いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

そのままで大丈夫?!今ここからの未来へ。

クルマを走らせて目に止まった。道端の2羽の鳥だった。瞬間だった。一羽は倒れていて、もう一羽はなす術もなく横で見つめていた。まるで長年連れ添った夫婦みたいで愛おしく感じた。しかし、そこには悲しみもあった。そのままクルマを走らせ去ってしまった。なんだったのか、そんな光景が今も頭に浮かんでいる。

ここ数日誘いがあったり友人が尋ねて来たりした。お酒を飲んだり話をしたり楽しい時間を過ごした。その間は作品づくりが止まっていた。提出しなければならない企画の資料をまとめたりはした。

金曜日の午後に時間が少し空いたので図書館に行った。欲しい本をすべて買うわけにもいかないから、リストにしておく。こうやって時間をみつけ手元に置いてみる。たくさんのもののかから何かを選ぶ喜びがある。それは映画でも音楽でもいい。消費だけが目的ではなかったりする。

スーザン・ソンダクの「他者の苦痛へのまなざし」を借りた。タイトルを書店でみたときもうそれだけで読みたかった。そのときは東京にいて、前の日に24時間上限ありの駐車場だと思っていたところが勘違いで7000円も駐車料金を支払ったので我慢した。そういう事情もときにはあるから図書館には助けられている。

この本はタイトルの通りの内容だった。一章だけ読んだところだけど、戦争について書いてある。2003年に出版されている。なるほど20年前だけど、その当時も今も世界は戦争をしている。SNSやネットのニュースで戦争の映像も見る。誰かが死んでいる。ビルが破壊される。一般市民が殺される。しかしもちろん痛みはない。心ぐらいは痛むだろうか。しかしやがて慣れてくる。安全な場所にいる気がする。遠くの出来事のように。

素晴らしい本だったので購入した。続きはゆっくり読もう。そのあと制作した。展示に向けて完成させたい。木を削った。木彫だ。こちらは完成に近い気配がしてきた。では額を作ろう。木を切ってボンドでつけて乾かした。そのときに感じた。自分が帰ってきた。

自分がどこかへ行っていたのだ。言い方を変えよう。自分の心とか制作する姿勢とか、必要なもののバランスが整った感じがした。

モノをつくる=アートに取り組んでいるのは、生きることに向き合うためだ。生きることは目の前で起きている重大事件なのに忘れてしまう。当たり前過ぎて。空気みたいで、いちいち酸素がとか、水素が太陽がとか考えないのと同じように。

モノをつくることが特定のジャンルに定まらないのもそのせいだ。生きるという事件。あらゆる角度から検証したい。コトバ、絵画、木、土、文章、映像、詩。自分というもの。これは器だ。空っぽだとも言える。そこに自分がぴたっとハマる。同じ自分でもまったく違う自分が帰ってくる現象。位相が違う。何度でも新しくなれる。

先週、知り合いが北茨城にゲストハウスがあるから泊まりに行こうと誘ってくれた。迎えてくれたのは、メキシコから旅してきたイヴァンだった。イヴァンは日本に来るなら長く滞在したいと考えて、このゲストハウスでボランティアしながら、ここに20日ほど暮らしていた。夕方BBQをしようと誘ってくれた。その準備をしていると、お祈りがあるから中断してよいか、と質問された。彼はムスリムだった。イスラム教に興味も多少の知識もあるので、一緒にお祈りしていいか、聞くとぜひと参加させてくれた。

それは静寂の時間だった。目的は祈ることだけだけだから、それ以外はすべてが背景になる。クルマの走る音や風、時刻の変化。日常では感じない時間と空気が流れた。

さっき制作の手を休めて、もうひとつ図書館で借りた「レッドマンのこころ」を読んだ。これは動物記で有名なシートンがインディアンについて書いた本。ここには祈りについて書いてある。

