と言ってくれた。バカみたいだけど、それが嬉しい。
しかし、こればある意味、部活だから、体力は消耗する。わたかの島は、客船で行けば10分ぐらいの場所なのにカヌーでは片道1時間。

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やっと島に着いて気がついた。お金を持っていない。観光の島に来たのに。喉が乾いたらアウトなので、少し散歩して戻ることに。

帰りには風が出てきて進まない。自作のカヌーとオールで漕いで、ゆっくりと来た海のうえを戻る。再び1時間以上。帰りは釣り船に遭遇して、道を譲ったり、大きな船より先に波止場に向かって、無駄な体力を消費して、結局、大きな船に道を譲ったりしながら、海のうえを冒険して帰った。海に広がる大自然が愛おしい。海が好きだ。

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漁師に同行して学ぶ、狩漁とマーケットのあり方。

三重県の志摩での暮らしには電話もインターネットもないから、連絡手段がない。ぼくは、それでいいが、連絡したい人には迷惑な話。夕方、漁師のノリくんが船を出すから一緒に漁へ行こうと誘いに来てくれた。連絡手段がないから、その場で行動が決まる。

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向かった波止場の船には、ノリくんのお父さんが出航の準備をしていた。船は手入れをすれば30年も40年も乗れるらしい。家と同じだ。船のカタチが、ロボットやスニーカーのようで最近、お気に入りだ。

船は左右に巨大なサオを広げて4本の糸の先に疑似餌を垂らして走る。ノリくんのお父さんは、潮の流れを読みながら、魚を求めて船を進める。

とにかく、漁は出てみないと分からない。プロの漁師でもアタリの日は、じゃんじゃん釣れるし、まったく釣れないゼロの日もある。自然が相手だから、同じ日は1日もない、という。

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夕方の海を走りながら、反応のないサオを眺め、期待と不安が入り混じる。「駄目なときは釣れんからな。」ノリくんが期待し過ぎないように言ってくれた。

漁には2つのタイプがあって、小さな船でコツコツと釣り上げる漁師と、大きめな船の数隻で、網でまとめて捕る企業のような漁船。網でやると不必要に魚を捕り過ぎてしまう。しかし、網の方が効率がよいから、漁師の仕事がなくなってしまう。大手スーパーマーケットと個人商店のような構図が海のうえにも存在している。

ノリくんの家は、家族でひとつの船で漁をして暮らしている。漁師の経験と自然を相手に生きる技術が、一家の暮らしを成立させている。しかし、安乗では、こうした漁師が生活できなくなってきている。ノリくんは、両親の反対を押し切り、漁師になった。漁師という仕事を未来に残したいと言っていた。

「お!1番に掛かったんじゃないか!」お父さんが声をあげ、ノリくんが、糸を手繰り寄せると向こうの方に魚が見える。するとすぐに「マグロの子供やんけ!」
すぐに2番にもヒット。連続してマグロの子供を釣り上げた。一匹5000円もする高級魚。

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また暫く、釣れない時間が続き、お父さんの「掛かったんじゃないか?」の声。引き上げてみると、小さなカツオの姿。船を操りながらでも獲物は見逃さない。流石の漁師。しかもそのカツオは、漁師でもワンシーズンに一度釣れるかどうかのマイトカツオ。市場にもほとんど出回らないらしい。

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それでもお父さん、今日は「釣れんなあ」と。あまりに捕れないので、これ以上やっても無駄だ、との判断でクルージング終了。

念願の漁師に同行して、その生きる技術を採取できた。おまけに、今日の収穫に便乗して、美味しい魚の刺身を頂いた。

自然と人間の暮らし方を観察して、都市生活とミックスしたライフスタイルをつくりたい。狩猟とマーケットがキーワードになりそうだ。海の暮らし。残り1週間。何かよく分からない感動が胸の奥でウズウズしている。漁師のノリくんに感謝。

釣りの神様現る。

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朝から、アジ釣の大漁に期待していた。150匹も釣れる方法を教えてもらったから。午後に釣具屋で、サビキの仕掛けを買う。サオは、釣り師のおじさんに教わったモノが分からず買えなかった。
しかし、ぼくにはカヌーがある。人が行けない場所で舟の上から釣りをすれば、効果絶大なはず。

予定の4時にカヌーを海まで運んで、漕ぎ出し、海の真ん中で釣りを始めた。ところが、何度やっても釣れない。釣り師のひとは150匹釣れると言っていたのに。

1時間ほどで諦めて波止場に移動。そこで再開すると、チフミが一匹釣り上げた。そこに現れたのが、昨日の釣り師のおじさんだった。


「お、教えたサオ買ってないな。」
「とりあえず仕掛けとハリだけ買いました。サオはお店の人にうまく説明できなくて買えませんでした。」
「それじゃ駄目だ。こっちきなさい。」
おじさんが指定する場所へいくと、サオを貸してくれ「これで釣ってみなさい。」と。