インディアンは無言・沈黙というものに深遠な意味がある...身体と精神の霊の三位一体な完全な平衡状態の表象と信じています。生存競争の嵐の中にあって、あたかも木の葉一枚の揺れ、水面のさざなみほどの騒ぎもみせない沈着・冷静を保つことのできる人...そのひとこそ、たとえ読み書きはできなくても、霊覚者の目には理想的な地上の生活者の模範なのです。

何かを忘れてしまっている。ぼくは作品づくりという行為を通じてその何かに触れようとしている。夜寝て朝起きて気がついた。数十年前までは個人は家族とか会社とか、あらゆる属性に飲み込まれていた。世の中のカタチが変わって、ぼくたちは自分で考え行動できる最前線にいるはずだ。「こうしなければならない」過去からの続きではなく、今ここからの未来を生きているのだから。

昔話は今。未だ見たことのない既視感ある物語を生み出すこと。

裏山に木を切りに行った。妻は蓮の池で草取りをしていた。もう少しでむかし話のお爺さんとお婆さんになるところだった。  

裏山で炭焼きの師匠と輸入材をストップすれば国産材が売れる話しをした。確かに。少し想像しただけでイメージできた。今まで山を放置していた人たちが一斉に興味を持つ。境界線でモメる。争いや妬みが生まれる。山の整備もしないし生態系にも興味ない人たちが懸命に値段を釣り上げる。

今のままがいいと思った。誰も興味もなく放置されている。持ち主に木を切っていいか聞くと「いいよどうぞどうぞ」と喜んでくれる。価値がないから所有欲が消滅している。平和がある。欲望がない場所に立つと自由を感じる。

家の周りに春が訪れた。訪れるだけでなく滞在している。家の前が春の色彩に。田舎にはそんなことが起きる。街には起こらない自然の彩り。あるがままの自然を愛でる以外に価値があるわけじゃない。妻とぼくは気持ちいいね、と幸せを感じるだけ。競争や評価から距離を置いたとき日常が喜びになる。

何か特別な技術があるわけではない。けれども芸術家をしている。アルバイトのときも会社で働いているときもやりたいことが頭から溢れていた。いつも注意されたり怒られた。ボーっとするな、と。違う。想像している。創造しようとしていた。だから自分にやらせてみた。やれるものならやってみろ。

芸術家として独立するとき、活動が継続できる環境から作ることにした。家賃にお金が掛からないとか、作業スペースが広いとか、余計なバイトしなくても成り立つなど。結果、茨城県の山の集落に暮らしている。成功に向けてステップを踏んだわけでも階段を登ったわけでもない。むしろ流れた。高いところから低いところへ。水になった。潤いを知った。足を知る。

山だから身の回りに自然素材がある。ぼくはコラージュ作家としてスタートした。雑誌を切って貼ってイメージを作った。雑誌のページが木や土に変わった。木には木工や彫刻の技術がある。土には陶芸という技術がある。もちろん絵画にも油絵とか日本画とか技術がある。技術を習う選択肢もある。技術を習うことは、既にそこに答えがある。こういう絵がいい作品だよ。こういう作家さんが到達した世界観があるよ。じゃあ、君はどこまでやれるかな。既に種目が用意されている。もちろんその道を追求する素晴らしさ、到達できない境地がある。

作りながら自分が作られているかどうか。そのためには技術そのものを作ること。失敗と脱線の連続。トライ&エラー。人類史のやり直し。素材は自然から手に入れる。土を焼いてみればいい。どうしたら焼いて固まるのか。その過程を作品にすればいい。なぜならそれがオリジナルだから。人間としてのオリジン。起源からやり直す。

木を削ってみればいい。難しい。割れるしササクレる。でもカタチは作れる。技術の試行錯誤の痕跡。それが美しいと思う。

みんながやっているから自分もやる、ということの反対側。誰もやってないからやってみる。すると誰も周りにいない余地に遭遇する。事実誰もいない裏山で師匠と木を切っている。競争相手もいない。価値や常識が去っていった大地のうえ。自然のなか。芸術以前の原始の方へ歩み寄ってみる。

スリット実験というのがある。分子の振る舞いを観察する。分子は観測されると振る舞いが変わるという。つまり観測される前は幾つも可能性を同時に孕んでいて、観測された瞬間にそれはひとつの現実として現れる。それはスロットみたいなものなんだとイメージしてみる。いくつもの成功や失敗の夥しい可能性の束から一本の糸を引くような。

つまり既知のカタチが欲しければ学んで技術を極める。未知と遭遇したければ、とにかくやってみる。ブリコラージュの発想。文化発達以前。フォークアート。民俗。偶然のカタチを引き当てるなら未知の方を選択する。日本画を習うのではなく、自然から顔料を手に入れて何かを描いてみる。線なのか面なのか。記号。抽象。よいわるいを超えて。無意識はやがて無意味に。

あちこちの未知から引き当てた糸が折り重なってまったく新しい織物になる。未知の文脈を現在に統合しカタチとして提示する。それが現代アートというものじゃないか。宝クジに当たるくらいの可能性の話。でも起こり得る。当たるとは、太古から現在に至るまでのあらゆるカタチのなかで、未だ見たことのないしかし、見たことがあるようなオブジェクトを生み出すこと。

文章は目の前に広がる世界に表れているものと違うものを刻むため

さて書こう。文章は目の前に広がる世界に表れているものと違うものを刻むために書く。

アートの語源アルスとは技術の意味で、技術とはまたテクネーで、それは見えないものを見えるようにする意味だとハイデガーが教えくれた。哲学とは意味の最奥へと探検する技術だ。誰もが哲学できる。するべきだ。

つまり文章を書くのは、見えないものを見えるようにするためだ。社会とは解像度の低い映像のようなものだから。「なんとなくそうなっているからそうしている」という、とても危険なものに流されている総意を社会と呼ぶんじゃないだろうか。だとしたら、なんとなく見えているものを高解像度で見てみよう、という試みがアルスで、つまりそれが芸術だと解釈してみてはどうか。提案。芸術を哲学する。

社会と呼ばれる曖昧な設定を新しい眼差しで見みるための表現。見るという行為は、自分の目から広がる。SF作家カートヴォガネットはそれを「穴」と表現した。

わたしという穴から世界を覗いている。みんな世界を覗いている。その覗き穴が、誰かに仕掛けられたものか疑った方がいい。父や母、学校や常識。教育、システム。しかし犯人は特定できない。誰も悪気はないと言う。誰も悪いことをするつもりもないから。自然の法則に従って社会は腐っていく。当たり前だ。すべては崩壊へと向かっている。リンゴも腐るし、木も枯れる。マンションも朽ちていく。新しくなっていくものはないし、腐らないものもない。だから抵抗してみる。だから革命が起きる。新陳代謝。生と死と再生。

アートの原始アルスは、文字よりも貨幣よりも先にあった。国家よりも。だとしたらそれは何のための技術だったのか。運命だと諦めて受け入れられなくなった証。抵抗の旗。結果が見えない先の未来に対する祈りがあっだろう。悪い過去を断ち切るための祈りがあっただろう。続いてきた過去でもなく、この先に予想される未来でもなく、その両側を断ち切った今現在を立ち上がらせるための祈りが必要だ。

今を再編するため歴史を遡る。読書。50年、100年、500年は軽く超えて、かつての思索者たちの軌跡を辿ることができる。いいか、社会はどんどん便利になっていくようだけれど、複雑になってルールは増えて管理されていくばかりだ。ついには自己が身体から離れる。人間に番号が付いたマイナンバー。なんのためか。管理するためでしかない。

しかし、この世界をどのように見ることも自由なのです。穴から覗くだけなのです。穴から見える景色をつくるのです。理想の景色を。自分のイマジナリーな世界をトレースするために文章を書く。絵を描く。彫刻する。

想像してください。どんな生活が理想なのか。(400文字)

吹き荒れる風に舞い上がらないように自分の言葉で踏み締め歩く。

雨だ。朝。雨が降ると制作に集中できる。山に住んでいるから、雨がよく見える。東京に住んでいるときは嫌だった。濡れるし歩きにくいし。今日の雨は強い。作業場の屋根はトタンだから激しく鳴っている。