長いサオを海に入れると、仕掛けがスーっと海に吸い込まれていく。すぐにピクピクッと引きがある。釣り上げるとアジ。そこからサオを入れれば釣れる状態。何度もやめようと思いながら、あと一匹と、もう手に負えないほど釣り上げてしまった。おじさんにお礼を言うと「明日も来て釣りなさい。」とサオと仕掛けを貸してくれた。

喜びもつかの間、帰りながら50匹近くものアジをどうしようかと不安になってくる。家に着くと、大きめのアジを刺身にして食べた。残りは、頭と内蔵を取って揚げて食べた。

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採れなければ飢えるし、採れ過ぎれば、無駄に生き物を殺すことになる。実は、近所の漁協では300円でアジが売っている。サオや餌代や釣りをする時間を考えると、買う方が安かったりする。文明化された人間だから「買う」というオプションもまた必要な安心感だったりする。捕る、買う、獲らないの選択肢がある。それを楽しめる環境が自然と共に暮らす魅力かもしれない。

生きるための技術、参考書として愛読する宮本武蔵五輪書には「いくつもの芸に触れること」とある。釣りをやって知ったのは「道具と場所」が重要だということ。「ツールと環境設定」とも読み替えできる。
ぼくは勝手勘違いなやり方で魚を捕ろうとしたが、それでは成果がなかった。闇雲にやっても結果が出ない。その道のやり方を知れば、それなりの結果が出るということだ。たとえば、アートの世界でも同じことなのかもしれない。

海の傍に暮らしてボートに乗って魚を獲りたかった。やったら釣れない話。

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昨晩は、安乗の友達と遊んで、家に帰ってきて、夜中から明け方まで制作に集中できた。おかげで眠くて仕方ない。午前中にメインモチーフの岩の絵の方向性が見えてきた。が、まだ背景が見えてこない。

昼飯を食べて、横になっているとチフミが「海へ行く?」というので、釣りの道具を持って出かけた。釣りは、毎回、根掛かりして仕掛けを失って終了している。

テトラポットから魚が見えるのを期待したが姿はなく、投げる練習をしていたらヒットした。釣り上げたらフグなので、リリースした。しかし、後でよく考えてみたら、ハゼだったかもしれない。魚の知識がなさ過ぎる。

家に戻り、海の気持ちよさの余韻で絵を描いた。午前中には浮かばなかったイメージが現れてきた。

夕方前にコンビニへ行き、インターネットに繋いで電話連絡。安乗の家は、Wifiも電話も繋がらない。それで不便かと言えば、そうでもない。むしろサッパリとした気分。なにしろ、絵を描くことに集中できるのだから。

ネットで釣りのことを調べてみると、コンビニで売っている魚肉ソーセージやイカもエサになるらしい。さきイカを買って釣りのエサにしてみることにした。

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波止場でとりあえず何か釣れればと投げる。しかし何も釣れない。釣り人には「今日はどうよ?」とか「何狙っているんだい?」と話しかけられる。魚釣りは、魚によっている場所もエサも違う。だから、狙って対策を練らなければ釣れない。しかし、ほんとうに知らなさ過ぎて、対策のしようがない。
今日も釣れないなあ、と諦めた頃に、「どうだい?何を釣るんだい?」と釣り人。「アジです。今日は釣れないですね。」「その仕掛けじゃ釣れないよ。」と。
釣り人曰く。「サビキがいい。凍ったアミエビを買ってきてバケツに入れておけば、夕方には使えるよ。それをカゴに入れて投げる。サオも5m~6mは必要だなあ。まあ、それを揃えれば150匹は釣れるよ。」

アジ。150匹。夢のような話だ。しかしサオは短いが、ぼくには舟がある。明日、朝イチで釣具屋に行ってチェックしてみよう。サオも2~3000円ぐらいだったら買ってもいい。こうして、釣りの道を歩き始めてしまいました。

42歳。芸術家。趣味は、ボート、釣り、ボルダリング、ランニング、選曲、DJ、バンド。

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自然、社会、人間のバランスについて。

朝目覚めると雨が降っていた。カヤックは車のうえだった。乗り口が上を向いているので、バケツのように水が溜まってしまう。慌てて、雨のなか車まで走り、カヌーを降ろした。幸い、雨は降り始めたばかりだった。

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朝4時。起きてしまったので、日記を書いている。自然と社会と人間の暮らしについてのグラフが浮んだ。縦軸は、自然と社会。横軸は、採取と貨幣。このバランスのどこに位置しているかで、現在のライフスタイルが把握できる。

自然採取したモノコトを貨幣社会に流通させること。このサイクルを成立させるのが今年の目標。絵を売るマーケットを開拓し起業を目指す。その形態は農業や漁業に近い。

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「これが仕事だからやるしかない。」昨日の夕方、チフミが言った。絵を描くことしかぼくら夫婦にはない。漁師が魚を捕るように。安乗に来て3点の絵をつくった。