仕事は彫刻。集落の景観をつくる伐採のときみつけた木。アカガシ。なんとなくこれいいな、と感じた。抱き合う人のカタチを彫っている。それが見えた。ノミで削っていく。習った訳ではない。家を直したりでノミを使うようになって、一応自分で研ぐようになって、なんとなくできる。大工の学校では一年生のときはひたすらノミを研ぐらしい。それに比べてぼくの仕事は適当だ。

専門に彫刻をしているわけじゃない。材料があるからやる。それから「上手い」ということを疑っている。技術を先に身に付けて、それからやるって選択肢もある。というかほとんどそうするだろう。バンド仲間がドラムが分からないからノリが出ない。勉強しなきゃ、と言っていた。

雨が更に強くなってきた。ぼくはやりながら技術を身につけたい派。そんな派があるのか。ないにしても、やりながら成長すれば成功はずっと先。それも楽しいじゃないか。暴風雨だな。今日は。

彫刻はひき算だ。引き過ぎると失敗する。だから少しずつカタチを削り出していく。やっていればそのうち技術は身につく。それは絶対だ。しかも習わなければ、独学すれば、それ自体がオリジナルになる。間違いも含めたオリジナルは作品の強度を高める。技術の競争とは異なる領域で高みを目指す。違う、それは高さではない。それは道だ。

自分でこうやって言葉を紡いで道を切り拓く。それほど注目が集まっているわけでもないし、売れている実感もない。だから自分を応援する。常に社会から測られる価値のサイズがあって、やっぱりお金をたくさん持っていたり、たくさんの支持がある、数字を持つことは、この社会では優位にある。それを目指せ、と社会は強い風のように吹き荒れる。

自分を納得させる言葉。振り回されない環境。それを自分で創出する技術。それが生きるための技術だ。それらがシェルターのように機能して、ぼくは自分の仕事に向き合うことができる。吹き荒れる風に舞い上がらないように自分の道をしっかり踏みしめる足で歩く。だから遅い。

映画「ホピの予言」を観た。昨日。85年に公開されて、時々名前を見かけていたけど見る機会がなかった。再発したDVDを購入した。

ホピはふたつの道を予言していた。ひとつは物質文明の道。もうひとつは大地の道。物質文明の道はホピが暮らす大地からウラニウムを取り出し原爆をつくり広島長崎に落とした。その道はいまもこの社会に続いている。日本には原発がたくさんある。爆発もした。ぼくたちはその悲劇を知っている。もうひとつ大地の道とは、大地と共に生きる。種を蒔き食べ物を手に入れる。むかしながら人間がしてきたこと。

雨を恵みと思えるか、厄介に感じるか。生活が大地と繋がっているか、いないか。

ホピとは平和な人々を意味する。

ほんとうのホピは質素でスピリチュアルないのちの道を...生き残るであろうただひとつのいのちの道を...真に探し求める人たちひとりひとりの頭と心に届くように働きかけ、伝えていくことで、いかに世界のすべての子どもたちに、ほんとうのいのちの道の手本をみせるかを知っている。

ほんとうのホピは、ここに、ホピのチカラこそが世界に変化をもたらす言動力であることを、宣言するものである。

やりたいことがあるなら、まず自分に負けないこと。

言い訳をする。諦める。忘れる。それをしないように抵抗する。自分に。大切なのは自分の側から立ち上がること。相手の側ではなく。怠けない。相手の側で立ち上がってしまえばまるっきり成果や経験を盗まれてしまう。搾取。自分が持っている可能性や価値を信じてくれる人はほとんどいない。それは見えないから。だから多くの人は諦めろ、やめとけ、無理だ、従え、と言う。

昨日撮影取材の打ち合わせをした。それが実行されるかは分からないそうだ。構わない。正直に話した。ぼくがしていることに興味を持ってくれる人がいる。それは見えるからだ。やめとけ、無理だ、従え、を無視してきた未来に、自分の側に立ち上がってきたものが人の目に見えるようになった。

ランドスケープの話をした。集落の草を刈ったり木を切ってランドスケープを作っている。それは設計やデザインしているのですか、と質問された。設計や計画はない。目の前にあるカタチを取り出している。土手や田んぼや畦道、水路、集落の地形は何百年もかかって人の労力でこのカタチになった。そのカタチの使い方も知らなければ、元のカタチも知らない。

そもそも「つくる」がカタチを変えるとかゼロからの創造と考えがち。つくる前にカタチを整える作業がある。はじまる前に整える。楽器であれば調律という。チューニングする。自分を軸にチューニングする。周囲と調和する。会話をする。

朝起きて英会話。先月はゼロ。反省して今月は3日連続。自分の側に立ち上がるのは難しい。これを説明したい。自分がやること。受け身ではなく。SNSを眺めるのではなく発信する。本を読むだけでなく文章を書く。絵を描く。料理する。英会話する。これが自分の側。To do for myselfか。例えば会社に行くために歩くのではなく、自分の健康のために歩く走る。すごく小さな事だけど、積み重なって大きな成果になる。"Stand up by myside"。というか、ほとんどのことがこれで成り立つのではないか。

相手の側に自分を立ち上がらせることもできる。誰かのためにしたことが自分の役に立つような。会社で働いてスキルを身につけて独立したり転職できるような。企画を提案するとか。逆に自分の側のことをやらせてくれない環境もある。

午前中、炭焼きのために木を切った。師匠は巨木を製材している。その端材が板になった。破片。板を手に入れた。木を斧で割った。その木に菌が模様を残していた。まるで木に鳥の象形文字。思いついた。"Black bird". ビヨンセの新作の2曲目はビートルズのこのタイトル曲をカバーしている。調べると68年、公民権運動に対するビートルズのアンサーだったとか。60年を経てビヨンセが歌う。

Blackbird singing in the dead of night
Take these broken wings and learn to fly
All your life. You were only waiting for this moment to arise

菌が描いた模様を彫る。それをできるだけ身の周りのもので色をつけよう。煤と灰がいい。ボンドを混ぜて。鉄媒染もいい。作品をつくるのではなく発見している。日々の生活のなかで発見している。生きるための芸術。

これを書いたあと、スケッチする。そのカタチを自分のものにする。それこそが自分の側。自分の側に仕事を立ち上げる。

簡単は複雑だから何度も丁寧に考え直してお返事します

昨日作品を購入したいと電話をくれた人がいた。「明日お昼前からあとは空いてます」と返事した。午前中に手元にある4点を並べておいた。お客さんは作品をひとつひとつ眺めて感想を言葉にしてくれ一点を選んだ。「やっぱり檻之汰鷲といえばコラージュですからね」と言ってくれた。

6月の個展に向けて制作している。妻は色を塗り、自分は下絵やパネルや額を作り彫刻の準備。パネルや額は家を直して手に入れた木工の技術で、彫刻は炭焼きの延長に技がある。どこか学校で学んだことはない。アート以外の経験が作品づくりの技術になっている。

まったく学校で習ってないかというと、そうでもない。大学は人文学部芸術学科だった。つまり芸術論みたいなものを学んでいたことになる。だから自分で作ったものを自分で分析したり論じたりしているのだと気がついた。

最初の本を出版したくて編集部に持ち込みしたとき、作品集なのか、エッセイなのか、旅行記なのか分からないと言われた。絞らないと売れないし棚がないとも言われた。

つくられるもの、そのカタチはどこからやってくるのか。つまり売れるものでなければ誰かに協力を得ることが難しい。しかし、何かを作ろうと考えるよりも先に作られるものは目の前に既に見えている。そのカタチを取り出す作業の場合が多い。売り場を目指して作っているわけではないから、それはたしかに棚なんて存在しない。