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例えば昨日の朝、釣りをした。ひどく疲れていて、魚を捕る気力もなかった。途中で、チフミに交代してもらうと、針が海中の何かに引っ掛かってしまった。無理やり引くと、切れて針とオモリがなくなってしまった。

午後、引き続き、体調が優れないので座禅をした。体調不良は、運動のし過で、たまにダウンする。ふと思いつき、海に行ってみた。その日の海の水は澄んでいて、いままでとは違う表情だった。

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潜ってみると、海中までよく見渡せ、岩場には、たくさんの魚が泳いでいた。陸とは違う海の世界があった。海中に陽の光が差し込んでいて、それは、ちょうどチフミが描こうとしている世界だった。良い日も悪い日もない、単に今日を生きているだけ。

ぼくが望む生活は、自然採取もしくは社会採取を中心に活動して、それらを貨幣社会で換金すること。自然採取とは、想像したアートを創作すること。社会採取とは、ゴミや廃材、空き家などの貨幣価値を失ったモノコトを利用すること。これはぼくの場合で、人それぞれのモノコトで当てはまる内容がありえるだろう。
ここに「自然貨幣」という新しいコンセプトを発見した。自然のなかで貨幣を生み出すことだとすれば、スポーツアクティビティが閃いた。スキューバダイビングやボルダリングカヤックやボートなど、レッスン料を設定するサービスだ。

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9月3日に岐阜県中津川市の古民家で開催するキャンプ場づくりのイベントは、気がつけば、これこそまさに自然貨幣な企画。次は、その話をしたい。

原始時代から現在へ、今いる場所から世界へと自由自在に横断して編集するライフスタイルのつくり方。

三重県志摩市の海の町、安乗に滞在している。目的は海の作品をつくるため。そのために生活の拠点を移した。ぼくは絵を描くために旅をしている。あちこちの暮らしと日本の自然を体験するために。それを可能にしたのが、空き家暮らしだ。ぼくら夫婦は、漂白民になり、定住する必要がなくなった。

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長い人類の歴史を俯瞰してみれば、社会がよりも、自然のなかで人間が生きてきた期間の方が長い。ぼくたちは、自然と社会の間のバランスを選びカスタマイズすることができる。

今回の旅に持ってきた本のなかから、「日本の歴史を読み直す」網野善彦著を紹介したい。

この本は、日本の歴史が取りこぼしてきた様々なライフスタイルを描いている。百姓=農民ではなく、様々な手に仕事を持つ人々であることを明らかにし、農民中心に描かれてきたのは米を税として徴収し、その石高が管理者にとって重要だったことに由来し、実は、海や川や湖に交通の便が発達していつて、そこには、これまでの日本史が描いてこなかったライフスタイルがあることを明らかにしている。
ぼくの父は漁師の生まれで、子供ながらにどうして日本が農民中心の国なのか疑問だったと話していた。
しかし、生活の中心にあった舟は、発達した陸上の交通に取って代わられ、いよいよ消えてしまい、日本人が、水の文化圏に属する民族だという事実が、見えなくなっている。カヌーを自作して、舟と共に暮らして、その事実を体感してみたい。

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昨日、波止場で釣り糸を垂れてみると、30分ほどで2匹も魚が釣れた。初めて自分で魚を釣った。もし、これが大地なら自分で食物を育てなければ食物は手に入らないと思っていたが、山にも恵みはある。山菜やキノコは、自然が与えてくれる食べ物の類いだ。人間は自然の恩恵を享けて生きてきたのだから絶対にお金に生かされているのではない。

ぼく自身、現代社会に追従して生きていく気はまったくない。できる限り、社会の枠の外に生活を成り立たせたい。なぜなら、社会が要求する経済成長は、環境破壊、人間の奴隷化に繋がるからだ。支配層が被支配層から搾取する原始的な社会のどこに魅力があるのだろうか。多くのひとは、そうしなければならない、という無意識の強制力に従っている共同幻想があるだけだ。

ぼくが仕事として選択した絵を描くことは、想像を資本に創造し価値を生み出す。それを芸術と定義している。その価値を生み出すために、ぼくら夫婦は、いま海に暮らしている。遊んでいるようで、命を賭けて生活芸術の実験をしている。

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その実験のやり方はこうだ。極度に発達した情報化社会から、歴史を俯瞰して、さまざまなライフスタイルを選択する。日本史から世界へ、原始から現在へと自由自在に横断できる。
ぼくはスペインとザンビアで体験したライフスタイルを、日本で試みている。

簡単に言えば、もっと多種多様な生き方が実践可能だし、お金のためにすべての時間を売り渡し奴隷になる必要はない。日本の社会環境であれば、もっともっと冒険しても死ぬことはない。大人たちが冒険して失敗と成功を重ねて、未来をつくる子供たちにバトンを渡すべきだと、ぼくはいつも、そう想っている。