たまに、まったく何もイメージがないところから作るときもある。そういうのは誰かに依頼されるものの場合で、それは目指すものがあって、他人の頭のなかにある漠然としたイメージを掴む作業だからそれはそれで難しい。テレパシーや超能力のように以心伝心によって達成される。ぐらいまぐれ当たりな感じがする。

だんだん何の話しか分からなくなってきたけれど、ものをつくる話しだ。とても個人的な。既に目の前に見えているカタチは自分にしか見えていないから、それをスケッチしたり、構図を検討する。彫刻の場合は、スケッチを元に枝と新聞紙で立体にしてみる。これはパピエマシェというヨーロッパの張子技術の応用。良いものにしたいと考えが浮かぶ。良いとは何か。上手いということではない。目が離せないとか、魅入ってしまう、が適当かもしれない。異性と言うと語弊があるかもだけど、ああ、素敵だな、と見てしまう、あれに似ている。つい写真を撮りたくなる景色もそうだ。

どうして作るべきカタチが見えるのか。というのは素材から作っているからだ。自分たちで種を蒔いて咲いた花は、それは既に絶対的に美しい。間違いがない。それを絵にする。木を伐って、薪を割って、そこになんとなくカタチが見えたりする。それをカタチにする。これは超能力でも天才でもない。誰にでも見える小さな魅力をみつけるだけだ。

今日の夜はパピエマシェでシマウマを作った。先週中野区の壁画制作が雨でお休みになったとき、妻がこんなときこそ制作しなきゃ、と言い出した。素晴らしいと思ったが道具もないよ、と返事すると、だからやるの、と返された。流石だ。じゃあパピエマシェだね、と答えた。材料は、枝、新聞紙、段ボール、小麦粉、水、フライパン、火。世界中どこでもやれる。これぞサバイバル・アートだ。

急遽やることになってイメージがなく、いろいろ考えて、そういえばタヌキはまだ作ったことがなかった、身近にいるのに、でタヌキを作りはじめた。その横で妻はキツネザルを作っていて、シマウマの話しになった。シマウマは、ウマよりもラクダに近く、人間に懐かない。シマウマは野生環境でずっと危険に晒され警戒心が強くなった。何度も人間が飼い慣らそうと挑戦したが無理だった。人間が諦めるとは相当だ。つまりシマウマは野生そのものだ。そんなわけでシマウマを作っている。よいカタチをしている。

個展のタイトルを妻と考えた。妻が「そとしごと」と言った。「屋外の仕事ってこと?」「うん。わたしたちの作品は外から来てるから」「なるほど。いいね」

妻から出てきた言葉。その意味を考える。外の仕事。英語では"Outside of the works"かな。調べてみると、仕事の外だから、余暇と遊びを指すらしい。仕事以外。作品以外。

自分が大事だと掴まえている部分を直接言い表わすことができない。生活芸術とは、それを指す言葉だけど、実際には意味が分からないとも言われる。生活の芸術? 生活そのものを作ること。家をつくる、水を手に入れる、土地を使う、火を使う。つまりそんなぼくは画家ではない。大工でもない。彫刻家でも陶芸家でもない。何者でもない。自分だ。みんな生活しているけど、生活家という職業はない。せいぜい生活者か。つまりアウトサイドだ。アウトサイドを表現している。評論家でも小説家でもない。でも文章を書いて本を出している。すべてのカテゴリーのアウトサイドだ。

ああ今日はいい日だった、という気分をつくる。それが一日を作ること。この一日が積み重なって作品がカタチになっていく。作品とは自分自身だ。

ああ、次の本を出したいと構想していたけど、ここに素材が溜まっている。これが小さな魅力というやつ。どうでもいいかもしれない、いや、束になれば、組み合わせや見せ方によっては化けるかもしれない。化学の変化は可能性。誰の今日にも錬金術はまだありえる。期せずして。

一日のなかに人生がある。一日のなかにモノをつくる時間を持つこと。それは買って済ますのではなく素材をみつけること。これが容れ物で器になる。つまり日々作ったものが誰かを満たせばいい。ぼく自身は永遠に満たされない。なぜなら空っぽだから。ただ湧き出して溢れている。もしくは漏れている。

自分の時間、自分の考え、自分のやりたいこと。

アルバイトをしていたとき、よくボーっとしていると注意された。ときにはクビにもなった。ところが自分としては、ボーっとしているのではなく、次にやる楽しいことをイメージしていた。

みんな同じだと思っていたけど、それぞれ違うことが最近やっと分かってきた。ボーっとしてないで働きなさい、と言われる。いつまでも遊んでないで家に帰りなさい、と言われる。ついには就職しないさい、と。

就職するということは、自分の持っている時間のほとんどを仕事に費やすことになる。大学を卒業して就職した会社で考えごとをしていて、頭を叩かれた。金曜日は遊びに行くので定時に帰っていたら先輩に呼び出され、みんな働いているのだから、みんなが帰るまで新入社員は残れと言われた。

とにかく自分の時間を捨てることを要求され続けた。しかし、やりたいことは水のように湧いてくる。だから会社を1年で辞めてフリーターになった。だとしてやりたいことは、はっきりしてなかった。遊んでいたいだけだった。

そんなだからか分からないけど、仕事は日雇いが向いていた。建築現場などのチカラ仕事。モノを運んだり片付けたり。こういう仕事ではよく働くと褒められた。同じアルバイトにもなんでそんなに頑張るのか、と驚かれた。身体を動かす仕事はさすがにボーっと立ってられないし、身体を動かしているときに考えることはできる。そうやって働いた日当の一万円をその日食べるお金を抜いてレコードや本を買った。

前回ここにマルクスさんの話しを書いた。反論したいところがある。資本家VS労働者という構図はもう古い。労働者は資本家から経験と技術を盗むことができる。それに時代は変わって、残業も少ないし、頭を叩かれるようなこともない。

何が言いたいか。至る場面で自分のままでいられる時代になった。自分の時間、自分の考え、自分のやりたいこと。SNSyoutubeやネットの世界には、自分を発揮する場所がたくさんある。これからもっと増えていくはずだ。

とにかく自分の時間を捨てられなかったぼくは、こう考えた。とにかく没頭してられる仕事はないか。自分のなかで夢中になってても注意されたり怒られない仕事。分かったのはぼくは没頭していたかった。夢中でいたかった。それができるのが遊びだった。遊びの中身は、時代順に並べると、粘土、テレビ、アニメ、マンガ、映画、音楽、読書、バンド、コラージュ、ライブハウス、クラブ、フェスティバルだった。

それで28歳のとき小説家か画家になることにした。それから10年間、音楽関係の仕事をしながら、夜とか休みの日に絵を描いたり文章を書いた。38歳のときアーティストとして独立した。

昨日は一日、パネルや額を作った。木工だ。夜はバンドのMVの直し作業をした。iphoneで撮影した映像を編集した。友達とバンドを25年やってる。売れてない。けど続いている。詩を書いて歌っている。

今朝は起きて、妻と6月の個展のタイトルを話し合った。「そとしごと」はどうか。"Outside of the works" 英語の意味は仕事以外だから、余暇とか遊びというニュアンスになる。妻とふたりで芸術家として仕事をしている。もう没頭してても夢中になってても叱られない。むしろ夢中になってないと妻に注意される。素晴らしい。

どうなってしまうか分からなくて、潰されそうになりながらも、自分の大切なもの、それは卵みたいに簡単に割れてしまう、だけどそれを捨てないで、ずっと持っていた。それが自分というもの。だし、それを捨てても死にはしない。だけど自分という軌跡は消えてしまう。彗星みたいな輝き。いまは仕事をしながら、会社にいながら、家庭にいながら、どんな場所でも自分でいられる。ひとはそれぞれだから、それぞれだけど、もし自分のなかの小さな想いを潰されそうになっている人がいるのだとしたら、それは持ったまま生きていけば、きっとそれを宝物のように理解してくれる人に出会うよ。